日本バプテスト連盟 大分キリスト教会

礼拝(日曜日10:30)においで下さい。ともにイエス・キリストに出会いましょう。

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コリントの信徒への手紙1212節〜27

 本日は、創立65周年記念礼拝です。これまでの歴史に感謝しつつ、新しい歴史に向かって、祈りを合わせ、共に歩みだしていきたいと思います。しかしながら、私たちが踏み出す一歩は、どこに向けての一歩であるべきなのでしょうか。私たちが目指すべき教会とは、いったいどのような教会なのでしょうか。本日の箇所は、教会を語る上で、必ずと言ってよいほど頻繁に触れられる箇所です。教会とは何か、教会は何を大切にすべきなのかということを、教えています。

 パウロは、教会を、キリストの「体」と言い、また一人一人はその「部分」であると言っています。手や足などの様々な部分があることによって一つの体が形成されているように、教会にも、多くの部分が必要なのです。しかも、その部分には、それぞれ違う役割が期待されています。足には足の、手には手の役割が期待されているのです。そうして一つ一つの部分に、それぞれ固有の使命が与えられているのです。どの部分も、決して、軽んじられることはありません。全ての部分が必要なのです。

 当時、コリント教会の人々は、そのことを見失っていました。神様から与えられた霊の賜物を、個人の優劣と結びつけ、人々は、能力ある者を価値ある者と考えました。そして、ある者は傲慢になり、ある者は自らを貶めていました。人々は、教会の中に、必要な人と、そうでない人がいると考えました。そのような考えが、コリント教会を、危機に追い込んでいったのです。

 教会は、「キリストの」体です。私たちは、キリストの体を担うのです。一人で担うのではありません。皆で担うのです。あなたはどこを担いますか。あなたに託されている使命とはなんですか。共に見つけていきましょう。(村田悦牧師)

マタイによる福音書1246節〜50

 ヤコブとヨハネは、舟と父親とを残してイエス様に従ったと記されています(マタイ4:22)。また、イエス様は、「自分の家族の者が敵となる」(10:36)と、弟子たちに語りました。そう言われるように、イエス様に従って行った弟子たちは、少なからず、家族関係の断裂を経験したのです。

 しかし、イエス様は、そんな彼らを指差して言うのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(12:49,50)と。家族を失った彼らにとって、どれだけ嬉しい言葉だったでしょう。「天の父の御心を行う」ことによって、家族関係が引き裂かれていた時代に、イエス様は、そのような者たちの家族となられたのです。

 しかしながら、家族になるとはどういうことでしょうか。イエス様にとって、それは、傷を負うということを意味しました。イエス様は、家族だと言ったその弟子に裏切られ、「あんな人は知らない」と言われ、十字架へと引き渡されて行ったのです。しかし、復活されたイエス様は、再び弟子たちのもとに現れ、いつまでも共にいることを約束されたのです。これこそ、本当の家族なのではないでしょうか。

 家族になるということは、傷つくということです。家族だからこそ、傷つくのです。でも、傷を負いながらも、共に歩んで行こうとするとき、私たちは、家族になっていくのです。イエス様は、私たちと家族になるために、十字架を負いつつ、共に歩んでくださっています。そこにあるのは血のつながりではなく、十字架です。だから、私たちも、互いに十字架を負いつつ、家族になっていきたいと願います。(村田悦牧師)

マタイによる福音書1238節〜42

 私たちの信仰の原点には何があるのでしょうか。なぜ、私たちは、イエスを主と信じるのでしょうか。そこには一体何があるのでしょうか。

 律法学者や、ファリサイ派の人々は、イエス様にしるしを求めます。神に由来するものであると言うなら、目に見えるしるしを見せろというのです。

 確かに、聖書には、しるしによって信仰を持つに至った人々の姿が記されています。たとえば、旧約聖書列王記上17章には、預言者エリヤが女主人の息子を生き返らせる物語が記されていますが、その物語の最後に、母親は「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と言っています。

 しかし、逆に、どんなにしるしを見せても、神を信じ受け入れようとはしない人たちの姿も、聖書には語られています。代表的なのは、出エジプト記に記されているファラオの姿です。ファラオは、神様より10の災いを与えられたにもかかわらず、心頑なに、決して悔い改めることはありませんでした。

 一方で、本日の箇所には、ヨナの言葉によって悔い改めたニネベの人々、ソロモンの知恵を神の知恵として受け止めいった南の国の女王のことが語られています。彼らは、異邦人でありながら、言葉を聞いただけで悔い改めていきました。

 信仰は、しるしによってもたらされるのではなく、私たち一人ひとりの決断によるのです。どんなにしるしを求めても、私たちが決断しなければ、信じることはできないのです。さらに、その決断は、私たちの力だけでたどり着くことはできないと語られています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(一コリ12:3)のです。だから、信仰がなくならないように、互いに祈り合うことが、大事なのです。(村田悦牧師)

マタイによる福音書1233節〜37

 「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである」(34)とあるように、言葉の源は、私たちの心にあります。だから、良い言葉を語るためには、心が良い状態でなければならないのです。

 でも、そもそも、良い言葉とは一体どのような言葉なのでしょうか。優しい言葉、思いやりのある言葉、愛情のある言葉のことでしょうか。本日の箇所には、「つまらない」と言われる言葉について、裁きの日に責任を問われると語られています。「つまらない」言葉とは、生産性のないとか、役に立たない言葉のことを指しています。

 つまり、言葉というのは、本来、何かを生み出すためにあるのだということです。イザヤ書5511節には、「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない」と言われています。言葉によって天地が創られたように、言葉は、何かを生み出すためにあるのです。イエス様も、「言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされ」(8:16)ました。これが、良い言葉なのではないかと思います。

 しかし、なんでも生み出せば良いわけではありません。「口は災いのもと」と言われるように、言葉は、時に、災いを引き起こすもとにもなります。言葉によって、私たちは、何を目指すべきなのでしょうか。パウロは、「和解の言葉」(二コリ5:19)こそ、私たちに委ねられた言葉であると語っています。私たちは、神と人、人と人、全被造物と人を結びつける「和解」のために、言葉を託されているのです。

 また、パウロは、その和解の言葉が、「キリストによって」委ねられた言葉であると語っています。私たちは、その「キリストの言葉」を心の倉に収め、必要な時に取り出して語るようにと、期待されているのです。(村田悦牧師)

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