日本バプテスト連盟 大分キリスト教会

礼拝(日曜日10:30)においで下さい。ともにイエス・キリストに出会いましょう。

週報巻頭言から

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マタイによる福音書9章18節〜26節

 本日の箇所には、二つの癒しの物語が記されています。指導者とその娘の物語と、12年間出血が続いている女性の物語です。

 指導者は言います。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」(18)。出血が止まらない女性も「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」(21)と思って、イエス様服の裾に振れるのです。二人の期待は、度を超えていると思わざるを得ません。常識的に言って、そんなことが起こるはずはありません。なぜ、二人は、そんな過度な期待を抱くことができたのでしょうか。

 二人が置かれている場所。それは、絶望に支配された真っ暗闇です。娘はすでに死んでいます。女性は12年間も、出血が止まりません。諦めるには、十分です。でも、そこに、イエス様がおられた。だから二人は、希望を捨てなかったのです。もしかしたら、そこに救いがあるかもしれない。疑いも、もちろんあったでしょう。でも、そこに救いを託すしか、選択肢は残されていなかったのです。

 そんな、彼らの叫びにも似た信頼に、イエス様は応えて歩みだすのです。指導者の言葉に立ち上がり、女性の想いに振り返られるのです。そうすることで、イエス様は、暗闇の中に輝く光としての使命を全うされるのです。

 時に私たちは、信じなければ生きていけないような困難な出来事に直面することがあります。どこかにすがりたい、誰かに叫びたい。絶望的であることは十分わかっていても、希望をもって歩みたい。そんな私たちの傍に、イエス様はおられるのです。(村田悦牧師)

マタイによる福音書22章15節〜22節

 十字架に向かう最後の一週間。ファリサイ派やサドカイ派の人々が、入れ替わり立ち替わりイエス様の前に現れ、訴えるための口実を得るために罠を仕掛けます。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているか」という質問も、巧みに考えられた罠でした。納税を認めれば、ファリサイ派が“神に背く者”という理由でイエス様を追及することができ、納税を認めなければ、ヘロデ派が“ローマ皇帝への反逆者”として訴えることができたのです。ファリサイ派とヘロデ派という立場の違う者同士が手を組むことによって、イエス様を罠にはめようとしたのです。

 それに対して、イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えます。皇帝のものとは、その名が刻まれ、その肖像が彫られている硬貨のことでしょうか。あるいは、皇帝の支配している土地をも含んでいたかもしれません。いや、皇帝が所有している財宝や財産、兵力、全てを含んでいたかもしれません。しかし、その全てを天秤にかけたとしても、「神のもの」と、釣り合うことがあるでしょうか。

 皇帝の権威、支配力は、当時の人々にとって、果てしなく大きなものに見えたかもしれません。しかし、「神のもの」と比べると、その大きさは小さく、いつか消えてしまうようなものでしかないのです。

 イエス様は、この世にある権威を否定はしていませんが、この世のあらゆる権威は、神の権威の下に、相対化されるべきであると教えています。教会は、どんな権威の下にあっても、神の権威に従う群として、この世の権威と相対していくことが求められています。(村田悦牧師)
マタイによる福音書9章14節〜17節

イエス様の語る福音は、新しい布が古い布を引き裂くように、また、新しい葡萄酒が古い革袋を引き裂くように、当時の考え方や価値観を引き裂く力をもっていました。それは、今も変わることはありません。イエス様の語る福音は、どんな時代にあっても、新しさをもって、私たちに迫ってきます。そこには、私たちの考え方や価値観を引き裂く力があるのです。

 ですから、イエス様の御言葉を受け入れるということは、決して簡単なことではありません。ときにそれは、痛みを伴います。考え方や価値観というのは、それまで生きてきた自分の生き様を反映したものです。それが引き裂かれるのですから、当然痛いし、苦しいのです。

 しかし、だからと言って、古い革袋を新しい革袋に交換するように、私たちの考え方や価値観を、すぐに新しく交換することなんてできません。結局、痛みを伴わずして、つまり、それまでの自分の考え方や価値観を引き裂かれずして、御言葉を受け入れることはできません。

 でも、聖書は、その向こう側に、真の希望と喜びがあることを語っています。引き裂かれて終わりではないのです。その向こう側に、全く新しい私たちの人生が用意されているのです。「御言葉に聞く」。イエス様と共に歩む新しい人生は、そこから始まります。(村田悦牧師)

マタイによる福音書9章9節〜13節

 「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、ファリサイ派の人々は問うています。本日の箇所でイエス様は、徴税人を招き、徴税人たちと共に食事をしていますが、ファリサイ派の人々にとって、その行動は、全く考えられない、非常識極まりない行動だったのです。

 徴税人と言えば、当時は、嫌われ者の代名詞でした。彼らの仕事は、ユダヤの地域を支配していた敵国ローマのために、税金を取り立てることでした。ローマは、自分たちに怒りが向けられないようにするため、その仕事を、ユダヤ人にさせていました。「あいつは、ユダヤ人なのに、敵国ローマのために、税金を取っている。あいつはローマの手先だ!裏切り者だ!」。ローマの思惑通り、人々は、徴税人を憎み、彼らに怒りを向けていました。

 そんな徴税人を招いて、イエス様は、食事をしたのです。食事というのは、単にお腹を満たすための手段ではありません。それは、共同体性の表れであり、交わりの象徴でした。何を食べるかということも大事ですが、誰と食べるかということが問われた時代だったわけです。イエス様は、そのことを承知で、あえて徴税人や罪人たちを招いて、食事をされたのです。

 ファリサイ派の人々に、イエス様は 「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」と言われました。いけにえを献げることは、当時の礼拝の中心的行為でした。しかし、そのいけにえ以上に神様が求めておられることがある。それは愛であり、憐れみであると、イエス様は教えておられるのです。(村田悦牧師)

マタイによる福音書8章28節〜34節

 本日の箇所には、二人の悪霊に取りつかれた者たちとイエスさまとの出会いが語られています。彼らは、墓場から出て、イエス様のもとにやってきました。なぜ、墓場からやってきたのでしょうか。

 聖書は、彼らの方から、イエス様のもとにやってきたと語っています。彼らは、悪霊に支配されながらも、自分たちの意思で、イエス様のもとにやってきました。イエス様は、彼らを受け止め、彼らから悪霊を追い出します。

 追い出された悪霊は、豚の群れに取り憑き、湖の中に引きずり込んで皆殺しにしてしまいます。豚飼いたちは、逃げ出して町に行き、事の次第を人々に知らせます。すると人々は、イエス様のもとにやってきて、「出て行ってもらいたい」と言うのです。

 「出て行ってもらいたい」。この言葉と、悪霊に取り憑かれた二人が、墓場に身を寄せるしかなかったこととは、決して無関係ではなかったと思います。悪霊に取り憑かれた二人も、悪霊を追い出したイエス様も、彼らにとっては同じ、得体の知れないものでした。「関わりたくない、怖い」。そういう想いの中で、人々は、彼らとの出会いを避けたのではないでしょうか。

 出会うことは、時に恐ろしいことです。でも、恐れに留まっていては、出会うことはできません。また、今日の二人のように、恐れによってつながりを切られ、遠ざけられている人々がいます。イエス様は、恐れなく、そのような人々と出会われました。恐れずに、出会っていきましょう。出会いの中にこそ、イエス様はおられるのです。(村田悦牧師)

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