日本バプテスト連盟 大分キリスト教会

礼拝(日曜日10:30)においで下さい。ともにイエス・キリストに出会いましょう。

週報巻頭言から

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マタイによる福音書121節〜14

 本日の箇所には、二つの論争の場面が記されています。一つは、ファリサイ派の人々とイエス様との論争。もう一つは、イエス様を訴えようと罠を仕掛ける人々と、イエス様との論争が語られています。この二つの論争において、共通しているのは、安息日についての論争であるということです。

 安息日は、創造の第七日目に、すべての働きを終えて休まれた神様が、聖別し、祝福された日です。そのことから、安息日には、誰も、いかなる仕事をもしてはならないと定められていました。ユダヤ人にとって、この安息日の掟は、侵すことの許されない、絶対的なものでした。

 ファリサイ派の人々は、安息日に麦の穂を摘んで食べている弟子たちを見て、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言いました。弟子たちが、律法に違反しているという光景だけを、彼らは見つめているのです。弟子たちが空腹で苦しんでいる姿は、彼らの目に入っていません。

 また、イエス様を訴えようと罠を仕掛ける人々は、片手の萎えた人を見ながら「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねました。片手の萎えた人の苦しみや、痛みは、彼らの視界には入りません。彼らにとって、この片手の萎えた人というのは、イエス様を訴えるための良い材料でしかないのです。

 イエス様は、そのように見るべきものが見えなくなってしまった人々に対して「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」と言われます。ここに、私たちが見失ってはいけない大切なものがあるのです。 (村田悦牧師)

マタイによる福音書1125節〜30

 人生には、時に、負いきれない重荷を背負わなければならないことがあります。そんな時、皆さんは、どこに助けを求めますか。助けを必要としながらも、助けてと言えず、独りで背負いこんではいませんか。そんな人々に、イエス様は「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われるのです。

 他のだれでもなく、どこでもなく、イエス様のもとに休息があるのです。私たちは、イエス様にこそ、休息を求めていくように招かれているのです。しかし、同時に、その招きは、軛へと繋がっています。

 イエス様は、「わたしの軛を負いなさい」とおっしゃっています。なぜ、軛を負うことが、休息を与えることになるのでしょうか。ここで重要なのは、負いなさいと言われる軛が、「わたしの」軛であるということです。イエス様がすでに負っている軛の隣に、私たちは、招かれているのです。

 しかも、その軛は、私たちの重荷につながっているのです。イエス様は、十字架の死に至るまで、私たちの重荷を背負って歩まれました。そして、今も、私たちと共に、私たちの重荷を背負って歩んでくださっています。イエス様が負っている軛は、私たちの重荷を負うための軛なのです。イエス様と共に軛に与っていく時、私たちは、そのことに気づくのです。そこに、真の休息と平安があるのです。

 誰もが重荷を負って生きています。その重さに今にもつぶされてしまいそうな人もいるかもしれません。そんな方々に知ってほしいのです。その重荷を、「共に」負ってくださっている方がいるということを。しかも、「わたしの重荷だ」と言って、負ってくださっているということを。だから、どんなに苦しい時も、「あなたは決して独りじゃない」。(村田悦牧師)

マタイによる福音書1120節〜24

 本日の箇所で、イエス様は、ガリラヤの町々を、叱っておられます。ガリラヤの町々というのは、イエス様が、最も多くの奇跡を行われた場所だと言われています。にもかかわらず、彼らは、悔い改めようとしないのです。イエス様は、そのような有り様を、非難しておられるのです。

 このイエス様の姿を通して、イエス様の願っておられることは、人々の悔い改めであるということ。また、悔い改めないことは、審きの日の罰とつながっているということ。そして、その罰は、非常に重たいということがわかります。イエス様は、そのことを、叱りつけながら、語り知らせているのです。なぜならば、彼らには、まだ、助かる見込みがあるからです。

 叱りつけた後、イエス様は、「私のもとに来なさい」(28)と、彼らを招かれます。悔い改めないことが決定している人々を、わざわざ招くはずがありません。イエス様は、まだ、彼らを、諦めておられないのです。叱りつけ、脅かすことによって、彼らが立っている現実を知らせ、そのままではいけないと呼びかけておられるのです。この呼びかけこそ、悔い改めへの招きなのです。

 「悔い改め」と訳されている言葉は、「メタノイア」というギリシャ語です。この言葉の本来の意味は、「ヌース」(考え、思いという人間を動かすもの)を「メタ」(移す、変える)ということにあります。罪を反省して、もうしないようにするというのではなく、私たちの行動の動機となる部分を変えるということなのです。私たちは、何によって行動を起こすでしょうか。イエス様は、何によって行動されているのでしょうか。その違いに、目を向けていきたいと思います。(村田悦牧師)

マタイによる福音書112節〜19

 洗礼者ヨハネは、弟子たちを通してイエス様に、「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねます。しかし、イエス様は、然りとも、否とも答えず、「行って、耳聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言われました。ある意味判断を、私たちに委ねられたとも思えるような返答です。確かに、イエス様がどんなにキリストだと語られても、私たちが、聞く耳を持たなければ、何の意味もありません。

 当時、多くの人々は、イエス様の力ある言葉や行為に、耳を閉ざし、目をふさいでいました。人々にとってイエス様は、ナザレのイエスでしかなかったのです。人々は、イエス様の言葉や行為を、そして、それによって証しされている父なる神を、認めることはできませんでした。

 だからこそ、イエス様は、見聞きしていることを伝えなさいと言われるのです。イエス様は、これまでもたらしてきた「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き…」という現実を、どう捉えるのかと、問うているわけです。これは、預言者イザヤが語った神の業と重なります。イエス様は、旧約聖書の時代から待ち望まれているメシアとして働かれたのです。

 しかし、それでも、なお、人々は、イエス様を、メシアとして受け入れませんでした。彼らは、いったい何を待ち望んでいるのでしょうか。彼らにとってのキリストとはいったい誰なのでしょうか。

 信仰の原点に戻って、自分たちは何()を、何()のために信じようとしているのかが、問われているのではないでしょうか。改めて、私たちにとって、イエスとは何()なのか。共に、聖書に尋ねていきたいと思います。(村田悦牧師)

マタイによる福音書1032節〜111

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(10:34)。この言葉に、衝撃を覚える人は、少なくないのではないでしょうか。平和の主と呼ばれるイエス様が、なぜ、こんなことを言われたのでしょうか。

 「もたらす」と訳されている言葉の、基本的な意味は「投げる」です。つまり、「平和をもたらす」という言葉には、「平和」が外側から投入されるというニュアンスが含まれているわけです。ここが、重要なポイントなのではないでしょうか。イエス様は、山上の説教の中で、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(5:9)と言われました。「平和」というのは、外側から投入されるものではなく、内側から実現していくものなのだということです。

 そして、そのためには、私たち自身が、変わらなければなりません。置かれている現実に満足せず、平和を作り出すために変わっていかなければなりません。その時に、必然的に起きる衝突があります。それは、変化を嫌うものとの衝突です。変えたくない、変わりたくないという力との衝突です。この衝突とどう向き合っていくかが、問われているのです。

 それまでの自分の生き方や、在り方を変えるということは、大変なことです。大きな決断のいることです。しかし、イエス様は、「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と教えています。変わっていく先に、本当の命との出会いが約束されているのです。この約束に向かって、ご一緒に、一歩踏み出してみませんか。(村田悦牧師)

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