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『死が原理的に不可知である以上、
生きている人間が「自らの死を丸飲みする」には、
多くの場合、「死者」の実在を前提に、
このような便法で「ストーリーを作る」しかないのです。』

義理の母の葬儀において「仏法の法話」がなかった。
岩手県盛岡市の名刹「報恩寺」。
昔は奥羽で要の寺院であったのに。
僧侶の専門修行道場が設けられているのに。
(しかしながら、指導者も修行者もいないようだ)


「釈尊の仏教」は「自らの死を丸飲みする」ではなく、

「自己」の方を解消する。

「諸法無我」


だから「日本人の古来からの考え方」とはまったく異なる。
だから「法話」もなくなってしまうのだろう。

ごく一握りの仏教者を除いて、
「釈尊の仏教」を理解できなかった。
日本人は、死ねばご先祖様になって、生き続けると考えた。
古事記では、歩いて行き来できる「地続きの世界」だった。
お盆とお彼岸で「ご先祖様」をお呼びして、一緒に食事を摂った。
「生者」と「ご先祖様」とは、違いはなかった。
「生者」と同じ付き合いだった。
同じ「考え」、同じ「感情」、・・・生前とまったく同じ。

インドの土着思想である「インド密教」と、本質は同じである。
実質、多神教に溶け込んでいく。
その中で「自己」は「核」として、永遠に残り続ける。
このストーリーで、「自己の死」を受容した。

インドでは「梵我一如」である。
そして、神々がいろいろな姿かたちで現われ、そこで「我」も解消する。

鎌倉時代の動乱期を経て、日本の仏教は、
「神仏習合」「本地垂迹」「天台本覚思想」「空海の密教」
で、完全に制圧されてしまった。

転載元転載元: ナザレのイエスと釈尊道元の思想の深化。日本人の知性で考える!

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