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マタイによる福音書11章2節〜19節 洗礼者ヨハネは、弟子たちを通してイエス様に、「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねます。しかし、イエス様は、然りとも、否とも答えず、「行って、耳聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言われました。ある意味判断を、私たちに委ねられたとも思えるような返答です。確かに、イエス様がどんなにキリストだと語られても、私たちが、聞く耳を持たなければ、何の意味もありません。 当時、多くの人々は、イエス様の力ある言葉や行為に、耳を閉ざし、目をふさいでいました。人々にとってイエス様は、ナザレのイエスでしかなかったのです。人々は、イエス様の言葉や行為を、そして、それによって証しされている父なる神を、認めることはできませんでした。 だからこそ、イエス様は、見聞きしていることを伝えなさいと言われるのです。イエス様は、これまでもたらしてきた「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き…」という現実を、どう捉えるのかと、問うているわけです。これは、預言者イザヤが語った神の業と重なります。イエス様は、旧約聖書の時代から待ち望まれているメシアとして働かれたのです。 しかし、それでも、なお、人々は、イエス様を、メシアとして受け入れませんでした。彼らは、いったい何を待ち望んでいるのでしょうか。彼らにとってのキリストとはいったい誰なのでしょうか。 信仰の原点に戻って、自分たちは何(誰)を、何(誰)のために信じようとしているのかが、問われているのではないでしょうか。改めて、私たちにとって、イエスとは何(誰)なのか。共に、聖書に尋ねていきたいと思います。(村田悦牧師) |

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