日本バプテスト連盟 大分キリスト教会

礼拝(日曜日10:30)においで下さい。ともにイエス・キリストに出会いましょう。

週報巻頭言から

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マタイによる福音書131節〜9節、18節〜23

 あなたの心は、今、どんな状態でしょう。どこに向けられているでしょうか。み言葉を受け止めていく時に、私たちの心がどんな状態であるか、どこに向けられているかということは、非常に重要なことです。イエス様は、そのことを、種蒔きのたとえを用いて語っています。ここで言われている種とは、イエス様が語られたみ言葉のことであり、神の国の福音のことです。その種が、実を結ぶために欠かせないのは、撒かれた土地の状態であると言われています。

 4つの土地が紹介されています。1つ目は道端です。道端に落ちた種は、地面の硬さゆえに、実ることはありません。これは、私たちの頑なな心の状態を表しています。2つ目は石地です。石地とは、岩の上に土の層が薄くかぶさっている土地のことです。そのような土地では、根をはることができないため、太陽が照り付けるとすぐに枯れてしまいます。これは、私たちの浅はかな状態を表しています。3つ目は茨の土地です。茨の土地では、茨が邪魔をして、種の成長を押し止めてしまいます。これは、世の思い煩いや富の誘惑に、心を奪われてしまっている状態を表しています。

 私たちの心は、時に頑なで、時に浅はかで、誘惑に弱いものです。そんな私たちにとって、み言葉を受け止めていくということは、簡単なことでありません。しかし、イエス様は、4つ目の土地に希望をもっています。良い土地があると言われているのです。良い土地に撒かれた種は、何十倍、何百倍もの実りをつけると言われています。私たちには、そのような土地になる可能性があるのです。イエス様は、その可能性を信じて、今も、福音の種を撒いておられます。(村田悦牧師)

エフェソの信徒への手紙214節〜22

 「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」の御言葉、これはわたしが教会形成のイメージとして大切に持ち続け、目指してきた指針です。毎年、年間の表題に「我ら、主の民」と掲げ、その「我ら」の意味を「日本人も外国人もない違いを越えた交わり」と、イメージし続けてきました。そして今や、礼拝参加者の半数近くが外国籍の人々という交わりになりました。「温泉」としては日本有数の観光地ですが、その総住民の中にしめる外国人の比率で言えば、大分県は都道府県全国二位という割合です。そしてそれは他でもなく別府市の変化が大きく影響しています。しかし、そんな別府においても、外国人を受けていく教会というのは、そう多くありませんでした。いや、ほとんど無かった、と言っても良いでしょう。そこで私たちは、思いました。「この町で、外国人が通える教会がないことはおかしい。彼らが喜べる場所になろう」と。相手に通じる言葉を生み出すのは、まずは、相手に近づきたい、相手を受け入れたい、一緒に生きて行きたい、という願いからではないかと思います。その願い、その目標が、確かであれば、その方法はいくらでもあるように思うのです。私たちによくあるのは、「状況が整ったら始めよう」という考え方です。しかし、万事が整っていなくても、自分が出来ないからと言って、何も始められないわけではありません。自分が出来ないことでも、目指す目標が主の御心なら、必ず協力者が送られます。事実、わたしは別府の地で、足りないところを補い進展させるために、「協力者」を代わる代わる送り続けてくださった主の御業を見続けてきました。(吉田真司牧師)

ゼカリヤ書17節〜17

 預言者ゼカリヤは、幻のなかで、主によって遣わされた巡回者と、主の御使いに出会います。巡回者は、地上を巡回し、「地上の人々はすべて安らかに暮らしています」と報告しています。しかし、御使いは「万軍の主よ、いつまでエルサレムとユダの町々を憐れんでくださらないのですか。あなたの怒りは七十年も続いています」と言っています。

 巡回者が語った地上の平安は、イスラエルの民にとって、主の怒りであったのです。なぜなら、その時あった地上の平安は、この世の力による平安であり、多くの犠牲の上に成り立つ平安だったからです。イスラエルの民は、その犠牲者だったのです。

 カルヴァンは、この時の平安を、「呪われた幸せ」と呼びました。大きな争いもなく、一見平和そうに見える社会。多くの人々が、満足とまではいかないにしろ、一定の幸福を享受していました。しかし、その陰に隠れて、痛みを押し付けられ、犠牲を強いられている人々がいたのです。

 主の御使いは、犠牲者であるイスラエルの民のために執り成し、神に、「なぜ、地上の悪しき平安を見過ごされるのか」、「いつまで、イスラエルの民は見捨てられなければならないのか」と、訴えています。

 御使いのように、見せかけの平和に騙されるのでなく、弱者や犠牲者の側に立ち、主に執り成しを祈るのは、教会に与えられている使命でしょう。見るべきもの、聴くべき声は、隠されています。見えなくされ、聴こえなくされています。その声を聴くのは、非常に大変なことかもしれません。でも、そこに、真実の姿はあるのです。主は、隠される苦しみを見出し、かき消される声に耳を傾けます。そして、恵みと慰めに満ちた言葉をもって答えます。(村田悦牧師)

コリントの信徒への手紙1212節〜27

 本日は、創立65周年記念礼拝です。これまでの歴史に感謝しつつ、新しい歴史に向かって、祈りを合わせ、共に歩みだしていきたいと思います。しかしながら、私たちが踏み出す一歩は、どこに向けての一歩であるべきなのでしょうか。私たちが目指すべき教会とは、いったいどのような教会なのでしょうか。本日の箇所は、教会を語る上で、必ずと言ってよいほど頻繁に触れられる箇所です。教会とは何か、教会は何を大切にすべきなのかということを、教えています。

 パウロは、教会を、キリストの「体」と言い、また一人一人はその「部分」であると言っています。手や足などの様々な部分があることによって一つの体が形成されているように、教会にも、多くの部分が必要なのです。しかも、その部分には、それぞれ違う役割が期待されています。足には足の、手には手の役割が期待されているのです。そうして一つ一つの部分に、それぞれ固有の使命が与えられているのです。どの部分も、決して、軽んじられることはありません。全ての部分が必要なのです。

 当時、コリント教会の人々は、そのことを見失っていました。神様から与えられた霊の賜物を、個人の優劣と結びつけ、人々は、能力ある者を価値ある者と考えました。そして、ある者は傲慢になり、ある者は自らを貶めていました。人々は、教会の中に、必要な人と、そうでない人がいると考えました。そのような考えが、コリント教会を、危機に追い込んでいったのです。

 教会は、「キリストの」体です。私たちは、キリストの体を担うのです。一人で担うのではありません。皆で担うのです。あなたはどこを担いますか。あなたに託されている使命とはなんですか。共に見つけていきましょう。(村田悦牧師)

マタイによる福音書1246節〜50

 ヤコブとヨハネは、舟と父親とを残してイエス様に従ったと記されています(マタイ4:22)。また、イエス様は、「自分の家族の者が敵となる」(10:36)と、弟子たちに語りました。そう言われるように、イエス様に従って行った弟子たちは、少なからず、家族関係の断裂を経験したのです。

 しかし、イエス様は、そんな彼らを指差して言うのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(12:49,50)と。家族を失った彼らにとって、どれだけ嬉しい言葉だったでしょう。「天の父の御心を行う」ことによって、家族関係が引き裂かれていた時代に、イエス様は、そのような者たちの家族となられたのです。

 しかしながら、家族になるとはどういうことでしょうか。イエス様にとって、それは、傷を負うということを意味しました。イエス様は、家族だと言ったその弟子に裏切られ、「あんな人は知らない」と言われ、十字架へと引き渡されて行ったのです。しかし、復活されたイエス様は、再び弟子たちのもとに現れ、いつまでも共にいることを約束されたのです。これこそ、本当の家族なのではないでしょうか。

 家族になるということは、傷つくということです。家族だからこそ、傷つくのです。でも、傷を負いながらも、共に歩んで行こうとするとき、私たちは、家族になっていくのです。イエス様は、私たちと家族になるために、十字架を負いつつ、共に歩んでくださっています。そこにあるのは血のつながりではなく、十字架です。だから、私たちも、互いに十字架を負いつつ、家族になっていきたいと願います。(村田悦牧師)

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