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マタイによる福音書17章22節〜27節
本日の箇所には、「それゆえ、息子たちは、(神殿税から)自由なのだ。」(26節、岩波訳)というイエス様の言葉が記されています。「息子たち」が誰を指しているのかは議論されるところですが、少なくともイエス様ご自身は、神殿税に対して、自由な立場にあると考えていたということがわかります。
これは、神殿税を徴収していたエルサレム当局に対してだけでなく、聖書のみ言葉に対する反逆とも取られかねない言葉でした。なぜなら、神殿税は、神殿の補修のためだけでなく、命の贖いのためにも献げられていたからです。
神殿税の根拠は、出エジプト記30章11節〜16節と言われています。そこには、「あなたたちの命を贖うために主への献納物として支払う銀は半シェケルである。」(15節)と記されています。当時の人々の間には、一年に一度、神殿税を払わなければ神から罰が下されるという信仰が広がっていたのです。
イエス様の言葉は、そのような神話からの解放を意味しました。神殿税によらず、私たちは、罪からも、死からも、呪いからも解放されているのだということです。しかし、だからと言って、イエス様は、無法地帯に生きなさいとは言われません。「彼らをつまずかせないようにしよう」と言って、神殿税を払うように言うのです。ここに愛への拘束を見出すことができます。
イエス様は、当時、人々を縛り付けていた様々な神話的拘束を解いていかれました。そして、真の神の御心を教えられました。その教えとは、真の愛の教えでした。真の神に忠実に生きるが故に愛に生き、その故に、その他の事柄からイエス様は自由だったのです。ここにキリスト者の自由があるのではないでしょうか。(村田悦牧師)
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