日本バプテスト連盟 大分キリスト教会

礼拝(日曜日10:30)においで下さい。ともにイエス・キリストに出会いましょう。

週報巻頭言から

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マタイによる福音書1026節〜31

皆さんには、「恐いもの」があるでしょうか。「恐いもの」があるということは、決して、悪いことではありません。むしろ、生きていくためには、大切なことであると聖書は語っています。しかし、同時に、イエス様は、私たちが、「何を」恐れるべきか、ということを教えておられます。

 結論として、イエス様は、人々を恐れるなということを語ります。この人々とは、迫害する者たちのことです。1016節〜23節において、警戒しなさいと言われた人々のことです。派遣されていこうとする弟子たちに対し、イエス様は、その道のりに待ち受けている困難を明らかにされると同時に、それが、恐れるべきことではないということを、語っているわけです。

 その理由として、2つのことが、語られています。1つは、イエス様によって教えられていることが真実であるということです。どんなに人々に馬鹿にされようとも、責められようとも、真実であるということです。そして、いつか、それが、誰の目にも明らかになる日が来ると言われます。だから、大いに福音を宣べ伝えるようにと、イエス様は仰るわけです。

 また、2つ目は、神の力です。人ができることは限られていますが、神の力は、地獄で魂を滅ぼし尽くすまでおよぶことが、語られています。そして、その力は、私たちが、取るに足らないとしているものにさえも、およんでいることが語られています。そんなお方をこそ恐れるべきであり、そんなお方にこそ、心を向けるように、イエス様は教えておられるのです。

 私たちは、日頃、様々な事にとらわれ、気にしながら生きています。でも、本当に気にすべきお方は誰なのか。改めて心に覚えたいと思います。(村田悦牧師)

マタイによる福音書2531節〜46

 本日の箇所には、終末の審きにおいて、何が基準とされるのかということが、教えられています。その基準とは、「私」、すなわち、審き司であるイエス様に対して、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねたかどうか」です。それによって、右(永遠の命、御国の継承)か左(永遠の罰、追放)に分けられるのです。

 しかし、右に置かれた人々は、「主よ、いつ私たちは、そんなことをしたでしょうか」と答えています。彼らは、イエス様にした覚えがないのです。それもそのはず。彼らは、直接イエス様にしてはいないのです。彼らがした相手は、イエス様ではなく、「最も小さい者」(飢えている人、喉が渇いている人、余所者、着るもののない人、病気の人、囚人) であったのです。でも、イエス様は、そのことを、自分にしたこととして、受け止めておられるのです。

 私たちは、イエス様のために、何をするでしょうか。イエス様は、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)と言われます。「主のために」と思ってしていることが、本当に主の御心にかなったこととなっているでしょうか。本日の御言葉を通して、改めて、主の御心がどこにあるのか、私たちは何を求められているのか、考えたいと思います。                        (村田悦牧師)

ルカによる福音書1511節〜32

 放蕩息子のたとえ話は、そう呼ばれるところからもわかるように、主に放蕩息子にスポットライトが当てられます。しかし、このたとえ話は、24節以降の兄と父との対話も合わせて、一つのたとえ話なのです。放蕩息子が父に喜んで迎え入れられるのを見て、怒りを覚える兄。ここには、私たちの抱える大きな闇が表されているように思います。

 兄は、父が、帰ってきた弟のために、肥えた子牛を屠ってやったと聞いて、怒り始めました。そして、「私は、何年も、お父さんに仕えてきた。言いつけに背いたこともない。それなのに、子山羊一匹すらくれなかったではないか…」と言うのです。この兄の訴えを、私たちはどう聞くでしょうか。

 父は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と答えています。この言葉が真実ならば、兄は、弟以上に、大きな恵みを受けていることになります。でも、兄は、そのことに気付けないのです。これまで受けてきた恵みを、兄は、「奴隷のように仕えてきた」「子山羊一匹すらくれたことがない」としか、表現できないのです。

 恵みに気付けない、恵みを恵みとして受け取ることができない。これが、私たち人間の現実ではないでしょうか。「お前はいつもわたしと一緒にいる」と、神様は仰ってくださるのに、私たちはそのことに気付けず、孤独の中をさまよっているのです。

 どうしたら気づくことができるのでしょうか。放蕩息子のように、放蕩の旅に出なければならないのでしょうか。それは、わかりません。でも、一つ言えるとすれば、当たり前のことにしないということではないでしょうか。どんな恵みも、当たり前になった瞬間に、恵みではなくなってしまうのです。当たり前にしない努力が大事なのではないでしょうか。(村田悦牧師)

ルカによる福音書151節〜10

 イエス様は「見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか(当然、捜すだろう!)」と語りかけておられますが、果たしてこれは、当たり前のことでしょうか。100匹の羊を所有している者が、1匹の羊のために、ここまで必死になれるでしょうか。「99匹いるのだから、1匹くらい、いなくなってもかまわない」と思う羊飼いもいるのではないでしょうか。あるいは、1匹を失うリスクよりも、99匹を残していくリスクの方が大きいと考えて、1匹を諦めてしまう羊飼いもいるでしょう。私たちが、100匹の羊の飼い主だったならば、どうするでしょうか。

 イエス様にとって、見失った1匹の羊は、かけがえのない1匹でした。100匹いようが、1000匹いようが、見失った羊の代わりはいなかったのです。だから、イエス様は、1匹を見つけ出すまで捜されるのです。このたとえ話によって、イエス様は、私たち一人ひとりが、かけがえのない存在であるということを、教えておられます。一人でも失われることは、神様の御心ではないのです。一人のために心を痛め、一人のために見つけ出すまで捜し、一人のために喜び祝う。それが、私たちの信じる神様なのです。

 世の中では、エースや4番は大事にされますが、2軍選手は軽んじられます。でも、私たちの信じる神様は、世の中において、どんなに小さな存在も、決して軽んじられることはありません。むしろ、世の中で、弱く貧しく小さくされている人を捜し、見つけ、その人の存在を喜んでくださるお方なのです。(村田悦牧師)

使徒言行録214節〜36

 イースターおめでとうございます。ご存知のようにイースターは、イエス・キリストの復活を記念する日です。世の中では、クリスマスが最も有名なキリスト教のイベントかもしれませんが、歴史的には、イースターの方が、教会において大切に覚えられてきた日ではないかと思います。

 復活は、キリスト教信仰の根拠であり、出発点です。復活がなければ、戸に鍵をかけて隠れていた弟子たちは、きっとその扉の中から外に出ることはできなかったでしょう。弟子たちの前に、死んだはずのイエス様が現れ、神によって復活させられたことを語る。そして、弟子たちは、そのことの証人として、イエス・キリストの復活を語り、イエスこそ本当の救い主であると伝えるよう、使命を与えられるわけです。

 しかし、弟子たちはすぐに、そのことを宣べ伝え始めたわけではありませんでした。最終的に、彼らを押し出したもの。それは、聖霊の力でした。パウロは、「神の霊によって語る人は、誰も『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」と書いています。私たちは、聖霊の働きを通して、イエスこそ主であると告白する者にされていくのです。

 聖霊とは、麻薬のように、私たちの感情を高ぶらせ、楽しいと錯覚させたり、興奮させたりするものでは決してありません。聖霊は、ただただ、イエスこそ主であると告白させる神の力です。私たちは、この聖霊の働きによって、告白する者へと作り変えられていくのです。(村田悦牧師)

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