日本バプテスト連盟 大分キリスト教会

礼拝(日曜日10:30)においで下さい。ともにイエス・キリストに出会いましょう。

週報巻頭言から

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

マタイによる福音書1016節〜25

 本日の箇所には、弟子たちが遭遇するであろう困難について、語られています。イエス様は、弟子たちを、安全地帯に遣わされたわけではなく、むしろ、危険地帯に遣わされていくのです。

 「暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)と語られているように、この世は、イエス・キリストを理解せず、むしろ拒絶し、十字架につけて殺してしまいました。そんな世の中に弟子たちは遣わされていくのです。そんな世の中で、主を告白し、主を宣べ伝えるのです。ゆえに、弟子たちは、苦難を避けて通ることができないのです。

 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(22)。この全く同じ言葉が、他の箇所にも記されています。恐らく昔の教会において、皆がよく口にしていたイエス様の言葉だったのだと思います。イエス様を信じていると言えば言うほど、かえって苦しめられる現実の中で、人々はこの言葉を言い合ったのです。

 「最後まで」ということは、苦難にも、終わりがあるということです。だからこそ、信仰に留まろうではないか!主を待ち望もうではないか!希望を放棄しないで歩もうではないか!そう語りかけられているのです。

 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とパウロは語ります。私たちは、苦難の中で、変えられていくのです。希望へと向けられていくのです。「最後まで」という期間は、そのために備えられた期間なのかもしれません。(村田悦牧師)

ホセア書6章1節〜3節

 ホセアという預言者は数奇な運命を背負った、異色の人物である。1章2節にあるように、神から立てられた聖職である預言者として、最初に命じられた事は何と、浮気をしている妻とそれによって生まれて来る子ども達をそのまま受け容れよ、という酷なことであった。

 妻ゴメルは当時、他宗教の神殿娼婦として働いていた、つまりホセアにとっては二重の“浮気”と見えたに違いない。「赦せない」との思いを持ちながらも妻に哀願し、時に叱責して思い留まらせようとするが、ゴメルはやめようとしない。そんな事を繰り返している内に、予告通り、ホセアにとって身に覚えのない三人の子どもが次々に産まれた。もはや対話の成立しなくなった夫婦。しかしこの家庭悲劇の唯中で、ホセアはコツ然と気付かせられた。「このかたくななゴメルの姿は私自身だ。イスラエルの民の姿だ。そして神に背き、我侭を続ける人間の姿そのものだ」と。

 ホセアは語る「さあ、我々は主のもとに帰(還)ろう」(1節)あるべき所、本来の位置に戻っていこう。神は私達を豊かに赦し、あるがまま、そのままを包み受け容れて下さるのである。「我々御前に生きる」(2節)。神と差し向かえで、平安の内を歩んでいこう。(奥村敏夫牧師)

マタイによる福音書105節〜15

 イエス様は、弟子たちを遣わすに際し、主に、3つの具体的な指示を与えられています。一つは、イスラエルの失われた民のところへ行くこと。そして、そこで、神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒すということ。また、旅を維持するための持ち物を全く持たずに、旅先の支援に依存するということ。この3つの指示は、生前のイエス様の姿を指し示しています。3つの指示によって、イエス様は「私に倣いなさい」ということを、言われているわけです。

 しかし、それを聞いた弟子たちは、どう思ったでしょうか。きっと、自分には荷が重いと感じたでしょうし、そんなことができるんだろうかと、うろたえたでしょう。どんな出会いが待っているのかという不安もあったでしょうし、きっと緊張していたでしょう。

 そんな弟子たちに、イエス様は、受け入れられなかった場合の対処法について、指示されています。イエス様は、使命を果たすまで、帰ってくるなと言われたのではなく、むしろ、スパッと切り替えて次に行くように、指示されているのです。

 結果が求められる世の中で、どんなに頑張っても結果が出せない時、私たちは、落ち込み、自分を責めてしまうことがあります。でも、イエス様は、「自分を責める必要はない」と言ってくださっているのです。成果や結果に縛られるのではなく、ひたすらイエス様に倣って生きろと、イエス様は、弟子たちを、そして私たちを、遣わされるのです。

 このイエス様の言葉に応えていきましょう。失敗を恐れず、思い切ってイエス様を証ししていきましょう。もちろん、一人でするのではありません。パウロは、教会をキリストの体と言い、そこに集う一人一人を、その部分だと言いました。一人でキリストを証しするのではないのです。みんなで、一人の方を証ししていくのです。結果や成果にとらわれず、大胆に主を証しする教会を立て上げていきましょう。(村田悦牧師)

マタイによる福音書9章36節〜10章4節

 10章には、弟子たちを派遣するときに語られたイエス様の言葉が記されていますが、今日の箇所には、その前置きとして、弟子達を派遣する動機と、選ばれた12人の弟子たちについて語られています。

 イエス様は、群衆が「飼い主のいない羊のよう」であったのを見て、深く憐れまれました。この「飼い主のいない羊」のイメージは、旧約聖書に由来すると言われています。エゼキエル342節〜5節には、イスラエルの牧者たちに対して、「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」と語られています。イエス様の目には、群衆が、まさにそのような状態に映ったのです。だから、弟子達を派遣されたのです。自分のため、自分たちのためではなく、群衆のために、弟子たちは派遣されていくのです。

 しかし、そのために選ばれた12人は、決して群衆の飼い主になれるような器ではありませんでした。彼ら自身、様々な問題を抱え、飼い主を必要とする羊だったのです。では、なぜ、彼らが選ばれ、遣わされていったのでしょうか。

 彼らと群衆との間には、決定的な違いがありました。それは、彼らには、イエス様という牧者がいたことです。弱いものを強め、病めるものを癒し、見失われた者を見つけ出してくださる真の牧者が、彼らにはいたのです。だからこそ、彼らは、遣わされていくことができたのです。(村田悦牧師)

マタイによる福音書9章27節〜35節

 昨日、北九州から大分に帰ってくる道中、別府温泉から立ち上る煙が視界に入ってきました。それを見て私は、「入りたいな」と思いました。煙を見て「入りたい」と思うのは、大分ならではないかと思います。皆さんは、煙というと、何を思い浮かべるでしょうか。温泉を思い浮かべる人もいれば、火事を思い浮かべる人もいるでしょう。また、焚き火だという人もいれば、狼煙だという人もいるでしょう。つまり、煙だけ見ても、それがなぜ立ち上っているのか、原因はなんなのかということについては、わからないわけです。

 イエス様の癒しも同じです。癒しという行為だけを見ていては、それが何を意味しているのか、わからないのだと思います。今日の箇所には、イエス様の癒し見て、感動した人もいれば、悪霊の力だと非難した人たちもいたと記されています。この反応は、両方とも、イエス様のメッセージを受け取っているとは言い難い反応です。

 イエス様が癒しを通して、本当に伝えたかったことは何か。それは、「御国の福音」でした。マタイ風に言い換えるならば、「神は我々と共におられる」。そのことを伝えるために、イエス様は、各地で語りそして癒しの御業を行われたわけです。この癒しの源泉を、私たちは心に留めておく必要があると思います。

 私たちは、癒しというその出来事の中に、何を見、そこから何を語っていくべきかということが問われています。なぜ癒しが行われたのか、そこにどんなメッセージがあるのかということを、心を静めて聞いていきたいと思います。そして、そこにあるメッセージをしっかりと受け止めていきたいと思います。(村田悦牧師)

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事