日本バプテスト連盟 大分キリスト教会

礼拝(日曜日10:30)においで下さい。ともにイエス・キリストに出会いましょう。

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マタイによる福音書186節〜14

 本日の箇所には、たった4節のうちに6回も「つまずき」という言葉が使われています。この言葉は、スキャンダルのもとになった言葉だと言われています。その本来の意味は「罠」です。獣の足を止め、身動きが取れないようにして捕まえるための「罠」です。

 この「罠」を人々は喜び、求めます。もちろん自分が罠にかかることを望む人はいません。他人が「罠」にかかるのを喜ぶのです。今年は、特に、芸能人や政治家のスキャンダルが週刊誌やテレビを賑わせています。なぜ、マスコミは、スキャンダルを追いかけるのか。それは、お金になるからです。スキャンダルが大きければ大きいほど、週刊誌はよく売れるし、視聴率も上がるのです。世の中は、スキャンダルを求めているのです。

 そんな世を生きる私たちに、イエス様は「不幸だ」と言われます。スキャンダルは、誰にとっても、良くないことなのです。しかし、それ以上に良くないのは、つまずきをもたらすことです。つまずきをもたらす者は、滅びに至るとイエス様は警告しています。どんなに小さな者であってもつまずかせてはなりません。ここで言われる小さな者とは、世の中で価値のないとされた人々、マスコミのネタにもならない人々です。彼らのスキャンダルなど、誰も興味はないかもしれません。しかし、天のみ使いは、彼らと共にあるのです。

 「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」ここで言われる小さな者とは、つまずきをもたらす者のことです。滅びへと向かうのは、つまずく者ではなく、つまずきをもたらす者です。しかし、天の父は、人をつまずかせる彼らをも、滅びて欲しくなどないのです。(村田悦牧師)

マタイによる福音書181節〜5

 「いったいだれが、天の国で一番偉いのか」弟子たちは、気になっていました。弟子たちの中には、「イエス様の弟子なのだから、天の国では、きっと、高い階級が約束されているはずだ」と思っていた者もいたでしょう。地上の国において、支配される側に置かれていた弟子たちの願望が、映し出されています。

 この世の中は、支配する者とされる者の世界です。それは、経済格差と直結していると言ってもいいでしょう。富んでいる者が貧しい者を支配する世界。

弟子たちは、支配される側の人間として、その如何ともし難い状況に、半ば諦めつつ、天の国という新しい世界に、希望をかけていたのです。

 しかし、天の国の秩序は、弟子たちが考えていたものとは違いました。イエス様は、弟子たちの真ん中に、子どもを立たせ、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」と言います。

 地上の国において、偉くなるということは、支配するということであり、富み栄えるということです。しかし、天の国は違うのです。偉くなるということは、子どものようになるということなのです。子どもは、保護の対象であったとしても、仕える対象ではないでしょう。政治家や芸能人の言葉は、大きく取り上げられますが、子どもの言葉に真剣に耳をかたむける人は、どのくらいいるでしょうか。イエス様は、そんな子どもを真ん中に立たせるのです。偉くなりたいと、高いところに心奪われている弟子たちの視線を、子どもへと向かわせるのです。(村田悦牧師)

マタイによる福音書1722節〜27
 本日の箇所には、「それゆえ、息子たちは、(神殿税から)自由なのだ。」(26節、岩波訳)というイエス様の言葉が記されています。「息子たち」が誰を指しているのかは議論されるところですが、少なくともイエス様ご自身は、神殿税に対して、自由な立場にあると考えていたということがわかります。
 これは、神殿税を徴収していたエルサレム当局に対してだけでなく、聖書のみ言葉に対する反逆とも取られかねない言葉でした。なぜなら、神殿税は、神殿の補修のためだけでなく、命の贖いのためにも献げられていたからです。
 神殿税の根拠は、出エジプト記3011節〜16節と言われています。そこには、「あなたたちの命を贖うために主への献納物として支払う銀は半シェケルである。」(15)と記されています。当時の人々の間には、一年に一度、神殿税を払わなければ神から罰が下されるという信仰が広がっていたのです。
 イエス様の言葉は、そのような神話からの解放を意味しました。神殿税によらず、私たちは、罪からも、死からも、呪いからも解放されているのだということです。しかし、だからと言って、イエス様は、無法地帯に生きなさいとは言われません。「彼らをつまずかせないようにしよう」と言って、神殿税を払うように言うのです。ここに愛への拘束を見出すことができます。
 イエス様は、当時、人々を縛り付けていた様々な神話的拘束を解いていかれました。そして、真の神の御心を教えられました。その教えとは、真の愛の教えでした。真の神に忠実に生きるが故に愛に生き、その故に、その他の事柄からイエス様は自由だったのです。ここにキリスト者の自由があるのではないでしょうか。(村田悦牧師)

マタイによる福音書1714節〜20

 イエス様は、「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」と言われます。驚きの言葉です。この言葉を私たちは、どのように受け止めるでしょうか。

 まず生まれてくるのは、疑問です。「できないことは何もない」なんて、本当だろうか。信じて事に当たっても、上手くいかないことはあるし、失敗もある。どれだけ信じても、できないことは、あるんじゃないだろうか。そんな疑問を抱くでしょう。

 そこから、様々な解釈が始まります。そもそも人間というのは、からし種一粒ほどの信仰すら、持つことは不可能なのだとか、あるいは、「よこしまな時代」と言われているこの時代が、信仰の力をせき止めてしまっているのだとか。

実際そのような解釈の可能性もあるかもしれません。

 しかし、私は、今日このみ言葉を、イエス様からのチャレンジとして聞いていきたいと思うのです。信じてもできないことがあるという前提に立って、あーだ、こーだと、理屈を考えるのではなく、「あなたがたにできないことは何もない」というイエス様の言葉を、受け入れることから始めていきたいと思うのです。そして、何事にもチャレンジしていく。どんなに困難な課題、不可能だと思える課題にも、チャレンジしていく。そのような呼びかけとして、今日のみことばを聞いていきたいと思うのです。(村田悦牧師)
マタイによる福音書171節〜9
 本日の箇所には、イエス様の姿が変わるという、不思議な出来事が語られています。「顔は太陽にように輝き、服は光のように白くなった」「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」「光り輝く雲が彼らを覆った」。いかにも神聖な場面であり、いかにもメシアらしいイエス様が語られています。
 ペテロは、その神秘的な場面に遭遇し、きっと興奮していたのでしょう。イエス様たちが語り合っているところに、割って入っています。そして、三人のために、仮小屋を建てましょうと提案しています。目の前にある神秘的な光景を止めておきたいという想いがあったのでしょう。ペテロにとって、今日の場面は素晴らしい場面であり、そこに描かれているイエス様こそ、期待していた姿だったのでしょう。
 しかし、イエス様は、いつまでも山の上におられるわけではありません。直ちに、山を降りられるのです。そして、十字架に向かって歩まれるのです。十字架に向かわれる姿は、今日の場面に描かれているような、神秘的な姿とは程遠い、弱く、貧しく、醜く、呪われた姿でした。弟子たちはその姿につまずき、イエス様を離れていくことになります。
 私たちも、見た目や、雰囲気に心を奪われやすいものです。だからこそ、注意しなければなりません。神秘的な光景、力、出会いに心を奪われるのではなく、イエス様の言葉に耳を傾ける。「これに聞け」という神の言葉を、しっかりと心に刻みたいと思うのです。言葉は、幻よりも優先されています。イエス様に求めていくべきは、力や奇跡以上に、言葉なのです。(村田悦牧師)

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