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マタイによる福音書12章38節〜42節 私たちの信仰の原点には何があるのでしょうか。なぜ、私たちは、イエスを主と信じるのでしょうか。そこには一体何があるのでしょうか。 律法学者や、ファリサイ派の人々は、イエス様にしるしを求めます。神に由来するものであると言うなら、目に見えるしるしを見せろというのです。 確かに、聖書には、しるしによって信仰を持つに至った人々の姿が記されています。たとえば、旧約聖書列王記上17章には、預言者エリヤが女主人の息子を生き返らせる物語が記されていますが、その物語の最後に、母親は「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と言っています。 しかし、逆に、どんなにしるしを見せても、神を信じ受け入れようとはしない人たちの姿も、聖書には語られています。代表的なのは、出エジプト記に記されているファラオの姿です。ファラオは、神様より10の災いを与えられたにもかかわらず、心頑なに、決して悔い改めることはありませんでした。 一方で、本日の箇所には、ヨナの言葉によって悔い改めたニネベの人々、ソロモンの知恵を神の知恵として受け止めいった南の国の女王のことが語られています。彼らは、異邦人でありながら、言葉を聞いただけで悔い改めていきました。 信仰は、しるしによってもたらされるのではなく、私たち一人ひとりの決断によるのです。どんなにしるしを求めても、私たちが決断しなければ、信じることはできないのです。さらに、その決断は、私たちの力だけでたどり着くことはできないと語られています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(一コリ12:3)のです。だから、信仰がなくならないように、互いに祈り合うことが、大事なのです。(村田悦牧師) |

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