日本バプテスト連盟 大分キリスト教会

礼拝(日曜日10:30)においで下さい。ともにイエス・キリストに出会いましょう。

週報巻頭言から

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マタイによる福音書8章23節〜27節
 本日の箇所には、まず「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」と記されています。おそらく、彼らは、この後、激しい嵐に遭遇するなんて思ってもいなかったでしょう。舟の上で安心して休息していた、まさにその時、嵐は襲ってきたのです。予想もしない出来事に、舟の上はパニックになります。弟子たちのもっていた経験や知識は、何の役にも立ちません。舟の上を、ただ恐怖だけが支配していきます。
 しかし、その時、イエス様は、舟の上でただ一人、眠っていました。慌てて弟子たちは、イエスさまを起こし助けを求めます。その弟子たちに対して、イエス様は「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と呼びかけるのです。
 イエス様にとっては、嵐よりも、嵐に翻弄されている弟子たちの方が問題だったのです。弟子たちは、その時、誰が共に舟に乗っているのかということを見失っていました。イエス様は、弟子たちにそのことを示すかのようにして、風と湖とを叱りつけ、嵐を静められました。
 「信仰の強さは、主により頼んで、主によって支えられるということにある」と、ある神学者は言っています。つまりそれは、主に委ねるということです。人生の舵を主に委ねることができるかどうか。それが今日、問われています。
 人生の海の嵐に、揺さぶられ転覆しそうになる私たちに、キリストは今日も「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。私が共にいるではないか」そう呼びかけています。この呼びかけに応え、キリストに従っていきたいと願います。(村田悦牧師)

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ2819節〜20節)」ある人はこれをキリストの宣教大命令と呼んで、従うべき事柄と捉えているようですが、私は命令というよりも忍耐と寛容をもって弟子たちを受け入れ、遣わしていこうというイエス様の決意のように思います。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。(ローマ101415節)」私が与えられたこの喜びと平安を一人でも多くの人に届けたい。そう願う私たちをイエス様はこの言葉をもって、一切の権能により私たちを押し出してくださると信じます。

 私たちは何のために汗をかくのですか?私はキリストの福音のために汗をかきたいのです。そして、その汗をかく場所は必ずしも教会ではなく、むしろ外にあります。その汗は時に冷や汗かも知れないし、血の混じる汗かも知れません。しかし、そこにいつも共にいてくださる主を感じることのできる幸いを見るでしょう。そして、外で疲れを覚えて教会に帰ってくる。教会には同じ信仰を持った仲間がいて、同じ心で主を礼拝することで力を得、福音を携えてまた出ていく。教会の集まりはそのようでありたいと願います。(石井 達)
マタイによる福音書8章18節〜22節
 皆さんは、新しい年に、何を期待されますか?どんな目標を立てられたでしょうか?目標を持って歩むというのは、大切なことです。教会も、立たされている場所、時代、状況の中で、み言葉によって示されたテーマを歩んでいきます。状況が変われば、テーマも変わっていくべきでしょう。しかし、いつの時代も変わらない、変わってはいけない教会のテーマというものがあるのではないかと思います。それが、「従う」というテーマです。いつの時代も「み言葉に従う」「キリストに従う」。それが、教会です。
 では、「従う」とは、一体どういう行為なのでしょうか。今日の箇所には、「従う」ことの厳しさが、語られています。
 ある律法学者は、イエス様に向かって言いました。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。しかし、イエス様は、その時、群衆から離れて、向こう岸へ渡ろうとされていました。それを制止するかのようにして、律法学者の言葉が語られています。彼は、彼のタイミングで、彼の想いの中で、真剣にイエス様に願い出たのかもしれません。しかし、イエス様にとっては、「その時」ではなかったわけです。
 聖書には、弟子たちが、イエス様の招きに応えて従っていく様子が記されています。彼らは、突然、イエス様によって召し出されました。そのタイミングは、決して彼らのタイミングではありませんでした。だからこそ、彼らは、多くのものを断念せねばなりませんでした。
 主導権は神様にあります。神様の招きに応え、神様の使命に仕える。それが「従う」ということです。(村田悦牧師)
フィリピの信徒への手紙3章12節〜16節
 新しい年が始まりました。今、私たちはスタート地点に立っています。しかし、すべての人が同じ地点に立っているわけではありません。準備万端な人もいれば、すでに、出遅れたと思っている人もいるかもしれません。年の始まり、新しい出発と言っても、出発するところは、それぞれ違うわけです。でも「そこ」がそれぞれのスタート地点であり、「そこ」から前進して行くようにと、パウロは語っています。大事なのは前進していくことです。
 パウロは、自らについて「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」と語っています。もともとパウロは、ヘブライ人の中のヘブライ人として、実績も栄誉も手に入れていました。でも、それら全てを無用なものとして捨て去り、彼は、不完全なものとなったのです。
 パウロを不完全なものとしたのは一体何だったのか。それは、キリストとの出会いでした。キリストと出会い、キリストによって捕らえられたと確信してから、彼は走り出しました。義務感からではなく喜びによって、彼は、キリストという目標に向かって、走らずにはおれなくなったのです。
 キリストを目指して走ることは大変なことです。その道は険しく、果てがありません。でも、パウロにとってその道は、喜びに満ちた道でした。キリストとの出会いが、彼をそうさせたのです。
 新しい年、たとえその道が険しく果てしない道であったとしても、パウロと同じように、キリストに捕らえられたという確信に押し出されて、喜び歌いつつ、前進し続けていきたいと願います。(村田悦牧師)
マタイによる福音書8章14節〜17節
 「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(イザヤ534)。イエス様は、このみ言葉を成就するために、病人を癒し、悪霊を追い出したと、福音書記者マタイは記しています。イエス様が背負われたのは、私たちの患いであり、私たちの病だったというのです。
 当時のユダヤ教社会において、病気は、本人か、もしくは、その先祖が犯した罪に対する神からの罰だと考えられていました。よって病人は、罪も、病気も、自分一人で背負わなければいけなかったわけです。しかし、イエス様は、病人が抱えるその重荷を、自分自身の重荷として担われたのです。病による苦しみや痛みを、自分の苦しみや痛みとして担われたのです。だから、たくさんの病人や悪霊にとりつかれた人々と積極的に出会い、癒されたのです。
 もちろん、そんな責任も義務も、イエス様にはありません。「お前が悪い」と言って、関わりを避けることもできました。でも、イエス様は、ほっておけなかったのです。なぜか。それは、神が、ほっておかれないからです。
 罪に対する罰として病気を与えるのが神なのではなく、むしろ、病人や罪人をほっておけないのが神なのです。それが、イエス・キリストによって、示された真実の神の姿です。一人一人が神にとってほっておけない大事な存在なのです。だからこそ、神は、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。
 行いにも功績にもよらず、ほっておけない神によって、私たちは、今も、担われています。「あなたの重荷は、私の重荷」そう言って、伴い続けてくださるお方がいる事を、忘れないでいたいと思います。(村田悦牧師)

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