日本バプテスト連盟 大分キリスト教会

礼拝(日曜日10:30)においで下さい。ともにイエス・キリストに出会いましょう。

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マタイによる福音書141節〜12

 本日の箇所には、洗礼者ヨハネの死について語られています。しかし、それは、到底納得できるものではありません。なぜ、ヨハネは処刑されたのでしょうか。

 彼を処刑したのは、ヘロデでした。ヘロデは、ヨハネに恨みを持っていました。その原因は、ヨハネの告発でした。ヨハネは、ヘロデとヘロディアの結婚が、律法違反であることを告発したのです。これに怒りを燃やしたヘロデは、彼を牢に閉じ込め、殺してしまおうと考えたのです。しかし、ヘロデは、ヨハネを預言者と信じていた民衆を恐れ、処刑することができませんでした。

 そんなヘロデに処刑の機会を与えたのは、ヘロディアの娘でした。ヘロデは、彼女の舞を見て喜び、「願うものは何でもやろう」と約束してしまいます。それに対して、彼女は、「ヨハネの首を」と願うのです。間違いなく、ヘロディアの入れ知恵であっただろうと思われます。しかしこれも、状況によっては、断ることができたでしょう。

 ヘロデを最後に後押ししたのは、客の存在でした。「客の手前」娘との約束をなかったことにはできなかったのです。土地の領主としての見栄を張ったのです。

 このように、ヨハネの処刑には、たくさんの人々が関わっているのです。誰一人として、ヘロデを止める者はいませんでした。むしろ、人々は、小心者のヘロデを、追い込んでいったのです。

 こんな時代の中で、間違っていることを間違っていると言い抜いたヨハネは、偉大であると思います。このヨハネの姿に倣うものでありたいと願います。(村田悦牧師)

イザヤ書463節〜4

 岩波訳聖書によると4節は、「〔あなたたちが〕老年にいたるまで、わたしはそうだ。〔あなたたちが〕白髪になるまで、わたしは背負う。わたしが作ったのだ。わたしは負おう。わたしは背負って、救い出そう。」と訳すことができます。「わたし」という言葉が、5回も登場していることがわかります。これは、あなた方を背負うのは、他ならぬこの「わたし」である、ということを強調するためです。

 この時、イスラエルの民は、神様に背負われるのではなく、自分たちが神様を背負おうとしていました。金や銀で像を造り、その像に、都合の良い神理解を押し付けて、安心を得ようとしていました。しかし、そのようにして造られた偶像の神は、彼らを背負うのではなく、彼らが背負わなければどこにも行けない神だったのです。そのような神は、本当の神ではないと、預言者は語り伝えたのです。

 私たちが背負うのではなく、私たちを背負ってくださるのが神なのです。私たちは、神様に対して、何かしなければならないと考えます。たくさんの献金を献げたり、神様の掟を厳格に守ったり。それが、神様の求めておられることだと考えます。しかし、神様は、そのようなことを求めてはいません。むしろ、神様は、委ねる姿勢を求めておられます。

 委ねるとは、神様にハンドルを任せることです。自分で運転するのではなく、神様に運転していただくことです。どこに連れて行かれるかはわかりません。しかし、そこに信頼するのです。私たちに必要なのは信頼です。神様の言葉に信頼し、そこに身を委ねていくことを、神様は求めておられます。(村田悦牧師)

使徒言行録91節〜19a

 パウロは、「喜ぶ人共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と書き記しています。悲しい時、自分の隣で、一緒にそのことを悲しんでくれる人がいると、なんだかそれだけで嬉しくなることがあります。嬉しい時、一緒に喜んでくれる人がいると、その喜びは何倍にも大きくなります。このような存在のことを、私たちは、仲間とか、友と呼ぶのだろうと思います。

 しかし、相手によっては、それができない場合があります。喜ぶ姿が憎らしく思ったり、泣いている姿がうれしかったりすることが時にあるわけです。そういう存在のことを、私たちは、敵と呼ぶのだろうと思います。敵の喜ぶ姿は、私たちにとっての敗北であり、敵の泣いている姿は、私たちの勝利です。

 しかし、イエス様は、そのような状態をお許しにはなりません。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われます。そんなイエス様によって出会わされたのが、パウロとアナニアだったのです。

 彼らは、敵同士でした。パウロは、キリスト者を殺そうと意気込んで、ダマスコまでやってきました。それが、ユダヤ教徒としての自分の使命だと思っていました。アナニアは、そのことを知っていました。だから、パウロのもとに行けというイエス様の召しを拒んでいます。それでも、イエス様は、二人を引き合わせるのです。

 イエス様によって出会わされた二人は、兄弟として、共に主を見上げる者になりました。かつては敵同士だった二人が、主によって出会わされた時、彼らは共に変わったのです。変わったのはパウロだけではありません。アナニアも共に新しくされたのです。ここに、主の奇跡があるのです。(村田悦牧師)

エフェソの信徒への手紙214節〜22

 「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」の御言葉、これはわたしが教会形成のイメージとして大切に持ち続け、目指してきた指針です。毎年、年間の表題に「我ら、主の民」と掲げ、その「我ら」の意味を「日本人も外国人もない違いを越えた交わり」と、イメージし続けてきました。そして今や、礼拝参加者の半数近くが外国籍の人々という交わりになりました。「温泉」としては日本有数の観光地ですが、その総住民の中にしめる外国人の比率で言えば、大分県は都道府県全国二位という割合です。そしてそれは他でもなく別府市の変化が大きく影響しています。しかし、そんな別府においても、外国人を受けていく教会というのは、そう多くありませんでした。いや、ほとんど無かった、と言っても良いでしょう。そこで私たちは、思いました。「この町で、外国人が通える教会がないことはおかしい。彼らが喜べる場所になろう」と。相手に通じる言葉を生み出すのは、まずは、相手に近づきたい、相手を受け入れたい、一緒に生きて行きたい、という願いからではないかと思います。その願い、その目標が、確かであれば、その方法はいくらでもあるように思うのです。私たちによくあるのは、「状況が整ったら始めよう」という考え方です。しかし、万事が整っていなくても、自分が出来ないからと言って、何も始められないわけではありません。自分が出来ないことでも、目指す目標が主の御心なら、必ず協力者が送られます。事実、わたしは別府の地で、足りないところを補い進展させるために、「協力者」を代わる代わる送り続けてくださった主の御業を見続けてきました。(吉田真司牧師)

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