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マタイによる福音書9章18節〜26節 本日の箇所には、二つの癒しの物語が記されています。指導者とその娘の物語と、12年間出血が続いている女性の物語です。 指導者は言います。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」(18節)。出血が止まらない女性も「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」(21節)と思って、イエス様服の裾に振れるのです。二人の期待は、度を超えていると思わざるを得ません。常識的に言って、そんなことが起こるはずはありません。なぜ、二人は、そんな過度な期待を抱くことができたのでしょうか。 二人が置かれている場所。それは、絶望に支配された真っ暗闇です。娘はすでに死んでいます。女性は12年間も、出血が止まりません。諦めるには、十分です。でも、そこに、イエス様がおられた。だから二人は、希望を捨てなかったのです。もしかしたら、そこに救いがあるかもしれない。疑いも、もちろんあったでしょう。でも、そこに救いを託すしか、選択肢は残されていなかったのです。 そんな、彼らの叫びにも似た信頼に、イエス様は応えて歩みだすのです。指導者の言葉に立ち上がり、女性の想いに振り返られるのです。そうすることで、イエス様は、暗闇の中に輝く光としての使命を全うされるのです。 時に私たちは、信じなければ生きていけないような困難な出来事に直面することがあります。どこかにすがりたい、誰かに叫びたい。絶望的であることは十分わかっていても、希望をもって歩みたい。そんな私たちの傍に、イエス様はおられるのです。(村田悦牧師) |

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