日本バプテスト連盟 大分キリスト教会

礼拝(日曜日10:30)においで下さい。ともにイエス・キリストに出会いましょう。

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マタイによる福音書1613節〜20
 ペテロは、イエス様から「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられ、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。イエス様は、この告白の上に私の教会を建てると言われました。その言葉通り、今も、教会は、この信仰告白を受け継いでいます。この告白こそ、教会の原点であり、教会をキリストの教会たらしめる言葉であると言えるでしょう。ペテロは、それだけ重要な告白をしたのです。
 しかしながら、同時に、私たちは、その告白がどれだけもろく、危ういものであるかを知っています。「イエスこそキリストだ」と告白したペテロこそ、イエス様が捕らえられ、十字架にかかられる時、三度も、「そんな人は知らない」と言ったのです。ペテロは、何もわかっていませんでした。その言葉の意味も、その言葉のもつ深さや広さについても、理解していたわけではなかったのです。
 にもかかわらず、イエス様は、ペテロに、天の国の鍵を授けたのです。もちろん、イエス様は、彼の信仰が、どれだけもろく危ういものかを知っていました。それでも、イエス様は、彼の告白を喜び、告白した彼を信頼されたのです。この信頼によって、ペテロは、もろさや危うさを抱えながらも、初代教会のリーダーとして、教会を建て上げることができたのです。
 ペテロのように、私たちの信仰も危ういものです。たった一つのつまずきで、消えて無くなってしまうような危うさを抱えています。しかし、そんな危うさも、無理解も承知で、それでもアーメン(その通り!)と応えてくださる方がいるのです。そのアーメンの言葉によって、私たちは、大胆に信仰を告白することができるのです。私たちの信仰は、イエス様のアーメンによって、支えられているのです。(村田悦牧師)
マタイによる福音書161節〜12
 ファリサイ派とサドカイ派の人々は、イエス様に、天からのしるしを見せて欲しいと願いました。これは、イエス様が、救い主である証拠を見せろということでしょう。それに対して、イエス様は、「空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。」(3)と言われました。「時代のしるし」とは、文脈的に、イエス様が救い主であるしるしのことでしょう。つまり、イエス様は、「すでに、天からのしるしは、与えられている。あなた方の目には、それが見えないのか」とおっしゃっているのです。
 人々は、イエス様に、天からのしるしを求めました。しかし、天からのしるしは、目の前にあったのです。彼らの目は、それを見ていましたが、彼らがそれを、認めようとしないのです。ここに大きな間違いがあるのではないでしょうか。認めようとせず、受け入れようとしない。自分の考え、自分の価値観から一歩も外に出ようとしない。そのような姿勢では、いつまでたっても、しるしなど見ることはできないのです。
 神様は、人知を超えたお方です。その言葉には、私たちの理解を根底から覆すような、あるいは、世の価値観を打ち壊すような力があります。にもかかわらず、人々は、自分という枠の中で、神様を捉えようとしたり、捉えたと思って安心したりしているのです。イエス様は、そのような姿勢に注意しろと言われているのはないでしょうか。
 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ1017)。この聴く姿勢が、重要なのです。(村田悦牧師)

マタイによる福音書1529節〜39

 本日の箇所は、「五千人の給食」(マタイ14:1321)の場面と非常によく似ています。同じような出来事ならば、福音書に二度も繰り返し載せる必要があったのでしょうか。編集過程で、なぜ、一つにまとめられなかったのでしょうか。そこには、一つにまとめられない理由があったのではないでしょうか。

 その理由とはなんでしょう。注目したいのは、文脈です。本日の箇所の直前には、イエス様が、ティルスとシドンにおられたことが記されています。そこは、異邦の地です。三日間一緒にいた群衆の中には、おそらくその土地からついてきた人々もいたでしょう。そう考えると、「五千人の給食」とは違う、また別の奇跡が語られているということになります。

 それは、「共食」の奇跡です。異邦人と一緒に食事をするということが奇跡だったのです。当時、ユダヤ人と異邦人の間には、超えがたい宗教的な壁がありました。当時の宗教指導者達は、律法違反になるという理由で、異邦人との接触を極端に拒んだのです。一緒に食事をするなんてもってのほかでした。しかし、イエス様は、異邦人とも一緒に食卓を囲まれたのです。

 引き裂かれた民が、イエス様の食卓によって一つにされている。ここに和解があります。イエス様は共に食事をするということを通して、和解の御業を示されたのです。食事は、単にお腹を満たすだけでなく、交わりの場であり、分かち合いの場であり、和解の場なのです。

 食事は「何を食べるか」以上に「誰と食べるか」が大事なのです。今の世界にも、引き裂かれた関係があります。黒人と白人、日本人と朝鮮人、琉球(ウチナー)と日本(ヤマト)。イエス様は、今も、引き裂かれた者同士を、同じ食卓に招いておられます。その招きに与っていきたいと思います。(村田悦牧師)

ヨハネによる福音書114

 皆さんは、クリスマスに、誰かにプレゼントを贈ったことがあるでしょうか。その時のことを思い出してみてください。どんな思いでプレゼントを選び、どんな思いで渡したでしょう。また、そのプレゼントは、どのようにして受け取られたでしょうか。

 プレゼントは、クリスマスの喜びの一つでしょう。私も、子ども時代、クリスマスプレゼントを楽しみに待っていたことを思い出します。今年は何がもらえるのかと、ワクワクしながら待っていました。しかし、時に、自分が期待していたものと違ったことがありました。そんな時、私は決まって、不平不満を口にするのです。

 幼い頃の私の関心のほとんどは、何がもらえるのかということに向けられていました。プレゼントしてくれた人の想いに、心を向けることはできませんでした。プレゼントには、プレゼントそのものと共に、たくさんの想いが込められています。想いも込みで、プレゼントなのです。贈る側になって初めて、そのことに気づかされました。

 私たちにとって、クリスマスは、それ自体が、神様からのプレゼントです。神様は、イエス様を、私たちに贈ってくださったのです。どんな想いで贈ってくださったのでしょう。そこにどんな苦労や、悩み、痛みがあったでしょう。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。言は神に属するものであり、肉は人に属するものです。特に肉は、人の弱さや儚さを象徴しています。神の身分であったお方が、人を愛するがゆえに、人の弱さを身に受けてくださった。クリスマスは、そこに込められた神様の愛の大きさを覚える日です。(村田悦牧師)

ヨハネによる福音書129節〜34

 「光とは誰か」。教会でそのように聞くと、当然のように、私たちは、イエス・キリストを思い浮かべます。しかし、イエス・キリストが光であるということは、決して当たり前のことではありません。そこには、旧約聖書の時代から、脈々と受け継がれた信仰があったのです。

 洗礼者ヨハネは、イエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29)と言いました。ここに、ヨハネにとっての光とはなんだったのかということが、示されています。この言葉は、旧約聖書に由来する言葉であると言われています。特に、有名なのは、イザヤ書536節〜7節の言葉です。「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」。ヨハネにとっての光とは、犠牲の小羊として世の罪を担い、苦役を課せられかがみこみ、十字架を背負って死んでいったイエス・キリストだったのです。

 そこには美しさも、明るさもありません。世の罪を担うことで与えられた十字架の傷があっただけでした。しかし、ヨハネはその傷を、光と呼んだのです。その傷にこそ、私たちを暗闇から解放する光があるのです。

 クリスマスに向かって歩む私たちは、何を光と呼び、どこに光を求めるでしょう。美しく華やかな輝きを光と呼ぶでしょうか。イエス・キリストが光と呼ばれるのは、美しさからでも、明るさからでもなく、十字架という傷によってであるということを、改めて心に刻みたいと思います。(村田悦牧師)

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