日本バプテスト連盟 大分キリスト教会

礼拝(日曜日10:30)においで下さい。ともにイエス・キリストに出会いましょう。

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マタイによる福音書1521節〜28

 本日の箇所で、イエス様は、カナンの女の信仰を褒めています。イエス様が、人の信仰を褒めるのは珍しいことです。直接的に信仰を褒められたのは、カナンの女とローマの百人隊長だけでした。彼らは、二人とも異邦人です。毎週礼拝を献げていたわけでも、熱心に聖書を学んでいたわけでもありません。むしろ、当時のユダヤ教社会においては、救いの外側にいると考えられていた人たちです。

 弟子たちにとって、どれだけ衝撃的な出来事だったでしょう。彼らは、イエス様の弟子でありながら、褒められるどころか、二度も「信仰の薄い者たちよ」と言われています。しかも、その二つの場面は非常によく似た場面です。いずれもガリラヤ湖を舟で渡っていた時、嵐に遭遇し、波に悩まされた時の事です。弟子たちは、溺れそうになりながらイエス様に助けを求めます。それに対して言われたのが、「信仰の薄い者たちよ」という言葉でした。しかし、カナンの女も「主よ、どうかお助けください」と言っています。同じように主に助けを求めているにもかかわらず、その評価は180度違うのです。一体どういうことでしょう。何が評価を分けたのでしょう。

 決定的な違いは、「助けてください」という言葉に込められた信頼であると思います。弟子たちは、信頼というよりも、嵐に対する不安や恐怖から、助けを求めています。イエス様に助けを求めるというよりは、藁にもすがる気持ちで助けを求めています。もしかすると、誰でも良かったのかもしれません。それに対して、カナンの女は、イエス様でなければいけなかったのです。イエス様にこそ救いがある。そう確信して、助けを求めたのです。苦しい立場に置かれながらも、彼女の目は希望を見つめています。イエス様は、そんな彼女の信仰を褒めたのです。(村田悦牧師)

マタイによる福音書151節〜20

 本日の箇所は、端的に、私たち人間の本質について語っています。それは、罪人であるということです。私たちは、何かをしたから罪人なのでも、何かをしなかったから罪人なのでもありません。そもそも、私たちは、罪を抱えながら生きているのです。「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来る」(19)と言われているように、私たちの心に罪があるのです。その事実から、逃れることは、誰にもできないのです。

 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエス様の弟子たちが、「昔の人の言い伝え」を破っている事を批判します。まるで、自分たちは、潔白であるかのような口ぶりです。おそらく、そう思い込んでいたのでしょう。そんな彼らに、イザヤの言葉が厳しく響きます。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』(8節、9)

 先日、フランスのパリで、同時多発テロ事件が起こりました。120名を超える人の命が、無差別に奪われました。悲しみや怒りと共に、恐怖を覚えます。そして、テロリストが一刻も早くいなくなることを願っている私がいます。テロリストが殺害されるニュースを見て、安心している私がいます。でも、それでいいのでしょうか。彼らだけが悪なのでしょうか。彼らの視点で、世界を見ていくとき、決して、彼らだけが悪とは言えない現実が見えてくるのではないでしょうか。私たちのもっている罪が具体的に、見えてくるのではないでしょうか。その罪を直視せずに、テロリストだけを悪と呼んでいるうちは、何も解決しないのではないでしょうか。(村田悦牧師)
私は20095月から3ヶ月の間、ネパールに国際ミッションボランティアとして派遣されました。今日は海外宣教の体験だけによらずマタイ福音書から宣教するとはどういうことかを共に分かち合えたらと思います。1)宣教が託されている人とは?今日の箇所を直訳すると、「11人の弟子たちはイエス様に出会いひれ伏し礼拝した。だが彼らは疑いもした。」となり、すべての弟子が信じつつ疑っていた姿が書かれています。宣教が託されているのはこのような、完璧ではない小さなものたちだったのです。2)宣教の場所はどこ?最初の命令に「あなたがたは行って・・・」とあるように、「出て行け」と命令されています。この言葉は境界線を越えていけという意味があります。つまり、宣教の場所とは海外という意味限定的な場所ではなく、あなた自身の境界線を突破し、すべての人々である他者と共に生きる人生を実践しなさいということなのです。3)宣教はどのようになされるのか?マタイでは、この大宣教命令の中に力強く「教会」を描き出しています。その教会に主が共にいてくださると約束してくださっているのです。共にという意味のヘブライ語「イム」という言葉は、非接触的にその人物の傍らにいて、その人物を応援し、その人が自分で歩き立ち上がることのできるようにする関係性なのです。信じつつ疑ってしまう小さな私たちに、主が共にいてくださるように、他者と共に生きていくことが大宣教命令としてゆだねられていることを今一度覚えたいと思います。(永松九見子)

マタイによる福音書1422節〜33

 本日の箇所には、突然の嵐に遭遇し、苦しみ悩む弟子たちの様子が記されています。弟子たちを悩ませた要因として、3つのことが考えられます。1つは、知識と経験が役に立たないこと。弟子たちの中には、ガリラヤ湖で漁師をしていた者もいました。湖のことは誰よりも知っていたでしょう。しかし、解決できないのです。思ように舟が進まないのです。2つ目は、その時が、夜であったこと。辺りは真っ暗。どこに陸があるのか、自分たちは湖のどの辺りにいるのか、全くわかりません。3つ目は、疲労。彼らは、舟に乗り込む以前に、群衆の世話によって、すでに疲れていました。それに加えて、この嵐。しかも、嵐は、夜明けまで続きました。彼らに残された体力は、どのくらいあったでしょう。

 舟は、そんな弟子たちの苛立ちや混乱、不安、疲れに支配されていました。この舟は、時に教会として、時に社会として受け止められてきました。人によっては会社や学校、家庭を思い浮かべる人もいるかもしれません。私たちが乗り込んでいる舟は、今、どのような状態にあるでしょう。その中で、あなたは、どんな状態でしょう。弟子たちのように、転覆しそうな舟の中で、不安を覚えたり、疲れを覚えたりしている方もいるかもしれません。

 イエス様は、そんな舟に近づいて来られるのです。弟子たちは、イエス様だと気づかずに、恐怖の叫び声をあげます。そんな弟子たちに、イエス様は、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかけます。(村田悦牧師)

マタイによる福音書1413節〜21

 弟子たちは、イエス様に「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」(15)と言いました。彼らは、どんな想いでこの言葉を言ったのでしょう。弟子たちは、本当に、集まっている群衆が、自分で食べ物を調達できると思ったのでしょうか。

 この時、イエス様一行は、人里離れた所にいました。そこに集まってきた人々ですから、きっとそれぞれ、切羽詰まった事情を抱えていたことでしょう。でも、解決できることには限界がありました。この時弟子たちが持っていたのは、5つのパンと2匹の魚だけ。たとえ、目の前に、飢えに苦しむ人たちがいたとしても、弟子たちには、人々を満腹にする手立てがなかったのです。「解散させてください」と言いながら、きっと、弟子たちは、罪悪感に苦しんでいたでしょう。

 そんな弟子たちに、イエス様は、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われます。弟子たちにとっては、さぞ痛い言葉だったでしょう。でも、イエス様は、弟子たちを責めるために、そう言われたのではありませんでした。弟子たちは、人々を満腹にすることができたのです。必要は、イエス様が満たしてくださったのです。

 私たちは、イエス様にはなれません。イエス様のような奇跡を起こすこともできません。目の前に苦しむ人がいたとしても、何の助けにもなれないことがあります。でも、イエス様を信じて、そこに身を置いて行く時、イエス様が必要を満たしてくださる。そんな経験をすることができるのかもしれません。(村田悦牧師)

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