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こだわり力
これはY子さんのブログからの引越しです

儀式妨害の大切さ

強迫行為を止めるために私が自分なりに工夫した点を書く予定にしていましたが、
強迫行為をやめれば症状は良くなるか、と言うご質問をいただいたこともあり、強迫行為を止めた方が良いと言うことについて、何をどう伝えれば良いか今日までずっと考えていまして、私なりの考え、と言う形に最終的にはなってしまうのかも知れませんが、病院で先生方に言われた内容も含め、そのことについて今回は書いてみようと思います。
 行動療法では、「儀式妨害」と言って、つまり強迫行為をしてしまうのを止めるよう医師から指導されます。強迫行為を何故やってしまうかと言うと、不安や不確かさを解消するためにやってしまうわけですが、何度やっても安心感や確かさも得られないし、やってもやっても不安だったり不快だったりで、ますます息を詰めて、なんとか安心、安全を得たいと躍起になって、ますます強迫行為がやめられなく、もうヘトヘトで辛いのに、と思いながらも不安はうなぎ登りに上昇し、その場から離れられず、何とか自分が納得行くまで、と思ってしまい、全然やめられない…本当はこんなこと止めたくてたまらないのに、他にもやることあるのに、こんなに疲れてるのに、でもやめられない!!となってしまいます。

 病院の先生に私が言われたことは、「安心や納得を得ようと強迫行為をしてしまうが、強迫行為をやればやるほど症状は悪化する。強迫行為をやることにより、自分の強迫観念の対象物のことを、ますます自分にとって怖いもの、不安なもの、あるいは不快なものと脳に刷り込んでしまうことになる。つまり安心を得ようとやってる行為が実は逆効果な結果を脳に学習させてしまっている」と言う内容のことを言われました。

 また、この病気は「自己防衛反応が過度になっている状態」で、自分を守りたい気持ちが強過ぎる状態にあると言うか、以前の記事でも書きましたが、「何か不安や問題が起きた時に、それを自分で抱えきれない、こらえることが出来ない」ことが一番の問題だと言われました。なので、不安な考えや嫌な考えが浮かんでも、それを抱えながら、あるいは「もうどうでもいいや」と流すように訓練をすることが肝要と言われました。なので、なんとか早くスッキリしたいとか安心感を得たいと強迫行為をやってしまうことは、つまりは不安に耐えたり流したりすることと逆行してしまうことであるので、その観点からも、強迫行為をやり続ける限り、自分にとっての不安なことや苦手なことから逃げてしまうことになるので、強迫行為をやめて耐える努力をしない限り、苦手なものは苦手なままで、何も前に進んで行かないように思います。

 また、強迫観念から解放されたいとの思いで強迫行為をやるわけですが、強迫行為をやり続けること=自ら強迫観念に執着してしまっていると言うことになるのではと思います。考えたくないと思いながらも、結局、強迫行為を繰り返すことで自分で進んで強迫観念のことに執着して首を絞めてしまっていることになります。不安を解消することに執着する限り、不安は逆に解消されず、絶えず不安な気持ちのままな状態をずっと引きずることになるな、って言うのは、確かに私もその通りだなと思いました。

 強迫行為をやめれば必ず誰もが良くなるか、については、医学的にどうかや、絶対そうなるよ、とは、私は医師ではなく、ただの患者に過ぎないので明言、断言は出来ないのですが、ただ、強迫行為を繰り返すことはすなわち、結局自ら強迫観念のことばかりに執着してしまっていることになり、これではいつまで経っても解決しない、と言うのは理に叶っているな、と思います。

 また実際に強迫行為を繰り返せば繰り返すほど悪化の一路を辿りましたし、はじめは数回の強迫行為で済んでいたものが、しまいには何時間もやめられなくなってしまい、生活が機能しなくなってしまったし、また「本当は強迫行為をやめたいのに。一回だけパッと見たら、もうその場を離れたいのに」と希望していたとしたら、どうやったらそうなれるかは、何度も強迫行為を繰り返している限り、いつまで経っても希望に近づかないのは当たり前なことだなと、ある時気づいたのですが、一回で離れたいなら、一回で離れる経験を自らやらない限り、ずっとやれないままなのは、強迫行為のことに関わらず、他のいろんなことにおいても同じ理屈で考えることが出来るな、と思い、何故、強迫行為をやめることに一歩踏み出さねばならないかの重要さがわかったように思ったのでした。

 例えば、すごく上手に絵を描きたいとして、まずは実際に描かない限り、いつまで経っても何も描けないままですし、仕事でも遊びでも何でも、こうやりたい、こうなりたいと思ったら、実際に自分でそれに着手しない限り、ただ願っているだけでは何も動いて行かないのと同じことのように思いました。

 世の中には、例えば何度も確認などをしてしまう生活を送っていても平気な人もいるし、逆に何度も確認することがその人にとっては当たり前なこととなっていて、そのことで悩んでいない人もいます。私の伯母がそうです。伯母も何度も確認行為をする人ですが、そのことで悩んでいなくて、むしろ当然のこととして、伯母の生活スタイルの一部となっています。確認行為に時間を取られることで、他の人に比べて次の行動に移るのが遅いし、はたから見てると非常に効率が悪く、1日にこなす物事の量が他人と比べたら少なくて、一つのことにそんなに確認して時間を掛けていたら、いくら時間があっても足りないよ!と、よく祖母から小言を言われていましたが、伯母は全くヘッチャラで、むしろ自分の時間軸の方が正しいと言ってるくらいで何も悩んでいませんでした。

 なので、何が正しくて何がダメで、という明確な基準というのは無くて、たとえ何度か確認なり、他人より過度に手洗いをするなどがあっても、生活が回っていて、自分がそのことで悩んでなければ、その人それぞれの習慣として、それらの行為があっても良いとも思うのです。しかし、生活に支障を来していたり、悩んでいたり、とにかく自分は本当は何度もやらずにパッと終わらせたいのに、と思うのであれば、それは自ら、そうするようにしてみなくては、いつまでも出来ないままとなってしまいます。

 だから苦しくとも強迫行為をやめる努力、訓練に着手したのでした。ずっとずっと強迫にさいなまれて生きるか死ぬかくらいの気持ちで長年悩んで来たことです、だから、そんな急に上手くやれるわけがありません。最初は上手くやれなかったり、かろうじて強迫行為をやらずにいたとしても、爆裂な不安に押し潰されますが、それは当たり前のことだと思います。自分がこの世で一番怖いと思っていることをあえてやるわけですから、怖くて不安で当たり前だと思います。

 だから病院の先生方も「治療は辛いですよ」と最初におっしゃいます。ただ、これは良くなって行く過程でおそらく誰もが通るべき関門で、良薬口に苦しと同等なものだと個人的に捉えています。そして、この治療方法によって、これまでに多くの患者さんが快方に向かわれたという医学的なデータがあり発表されていることや、診ていただいた主治医の先生方も30年近くの治療経験において、この方法で多くの患者さんを回復させた実績を持たれておられると言うことを信じて、そして「治療は辛いですよ。そして医師である我々はあくまで道案内役で、実行するのはご自身ですよ。全て自分次第です。ただし、それを行えば、必ず良くなりますよ」と言う言葉を信じて、
と言うか、私の場合は20年に渡り患っており、いくつもの病院に通い、いくつもの薬を飲み、いろんな治療をやった挙げ句、全く良くならず、悪化の一路をたどり、もうワラにもすがる気持ちで、もう残された治療の選択肢はこれしかないと、最後の砦として行動療法をやるしかないと思って受診したので、もう信じるしか道は無かったのですが、結果的に、まだ症状はあるにせよ、飛躍的に良くなり、一時は怖くて何も出来なくなり、寝たきりになってしまったのが、ほぼ普通に生活も出来るようになったので、治療は確かに辛く、と言うか生き地獄に思えましたし、何度も挫折したり煩悶しましたが、這ってでもあきらめずに治療、つまり、怖いものにあえて直面することと、強迫行為をやらずに次の行動に移ると言うのを、日々とにかく挑戦し続けて良かったと思っています。この治療はとにかく根気が必要です。すぐには結果は出ません。地道な挑戦、訓練の繰り返しです。

 どうしても強迫行為が我慢出来なくて、ダメと言われてもやってしまって、先生に泣きついた時もありました。すると先生は「強迫患者さんは、すぐに結果を求め過ぎる。また、すぐに完璧な答えを求めたり、知りたがり過ぎる。結果がなかなか出せないと言うことを受け止められず、すぐに出来ない、やれないと言うことばかりを訴える。それでは上手く行きません。とにかく、あなたが治療としてやらねばならないことは、すでにわかっているはずです。それを自分の意志で、自分の責任と選択において実践し続けることが大切です。今までの治療実績では、ちゃんと実践して、平均で大体3〜4ヶ月で回復の傾向が見られるようになっています」と言う内容のことを言われました。
 そう言われて、その時に思ったのは、「確かにすぐに結果や答えを知りたがってる自分がいるな」と言うことと、「すぐに結果を知りたがったり出したがったりするのも、結果が出ないモヤモヤや不安や焦りを抱えて耐える力が弱いからだ、すなわち先生が治療の始めに、『この病気は症状や恐怖対象が何であれ、どうでも良いのです。
一番の問題は、あなたが不安を抱えることが出来ないことなので、それを不安があっても耐えることが出来るように訓練するのが治療となります』と言ったことと同じことなのだ」と言うことでした。

 なので、すぐに結果が出ないモヤモヤや不安を味わうこともまた、治療の一部なのだと思い直して、とにかく、もうやるしか道は無いと、本当に地道も地道、いつゴールが来るのか?果たしてゴールなんてあるのか?とも思いつつも、苦しい治療でしたが、あきらめずにやり続けて良かったと思います。強迫行為をやめることを「儀式妨害」と専門用語では言いますが、なぜ儀式と言う言葉が使われているかは、不安を解消しようとして、自分では、もう強迫行為をやらないと気が済まない、おまじないの一種というか、繰り返した所で何ら有益でもなく、建設的な行為でもない不毛なこととわかっているのに、やらないと気持ち悪い、やらないと気が済まないと自らに課してしまっているから儀式と言う言葉を使っているのかなぁ?と、ふと思いました。
 確かに、初めは何となく不安で、ふと何度か確認したに過ぎないのに、何度か確認したことで、余計にその対象物の安否を意識するようになって行き、意識するとますます確かな安心を求めるようになり、放っておけず、ますます念入りに確認するようになり、たまには大丈夫かなと思う時もあったけど、でも確認行為をやらないと何となく漠然と不安で念入りに確認してしまい、するとますます対象物のことが頭に強く重要事項として刷り込まれ、完璧な安心感をますます求めるようエスカレートして行きました。

 なので、私自身は体験として、強迫行為をやればやるほど症状がエスカレートするというのは合点が行きます。エスカレートせずに、私の伯母のように、ある一定程度で止まる場合もあると思いますが、私は何時間も強迫行為をやめられず、生活がにっちもさっちも行かなくなり、ほぼ何も出来ない状態まで悪化してしまっていたので、
強迫行為を止める訓練をして本当に良かったと感じております。
やりたくないのにやめられなくて何度もやってしまう強迫行為…やってもやっても不確実な気がして、不安を解消するために何度も繰り返し、なんとか確実な安心感、スッキリ感を得たいと躍起になってしまいますが、残念ながら、強迫行為をやればやるほど不確実になって行き、やめられない事への焦り、罪悪感、自己嫌悪からますます気持ちも不安定になり、次で確実に確かな手応えを得たいと緊張も伴うため、ますます苦しくなり、そのために気持ちもそぞろになって、ますます不確実になり、どんどんやめられなくなる…と言う風になって行ってしまいます。

 強迫行為をやめることが出来るようになるためにはどうしたら良いか。それは「強迫行為をやらないこと」です。強迫行為をやらないと不確かで恐ろしく、万が一のことが起きたらどうしよう?と強い不安や恐怖感が襲い、いても立ってもいられなくなります。しかし、先にも書いたように、その不安に負けてしまって強迫行為をやり続けると、どんどん緊張や焦りだけが募り、人間はそうそう集中力は続かないので、やがて、強迫行為の対象を確実にやってる実感が薄れて来て、しまいには、自分が何をやってるのかもよくわからなくなり、どんどんドツボにはまっていってしまいます。

 私の場合は、例えばはじめは鍵がちゃんと閉まっているかを何回も確認から始まり、やがて何十回も確認になり、やめなきゃ、やめなきゃ、でも不確実という気持ちが拭えず、やがて何時間も確認になり、何時間も確認してると頭がボーッとして来て、目に見えてる物を私は本当に見ているのだろうか?という疑念が湧いて恐ろしくて、ますます鍵の前から立ち去れなくなり、そのうち、私は鍵を見てるつもりでいるけど鍵ってこんな形だったっけ?鍵と思い込んでるだけで、本当は別の物を見てるのではないか?などとも思うようになり、とうとう家をあける、と言うことも怖くて出来なくなり、外出出来なくなってしまいました。そして、鍵を見るだけでも怖くて動悸がし、サッシや窓のテレビCMを目にするだけで恐怖するようになって行きました。

 人間は誰でも、あれ?と思って鍵を確認しに戻ることはよくあることですが、
何回も何回も繰り返すと逆効果になって、ますます症状は悪化します。この病気の一番の問題は、「こうなったらどうしよう?不確実で何か万が一のことが起きたらどうしよう?」と言う考えが浮かび不安になった時に、その不安に耐えることが出来ない、と言うことです。万が一のことが起きたら、その時に考えて対処するしかありませんが、まだ起きてもいないことに対して過剰に防衛反応が起きてしまい、
何とか確実な安心感を得たい、不安な気持ちを引きずりたくないと、強迫行為に走ってしまいます。

 これを改善するには、不安と思っても、その不安を抱えたまま、その不安に耐える訓練をするしかなく、また、将来万が一のことが起きるかどうかは誰にもわからないので、そう割り切る、あきらめる、あるいは不安で確認やその他の強迫行為をしたくても、一度か二度見たら、あとはもう振り切って、腹をくくって次の他のことに移行するしかないのだと思います。なので行動療法の治療では、儀式妨害と言って、強迫行為をいっさいやめるように指導されます。
 儀式=強迫行為のことで、不安を解消して確実な安心を得るために患者が自分で儀式のように行っている行為のことを指します。

 やめたいのにやめられないから悩むのですが、しかし、不安に負けて強迫行為をやり続けても、悪化の一路をたどるだけで、安心は訪れないのです。どんどん焦り、どんどん緊張し、どんどんパニックになり、よって、どんどん不確かになり、どんどん止められなくなってしまいます。なので、いわゆる「普通の人がやるレベル」である1〜2度程度の確認(あるいは手洗いとかもそうですが)をしたら、あとはもう不確かだと思ったり、不安でたまらなくても、その場を立ち去る、と言うことを実践するのが、この強迫行為から脱する方法となるのです。

 はじめは上手く行きません。やはり何度もしてしまいます。でも、あきらめずに、落ち込まずに、落ち込みますが、落ち込みに意識を持って行かず、とにかくこの儀式妨害(強迫行為をやらずに立ち去る)を実践しまくるのです。私は少し上手く行き始めたかな?と思うまで、3ヶ月くらいかかりました。それまでは挫折、挫折、出来ない、怖い、何度も強迫行為、の日々でしたが、でも、これに耐えられるようになるのが自分に課せられた課題だ、と思い、失敗しても、とにかくやり続けた結果、怖くても立ち去るうちに、立ち去って次の他のことをしていると、だんだん確認対象のことがどうでもよくなって行くようになり、もし確認が甘くてミスしてたらどうしよう?という考えが浮かんでも、もう面倒くさいから、どうなってもいいや、もう腹をくくろう、と言う気持ちになるようになって行きました。

 病院の先生によると、これまでの患者の統計では、この強迫行為をやらずに立ち去るのをやり始めてから、平均して大体3ヶ月〜4ヶ月くらいで、改善の兆しが見えて来る人が多いそうです。その3ヶ月はまさに地獄ですが、そこでやはり諦めて何度も強迫行為に舞い戻ってしまったら、もとの木阿弥です。とにかく、強迫行為から解放されるためには強迫行為をしないこと、どんなに不安でも繰り返さないこと、これに尽きるように思います。

 不安でも不安を自分自身で抱えて耐える、と言うことが大切で、その耐久性を得るためには、筋肉トレーニングと同様に、自分に負荷をかけて訓練していくことで耐性がついて行きます。自分に負荷とは、不安な状況を自分に与えて不安に耐える、ということです。筋肉トレーニングも始めは筋肉痛になったり、重いものを持てなかったりと苦しみますが、続けるうちに痛みもなく、こなすことが出来るようになりますが、心も同じ、とのことを病院で教わりました。

 不安から逃げてばかりいたり、安心ばかりを求めていても、なかなか不安が起きてもそれに耐えて、自分のやるべきことをやる、とか、日常を送るということが出来ないままです。そこで、不安が起きても耐えるなり、腹をくくるなりして、強迫行為をせずに、不安な気持ちのままその場を立ち去り、次の他の行動に移行してしまうのです。その訓練を続けるうちに、だんだん不安に対する耐性が出来て行くのです。
 詳しくは忘れてしまったのですが、病院の先生に教わったには、強迫行為をしなくても大丈夫だ、と言うことを脳に学習し直させる、ということになるそうです。

 次回は、個人的に、この強迫行為をやらずに我慢する時にやった自分なりの工夫について書こうと思います。ちなみに私よりも先に、ピコさんが強迫症状から脱出されました。当事、まだ強迫行為をやらずにはいられず、どうしてもやめられなかった私にピコさんが言って下さった言葉があります。

 それは「身捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」です。つまり、自分の身を捨ててこそ浮かばれることもある、ということですが、自分を安心させたい一心で守りの態勢でいるのではなく、自分を投げ出すつもりでエイヤッと挑戦してこそ浮かばれる、成果を得る、というような事だと解釈したのですが、ピコさんにそう言われて私は、よし、今まで安全に安全にと守りに守った結果、病気も悪化して苦しいならば、どうせ同じ苦しいなら、怖いことに逃げずに挑戦してみよう、その方法で多くの人が回復したのだから、と腹をくくったのでした。押してダメなら引いてみな、と言う言葉もありますが、これまで強迫行為を何度もやっても不安で、強迫行為もますます止められなく苦しいのであれば、逆にもう、どうせ同じく苦しいならば、苦しくても強迫行為をいっさい止めて、不安に耐えることが出来るための訓練を自らに課す、と言うことを試す、と言うように自分の舵をきり直すことは大きな価値があると思うし、また、この「不安はあっても、不安を抱えたまま行動をして行く」ということは、病気改善のためだけでなく、生きて行く上の他の様々なことに対しても有効に働くと、今、感じております。

 この病気は、自分との闘いという側面が多分にある病気と実感しておりますが、
それはつまり、非常に苦労はしますが、自分で治していける病気でもある、と言うことでもあると感じています。なので、とにかくあきらめず、悲観せず、自分の足で一歩一歩、実践と挑戦を積み重ねることが回復への道につながると実感しております。

○をつけていく課題表

新年になり、また新たな区切り、新たな気持ちで臨むきっかけになったりしますが、私が闘病していた頃に、これはわりと役に立ったかも、と思えるものがあります。
それは回復のきっかけとなった、行動療法治療を行うために、病院の先生が私に作って下さったものなのですが…

 私は確認強迫と加害恐怖を患っていましたが、その対象となるものが複数ありました。そして、何度も確認してしまったり、怖くて出来なくなっていたことが何十個とあったのですが、病院の先生が、それら一つ一つを表にして下さいました。

例えば私は、
 外出が怖くて出来ない、
 車の運転が怖くて出来ない、
 戸締まりを何度も確認する、
 キャッシュカードを忘れるのが怖くて使えない、
 大事なものを捨てる気がしてゴミが捨てられない、

他にもいくつも症状がありましたが、それらに対して課題と言うか、
 外出する
 戸締まりを一度も確認せず立ち去る
 ゴミを確認せず捨てる
 キャッシュカードを使う
など、強迫行為をせず、なおかつ怖くて避けてやらなかったことに対して「何々をする」と、課題を決めて一覧表にして縦軸に列記するのです。そして横軸には日付を書き込み、毎日とにかくこの課題を意識して実行するようにチャレンジして、出来たものは○、何度か強迫行為をしてしまったけど、かろうじて避けずにチャレンジしたものは△、怖くてやれなかったものや何時間も強迫行為をしてしまったものは×をその日の終わりに付けていきます。(ホントは、×はつけなくてもよい。)

 初めは×ばかりで落ち込みましたが、でも表にして改めて自分のクリアすべき課題がハッキリとしたことにより、何とか一つでも△、もっと言えば○に出来るように頑張ってみようと目標を持てたことも事実でした。また、やってみたら案外やれた、みたいなものも出て来たりもしました。前回○だったのに、今日は×だった、と言うものもあったし、○×の成果に一喜一憂したりもしましたが、○や△が多くなって行くと張り合い、達成感などが起こり、だんだん課題にチャレンジすることに意欲的になりました。

 治療の後半の方では、だんだん表に○×を付けるのが面倒になり、付けなくなってしまいましたが…初めのうちは、どの課題も×ばかりなので、ますます落ち込んでしまい、どうせ私にはどれも出来ない、怖くてやれないと、表を見ること自体がストレスになったりもしたのですが、もしもいくつか症状を抱えていて、あれも出来ない、これも出来ないと頭が混乱してしまってる場合には、一度、症状に対する課題を整理して表にしてみると、自分がやるべき、目指すべきことが明確になり、目標意識を持ちやすいかも知れません。
 また、これまではどの対処物もまとめて全てが等しく怖い、不安、と思っていたりしたことが、表にして実践してみると、何が一番苦手で、何は怖いけど比較的軽かったなど、自分の傾向がわかるようにも思います。ただ、表の○×成果にあまりにも囚われ過ぎてしまい、×ばかりで何もかも出来ない、表自体がストレスとなり、落ち込みが激しくなり過ぎる場合は、お勧め出来ない気もします…なので、表の存在があまりにも自分を苦しませるようなら辞めた方が良いかも知れませんが、コツとしては、1日1日の細かい成果に囚われず、例え×ばかりが続いても、自分がやるべき課題、目標はこれだと認識し、チャレンジの努力をするための一素材として見なすことが出来るようになれば、例え×ばかりだとしても、気持ちをフラットに持つことが出来るようになるので、もしも複数の恐怖対象を抱えていて、何からどう手をつけたら良いかわからない時は、課題を箇条書きにしてみるだけでも、目標が明確になるので、万人向けでは無いかも知れないですが、一つの有効な手段として記してみました。

心は筋肉にある

病院の先生が教えて下さったのですが、心が不安や緊張を抱えている時は身体もこわばり、緊張していると言うことでした。不安や緊張のために自然に身体に力を込めてしまい、筋肉をギュッと締めた状態になってしまいますが、身体がそのような状態の時は、動物は身を守る防御の態勢の時だったりするので、交感神経の関係で、実はますます緊張感が増し、不安感も増すのだと言うことでした。

「心は筋肉にある」と先生はおっしゃいました。

 なので、症状を抱えながら何かやらねばならない事をやる時は、不安や緊張でドキドキして身も固くなり、息を詰め、身体をすくめながら行ってしまいますが、その、自分が症状のために不安だったり怖い事をやらねばならないものをやる時は身体の力をわざと抜いて、ダラーンと弛緩させてから臨むと良いと言われました。不安がゼロになるわけではありませんが、確かに息を詰めて身体を硬直させたままだと、だんだん呼吸も苦しくなり、頭もますますパニックになることに気づき、日常生活でやらねばならないのに怖くて出来ないことをやる際に、なるべく身体の力を抜くように意識しました。

 気付けばいつも歯を食いしばっていて、顎関節症になってしまってもいたのですが、最初はなかなか上手く力を抜けず、いつも身体も緊張状態になっていましたが、出来る限り意識して、心は不安でドキドキしていても、身体は緩めるようにしてみました。直接、悩みが解決されるわけではないですが、緊張状態が続いて苦しい時に、いくら頭で「落ち着け、落ち着け」と思っても、ますます逆に緊張してしまうので、心はともかく、まずは身体から緊張を解くようにしてみることは、個人的に効果があったように感じていますので、ご参考までに記してみます。

やる理由を考える

強迫症状を改善するには、「強迫観念が浮かんで不安だったり怖くても、自分がやらねばならない日々の諸々に行動を移すこと」「怖くて避けていることを、避けずに自分でこなすこと」「強迫行為をしたくてたまらなくても、絶対にやらず、無理やりにでも振り切って、次の行動に移ること」だと思います。

 これは行動療法の基本だとも思いますが、行動療法治療を始めると、たぶん、多くの人が、なかなか医師に言われたように出来なくて、壁にブチ当たり、どうしても勇気が出なくて、怖くて出来ない、と言うのを味わい、落ち込んで、ますます自分にも自信がなくなり、治療をあきらめてしまったりすることもあると思います。

 私も最初はそうでした。頭では、行動療法の理屈をわかってるつもりでも、「やっぱり何か起きたら怖いから、これは自分では出来ない」「何度も強迫行為をやる羽目になるから、やっぱり極力、じっとして、日常の諸々を避けてしまう」「強迫行為をやるなと言われても、やらないと不安で不安でいられないから、やっぱりやってしまう」「強迫行為をやるなと言われても、やらないと悪い事が起きそうで、やらずにはいられない」などなど、いろんなことを思い、相変わらず、怖くて出来ないことを避けており、強迫行為も何時間も繰り返していました。

 つまり、「わかってはいるけど、でも怖いから、治療をこなす事が出来ない」理由ばかり考えて、挙げていました。そして、私には、あんな怖い治療は出来ない、私には行動療法は向いてないんじゃないか?こんなに怖いのに、どうしてやらなきゃならないんだろう?と、治療を疑ってみたり、他に方法はないだろうかと探ってみたり、そして、相変わらず強迫観念に怯え、強迫行為をやり続ける自分にホトホト嫌気がさし、私の人生は何なんだろう?と、どんどん悲観的になって行きました。

 そして、相変わらず強迫行為をやり続けることで、強迫観念はますます増幅し、強迫対象も広がり、病気は悪化の一路をたどり、もう起きていることすら恐ろしくなり、布団から出られなくなってしまいました。つまり、もうにっちもさっちも行かない、ドン詰まりになってしまったのです。

 ドン底まで行った時に、ある時に決意しました。「私はどうしても治りたい!!普通の生活が送りたい!!そのためには、自分自身が普通の生活を自ら行わなければ、いつまで経っても普通の生活に戻れるわけはない。だからもう、腹をくくって、怖くて避けていたものを、あえてやるようにし、強迫行為もどんなに怖くて後悔しても、やらずに次の行動に移そう!!もう何年も強迫行為をやり続けて地獄な毎日だった。これ以上、地獄な日々は送りたくない!!

 怖いものに慣れる訓練をしよう!!不安が起きても我慢して耐えられる力を身に付けよう!!私は強くなりたい!!病気から解放されたい!!もうこれ以上、怯えて暮らすのは嫌だ!耐えられない!!行動療法の恐怖も、相変わらず続く強迫観念にさいなまれる毎日も、どちらも耐えられない!!しかし、どうせ耐えられないのなら、良くなった人が沢山いる行動療法の恐怖を選ぼう!!良くなった人がいる道を、そしてそれをサポートする医師を信じよう!!もう、これに賭けてみよう!!」と。

 病気が良くなってから、とある友人に、このいきさつを話したら、友人が言いました。「あなたは最初は、出来ない理由ばかり考えていたんだね。だけど決意してからは、治療を本気でやるための理由を考えるようになったんだね!出来ない理由ばかり考えても、堂々巡りでラチがあかないし、何も解決しない。出来る出来ないじゃなくて、やるための理由を考えることが大事なんだね!」と…

 自分では、友人にそう言われるまでは、自分に起きた心の変化を明確に分析していませんでしたが、言われてみると、なるほど!と思いました。出来ない理由を考えることは、つまりは、自分がやらねばならない課題から逃げてしまっており、逃げてしまう自分をなだめる言い訳にしかならないのかも、と思いました。

 それに、ああだから出来ない、こうだから出来ない、と言ってみても、何も解決しないし、誰もどうすることも出来ない…だから、出来る出来ないではなく、やるかやらないか、が大切なんだな、とも思いました。治療は本当に、非常な我慢を強いられるから、とても辛いし、上手く出来ない日々も多々あると思います。しかし、そこで出来ない理由を考えずに、その治療をやるための理由を考えて、とにかくあきらめずに、やり続けることが大切なんだと思いました。

 と、ご参考までに記します…
強迫症状が辛くて、会社や学校を辞めたいと思うこともあるかと思いますが、私は出来る限り辞めない方が良いと考えます。

 その理由は、
1:「ヒマは強迫の敵」とも言われるように、空いた時間が出来てしまうと、ますます強迫観念のことばかり考えてしまうようになるから。
2:強迫行為を治すには、強迫行為をやらないでおく事が一番の治療ですが、自分の意志のみで強迫行為を制御するのはなかなかに困難です。もし仕事や学業など、自分がやらねばならない何かしらの責任のあるものがあれば、その仕事なり学業なりを果たすために、どこかのタイミングで、嫌でも強制的に強迫行為を辞めねばなりません。
なので、強迫行為を制御する訓練のためにも、強制的にでも制御しなければならない環境に身を置いていた方が結果的に良いと思うのです。実際に私は強迫症状がひどくて会社を休職していましたが、現在の主治医の先生は、すぐに職場復帰するように、と言われました。結果として、それは苦しいことではあったけど、でも治療にとって効果的でした。

3:仕事なり学校をやめてしまうと、ただでさえ強迫症状でいろんな日常のことが普通に出来なくなって悲観しているのに、それに加えて、辞めてしまったことで、自分が何も出来ない人間に思え、無能感を抱いてしまったり、ますます社会から断絶してしまった気がして、どんどん落ち込んでしまいます。そのことで、ますます悲嘆的になり、自分の足で立とうと言う気持ちになりづらくなったりします。苦しくても何とか踏みとどまって、まかりなりにも自分は仕事を、あるいは学校を続けている、という事実は、自分を保つことにつながるように思うのです。

4:いったん辞めてしまうと、またやっぱり仕事につきたい、学校に戻りたい、と思っても、物理的にも精神的にもハードルが高くなってしまいがちです。
5:会社や学校をやめて一時的に楽になっても、基本的にはいつかは、そう言った社会の中で生きて行かねばならず、
また、社会生活を上手く営むためには、社会生活の中で訓練を積むのが一番だと思うのです。また、いったん逃げてしまうと、次からもどんどんと逃げてしまうようになり、なかなか自分の力で踏ん張ったり、不安や困難に対する耐性を身につける機会を逸してしまいます。
 
 強迫観念に打ち克つ、また、強迫行為をしたくてたまらなくても我慢出来るようになるためには、何もしないで受け身で待っていても、いつまで経っても現状打破は出来ず、自分で制御出来る力を訓練により身につけねばなりませんが、そしてその訓練がすなわち行動療法ですが、それをやらねばならない環境に身を置く=会社や学校をやめずいる、と言うことは、苦しみも伴いますが、結果として、治療に大きな効果をもたらすことでもあると、以上、箇条書きにして書いた内容も含めて自ら体験した気持ちや状況ですが、経験からそのように思います。

 人によって状況はさまざまなので、一概には言えないと思いますが、なかなか自分の意志だけで強迫行為をやらずに次の行動に移る、というのを始めから実践するのは難しいので、仕事をしていれば嫌でも強迫行為を振り切って仕事を完了させねばならないし、また会社や学校では人目があるから、いつまでも強迫行為をやり続けることも出来ないので、一見この状況はとても辛くて疲れる状況に見えますが、裏を返せば、それらが強制的にでも抑止力となって、強迫行為を永遠にやり続けてしまうループを断ち切ってくれる、とも言えます。強迫行為はやればやるほど、どんどん深みにはまり、やがて何時間も辞められなくなってしまうので、強迫症状を抱えながらの仕事や学校は辛いものだけど、逆にその強制的に強迫行為を辞めざるを得ない環境を利用して、治療の一助とするのが良いように感じています。

周りの人の反応

 強迫性障害を患うと、いろんな事が不安なったり怖くなったりし、自分が恐れている物事を自分でやれなくなったりします。
 患者は不安から、周りの人達に不安を絶えず口にしたり、相談したりなどし、時にはその回数も尋常じゃなくなり、周りの人達の都合や気持ちを考えず、とにかく自分の気持ちを晴らしたいことばかりに囚われてしまい、しつこく誰かに自分の気持ちを聞いてもらおうとしてしまったりもします。そして、場合によっては、自分が恐れていることを、家族や友人など、周りの人に自分の代わりにやってくれるようお願いするようになったりします。または、自分の強迫行為を周りにもやってくれとお願いしたりもします。

 例えば、
 「自分の代わりに戸締まりを確認してくれ」
 「外出から帰ったら、石けんで家族もゴシゴシ手を洗ってくれ」
 「外に1人で行けないから、付いて来てくれ」などなど…

 周りの人達は、かわいそうだと思ったり、何とか患者を楽にさせてあげたいと思って手伝ったり、あるいは逆に、あまりにもしつこくお願いされるために、どうしようもなくなって、手伝ってしまったりします。でも、これが病気を悪化させる原因になるのです。手伝ってしまうと、患者はどんどん自分で出来なくなってしまい、どんどん周りを頼るようになります。そしてそのうち、周りの人はどんどんと患者の強迫行為や悩み相談の渦に巻き込まれて行き、周りの人達の生活ペースまでおかしくなり、家族崩壊にもつながりかねなくなったりもします。

 また強迫性障害と言うのは、患者自身が自分で自覚して、自分で不安を抱え、不安を断ち切る訓練をしない限り、克服出来ないのです。周りの人達が永遠に患者の身代わりに確認行為などの儀式行為をしてあげられるなら良いですが、ずっと四六時中、一生涯、患者のそばに付いていてあげる事は出来ませんし、患者自身も自分でいつまでも出来ない事で、どんどんと気持ちが鬱屈し、卑屈になったり自信が無くなったりして行き、生きている充実感や達成感を味わえなくなり、気持ちもウツウツとして行ってしまいます。

 私も確認行為をずっとずっと家族に代わりにやってもらっていました。また、不安な気持ちから逃れたくて、周りにいかに自分が苦しんでいるかをわかってもらいたくて、いつも、しつこくしつこく、周りの誰かしらにグチや相談や不安を訴えていました。しかし、それをやっていると、いつまで経っても症状を克服出来ないばかりか、どんどん悪化させることになると医師に言われました。

 医師は私の家族に、
 「娘さんには1人で何でもやるようにさせて、娘さんがどんなに頼んでも無視して下さい。絶対に強迫行為を手伝って代わりに確認してあげたりとか、また、娘さんが何度も不安を訴えたり、相談をして来たりしても、それもいっさい無視して下さい。親御さんは『石』になって下さい。石は何もしゃべりませんよね?娘さんが泣こうが叫ぼうが、気絶しようが、やけになって暴れようが、いっさい無視して放っておいて下さい。娘さんは自分の力で自分の不安や恐怖を抱えて耐えて、それに立ち向かうようにならなければ、いつまで経っても治りません。そして、誰かを頼っている限り、頼れる場所がある限り、娘さんは結局そこに逃げ込み、自分の力でやろうとしないままになってしまいます。とにかく、娘さんはこの世で1人ぼっち、1人きり、自分でやらなきゃどうにもならない、という状態にして下さい」というような事を言いました。

 私の家族は最初はとても躊躇していました。
 「だって、子供が目の前で苦しんでいるのに、助けてあげ、手伝ってあげるのが親心では?」とか「しかも娘は、言うことを聞いてあげないと、いつまでもしつこく頼んでくるし、こっちも、あー、もう、そんなにしつこくしてくるなら、こっちでやってあげるわ!と、ついなってしまう」とか言っていました。

 しかし私の主治医の先生は、
 「親御さんも我慢して、ついつい娘さんの言葉に耳を貸してしまうのをこらえて下さい。親御さんのそういう姿勢が、娘さんをダメにしてしまっている部分もあるんですよ。親御さんにとっても、これは治療に当たるわけです。娘さんが八つ当たりしようが、泣きわめこうが、死ぬとか言おうが、いっさい無視して放っておいて下さい」
 そして、結果として、うちの家族は私の言葉にいっさい耳を貸さないように努力していました。

 「ねえ、お母さん、聞いて。やっぱりアレがすごく気になって怖いんだよ。だから一回だけでいいから、私の代わりに大丈夫かどうか確認して?」
 「ねえ、怖くて怖くて死にそうなんだよ。本当に苦しくてたまらないよ。どうしてわかってくれないの?」みたいなことを、私は家族にしつこく言いまくっていましたが、家族は腹をくくり、ガンとして、私の言葉に耳を傾けなくしていました。

 なので私は最初は、「ひどい」とか思ったり、「先生はああ言ったけど、1人で出来るわけなんかない、1人で不安をこらえられるわけがない、こんなに怖いのに!」とか、ムカついたり、絶望したり、とにかくメソメソしていました。
 でも、親などの、私の不安やグチを聞いてくれる人が1人もいなくなり、また私が怖くて出来なかったことを身代わりにやってくれる人が1人もいなくなってしまったので、とうとう私も自分で何とかしなくては生活が回って行かなくなって来ました。

 なので、「もう自分でやるしか無いんだ。自分でやらなくては、いつまで経っても出来るようにはならないんだ」と観念して、少しずつですが、出来なくなって避けていたことを自分でやるようにしました。
 本当に恐ろしかったし、もういっそ、死んだ方がマシと何度も思いました。誰かにこの不安な気持ちを聞いて欲しい、自分の胸にしまっておけない!と何度も思いました。しかし、よくよく考えると、いろんな人に悩みを訴えても、誰かがいろんなアドバイスをくれても、結局は自分のことは自分で決めるしかなく、また、人に悩みを訴えてどんなに聞いてもらったとしても、スッキリとせず、また違う誰かに同じ悩みを訴えてみたりしている自分がいたりすることに気づきました。

 自分が納得の行くような答えなど、誰も持っていないんだな、って気づきました。それに、誰かが話を聞いてくれて、何かアドバイスをくれたとしても。それを素直に受け入れずに、自分の都合の良いような言葉を望んでいた自分にも気づいたりしました。結局、答えは自分の中にしか無いんだな、と気づいたんです。なので、誰かに悩みや不安やグチを聞いて欲しくても、私もいっさい他人に悩み相談をしないようにしてみました。不安でも、自分でこらえて、自分がその時にやれることにとにかく行動を移すようにしてみたんです。

 言葉で書くと、サラーッとやってるような風に見えてしまいますが、現実は、一筋縄では行かなかったです。地獄かと思うくらい苦しかったです。ダメな日もありました。でも、自分で乗り越えなくては、これからも一生このままだ、と思い、上手く行く日もあれば、全くダメな日もありましたが、もうとにかく、やるしかないと思い、頼れるようなもの=つまり退路をいっさい断って、自分でやるようにしました。 

 結果、病気がだんだん良くなりました「もう自分でやるしかない」という、イヤイヤでもそういう風になるには、とにかく本人に逃げ道があっては、なかなか決意出来ないものです。周りの家族や友人、恋人などは、放っておけなくて、ついつい手助けしてしまいますが、周りの人が「手助け」と思っていることが、実は本人をさらにダメにしてしまい、病気がどんどん悪化していくことに加担してしまうのです。

 患者本人が自分の力で不安を持ちこたえて打破することが出来ることを助けるには、周りの人が出来る本当の手助けは
 「放っておくこと」
 「手助けしないこと(強迫行為を手伝ったりなどしないこと)」
 「本人の責任において、本人のことは本人にやらせて、本人に解決させること」なのだな、と今は思います。

 私の主治医の先生がおっしゃられたことの意味が今はとてもよくわかるのです。周りの家族や友人の人達は、目の前で自分の家族や友人が苦しんでいたり、あるいは何度も何度も苦しいなどと悩みを訴えてくれば、放っておけないものですが、本人のためと思って、周りの人は心を鬼にしなくてはならないのだと、実際に体験してみて、強く思ったりしています。
 もしもご家族などで、患者の確認行為を手伝ってしまっていたり、本来は1人で外出しなくてはならないのを付き添ってしまっていたり、患者が強要してくる儀式行為をご家族なども一緒になってしてしまったりなどしていたら、即刻やめた方が良いと思います。

 また、誰かが身代わりに強迫行為をやることによって、患者本人がその強迫行為をやらずに済む、と思うのも間違いです。始めは誰かが代わりに確認などをしてくれるから、患者は楽になったような気持ちでいます。でも、そのうちだんだん、たとえば、
「お母さんは確認したと言ったけど、本当に確認してくれたのだろうか?」とか、
「お母さんは確認したつもりかも知れないけど、見落としたんじゃないか?」などと、
次々と不安が沸くようになっていきます。

で、親が「確認したよ」と言ってるにも関わらず、親にも何度も確認するよう強要したり、あるいは患者の気が済む「やり方」で確認などをするように強要するようになってしまいます。家族も周りも巻き込まれての強迫儀式が延々と続くことになってしまい、患者本人も結局、「不安が起こっても自分でこらえて、自分で抱える」という根本をやらないわけですから、不安が起こるたびに他力を頼り、頼るたびに不確実な気持ちが浮かび(結局、他人にやってもらってるから)、際限なく、どんどんと不安や強迫儀式をやり続けることになり、どんどん悪化してしまいます。

 強迫観念に打ち勝つには「怖くても自分でこらえる」「強迫行為をいっさいやめる」ことを決意し、それを断行しない限り、改善の道につながらないのです。

 長くなりましたが、もしご家族など周りの方々で、患者の強迫行為を手伝ったり、あるいは何度も何度も悩みを訴えてくるのに付き合ってしまっている方がいらっしゃったら、その手助けを辞めて、患者本人がもう自分でやるしかないのだ、と観念する状態にしてあげることが大切だと経験から思います。

 患者本人も周りの人も、自分の人生は自分しか歩くことが出来ないから、自分の力で歩く訓練をしない限り、いつまで経っても出来るようにならないからです。酷なように聞こえるかも知れませんし、私も実際に主治医に言われたときは「酷だなぁ」と思いましたが、優しい言葉をかけることだけが手助けではなかったのだとわかりました。
 親が心を鬼にして、私のことをいっさい無視するように親も努力してくれたのだと、今になってわかりますし、親が主治医の言うことを忠実に守って、私を放って無視し続けたことで、結果、私は自力でやらざるを得なくなり、それが回復につながっていったので、今では感謝しております。

 うちの親は
 「無視するって、本当にキツかったよー。しつこく言われれば、こっちもついつい反応したくなっちゃうから。本当に苦しかったけど、こっちがアンタの言うことを聞いたら、アンタはいつまで経っても治らないと思って、こっちも相当ガマンして辛かったよー。こっちも頭がどうにかなりそうだったわ!」
 と言っていました。

 当時は自分の苦しみでいっぱいで、周りの気持ちを思いやることが出来ずに私は自分1人が一番苦しんでるような気持ちになっておりましたが、でも実際は、苦しい苦しい、助けて助けてと悩みを吐きまくっていた私を無視する、ということをしていた私の家族も、とても苦しい思いで主治医の言いつけを守り通して無視をし続けていたのだ、とわかりました。私は自分のことしか考えていなかった事を恥じ、同時に、固く主治医の言いつけを守って、私を放っておくことで私が自分で自分のことをやる状態に誘導してくれた家族に感謝しています。
 優しい言葉や、その場の目先のことを手助けしてあげることは、時として、ただのその場を何とか取り繕うための付け焼き刃にしかならず、本当の問題にフタをしてしまっており、長い目で見れば、問題が解決されないまま、その場の応急処置だけで時間を過ごしてしまって、問題自体はどんどん悪化をし続けてしまっている…ということになりかねないのだな、と今では思っています。
 ご参考になるかわかりませんし、絶対そうした方が良いと断言も出来ませんが、私が良くなるために経験した体験として、ご参考までに記しました…

原因と治し方

強迫性障害には様々な症状があります。例えば、不潔恐怖、確認強迫、加害恐怖、縁起恐怖、など…人によって恐怖の対象は様々で、他の人にとっては何にも怖くないことが自分にとっては本当に恐ろしかったり不安だったりするのも特徴だと思います。

 だから、自分でも時々、「なんで自分はこんな事を恐ろしく感じてしまうのか?何とかこれを恐ろしく感じなくならないだろうか?その方法は無いだろうか?」と思ったりすることもあると思います。だから、この病気になると、とかく自分の恐怖対象に対して、何とかアプローチする治療方法は無いか?と思ったりするのではないでしょうか?少なくとも私はそうでした。

 だから私が病院を受診した時は、「とにかく私はこれこれに対して強迫観念が沸いてしまって、これこれがこんなに怖いのです。また、あれも恐怖対象だし、さらにこれも恐怖対象で…」
と、とにかく事細かに、自分が何に恐怖や不安を感じているのかを必死で説明しました。しかし、私が病院の先生に言われたことは、「症状はどうでもいい、恐怖対象が何だっていい。何がどう怖いと思おうが、根っこは一つです」という事でした。それはつまり、人によって恐怖対象は様々ですが、要は、何か怖い目にあったり、不安な気持ちが浮かんだり、怖い考えが浮かんで恐怖を感じた時に、「その不安や恐怖を受け止めて、それに耐える力が弱いことが原因だ」という内容のことを言われたのです。

 つまり、何か不安な事が起きると、その不安に負けてしまって折れてしまうから、どんどん具合が悪くなっていくのだ、ということです。なので病院の先生は「今のあなたは赤ちゃんみたいに非力で、水の入ったバケツ(つまり不安)を一つも自分で持てない状態にいます。だからそれを、いくつもいくつも沢山のバケツを持てるように訓練して行きましょう」とおっしゃいました。

 これを最初に聞いたときは、私はピンと来ず、とにかく自分の強迫観念が何とか浮かばなくなる治療は無いのか?自分の恐怖対象が恐怖対象では無くなるような治療は無いのか?と、その時はいてもたってもいられず、何とか直接的に自分の恐怖対象にピンポイントでアプローチしてくれるような治療法は無いのだろうか?と、気持ちが落ち着きませんでした。

 しかし、今にして思うと、先生のおっしゃった通りだったことが良くわかります。自分の恐怖対象のみに効く、という治療法は無いのだとも思います。仮に、もしか自分の恐怖対象だったもののみに効く治療があったとして、今まで怖かったものが怖くなくなったとしても、自分の心の不安に対する耐性が弱い限り、また別の不安を見つけ出して悩むことになります。

 強迫観念が何故沸いてしまうのか。何故、強迫症状が起きてしまうのか。それについては残念ながら、まだ現在の医学では解明されていません。ゆえに、強迫性障害という病気は、例えば何か注射を打てばすっかり治る、とか、何かをちょっとやればスッキリ治る、という病気ではありません。いつの日にか、遠い将来には、脳のしくみが今よりも解明されて、強迫性障害の治療を脳医学的に治療するような日が訪れるかも知れないですが。

 しかし、道はあるのです。それは、上に書いた、「自分の心を強くするよう訓練する」という方法です。そしてこの訓練をすること=行動療法なわけです。よくよく考えてみれば、同じ目にあっても、「まあいいや」と平気で気持ちを切り替えられる人と、いつまでもメソメソしたりクヨクヨしたり、引きずってしまう人がいると思います。それはそれぞれ、不安や困ったことが起きた時に、それに対する耐性が強いか弱いか、というのが関係しているのだと思います。そして、不安や悩みを自分で抱えて自分の力で処理出来ない人は、周りに相談しまくってしまったり、周りに頼ったり、八つ当たりしたり、あるいは自己嫌悪に陥ってさらに悩んだりしますが、これらの行動は全て、形は違えど「現実から目を背けて、自分の力で何とか前に行こうとすることから逃げる」行為であります。そして、これを続けていると、どんどん自分の力で何も出来なくなってしまって、ますます悪循環の中に陥って行ってしまうことになります。

 しかし、これは「自分の決意」と「訓練」を重ねることによって、少しずつ少しずつ、強くなって行きます。人によってペースはさまざまでしょうが、あきらめず、投げ出さず、歯を食いしばってでもやり続けているうちに、少しずつ、自分の力で耐えられるようになって行きます。行動療法は本当に苦しい訓練です。人によっても度合いは違うでしょうが、少なくとも私にとってはひどく苦痛な治療でした。始めは何度も挫折しましたし、失敗も繰り返しました。しかし、自分はどうしても治りたかったし、強くなりたかった。なので、死ぬ気でやりました。おそらく、この治療を受けて改善された方の多くは、多かれ少なかれ、不安で不安で仕方なく、何度も何度も挫折もしたけど、それでも歯を食いしばってやり続けたから改善されたのではないか、と思います。

 怖いことをガマンして、とにかく自分でやるようにする、というならば、医者に行かなくても良いのでは?と思う方もいらっしゃるでしょう。確かに、自力で治された方を知っています。
その人は、本当に、自分の力で、血反吐を吐く覚悟で治されたようです。しかし、自分1人の力でそこまでやるには、相当に強い意志がなければなかなか難しい。よって、始めのうちは専門医のサポート、治療を自力にて出来るようになるためのきっかけ作りを医師にしてもらう、というのが良いようにも思います。

 しかし、いったん治療に踏み切れば、医者が全てを魔法のように治してくれるわけではありません。医者はあくまで道案内役、なわけです。もちろん優秀で専門的な道案内人ですから、その人の案内を信頼しなくてはなりませんが。しかし、その道(治療の道)を歩くのは、「自分」です。自分の足で歩いて行かねばなりません。怖くても、恐怖や不安で気を失いそうになっても、引き返したり、足踏みをしたまま前に行かない、というのでは良くなりません。ほんの一歩でも、とにかく前に進めば、いつかゴールが見えます。

 自分の道を自分で歩く、ということこそ、つまり、「何か不安や問題があっても、それを自分で抱えて自分の力で耐えて、乗り切っていく」ということになるのではないでしょうか。自分の人生は、誰も肩代わりはしてくれません。その時々で助けてくれたり、自分の代わりに嫌なことをやってくれたり、話を聞いてくれたりすることはあるでしょうが、しかしそれらは全て、一時的なものでしかなく、また、あくまでサポートにしか過ぎない。永遠には続かないものです。その周りの人達にもそれぞれの負っている自分の人生があるからです。

 自分の人生は自分で歩いて、切り開いていくしかない。だから、それがちゃんと自力で出来るようになるために訓練を重ねることで、強迫観念が浮かんでも、不安が襲っても、それに耐えて、それに囚われて足踏みをして何時間も時間を無駄にしてしまうことなく、「怖いけど、不安だけど、でももう次のやらなくちゃならないことをやる!」という風に自分自身の気持ちにケジメをつけることが少しずつ出来るようになり、始めは無理矢理そうやってる、って感じですが、
だんだんとそれに「慣れて」行って、そのうち、知らない間に平気で出来るようになって行くというか、少なくとも私はそうでした。

 強迫観念は相変わらず浮かんだりもしますが、前にみたいに瞬時に恐怖を覚えて身動き出来なくなるのではなく、浮かぶし、ちょっと何だかモヤモヤ不安だけど、もう面倒くさいから、どうでもいいや、という風に思えるようになって行きました。そして、強迫観念が浮かぶということに囚われなくなっていった結果、強迫観念が浮かぶこと自体も、どんどん少なくなって行きました。昔よりも「水の入ったバケツ(不安)」を、たくさん持てるようになったからだと思います。

 病院の先生によれば、人によってどれくらいでそういう兆しが現れるかは様々ではあるけど、
平均して大体、治療をはじめて3ヶ月くらいで改善の徴候が見られることが多い、とのことでした。私も本格的な治療を始めて3〜4ヶ月くらいで、少しですが、回復の兆しが見え始めました。
しかし、それには、適当にやったり、治療でやらねばならない事を先延ばしにしてしまったり、
誰か他人に代わりにやってもらったり、あるいは病院には通っているけど治療課題はやってない、という風では、全く良くなりません。本当に苦しいし、我慢に我慢を重ねて、こんなに辛い目を体験しなくては良くならないのか?と思ったりしますが、それでもやり続ける、ということをやって、それで大体3ヶ月くらいから、という感じです。

 病気に負けるな、というよりも、「自分に負けるな」というのが、この病気の治療をやって行く上で、大切なことだと、体験から痛感しております。

治るとは何か

 20才から20数年間、強迫性障害を患って、どのような薬を飲んでも治りませんでしたが、行動療法という治療法を行って、大体8割〜9割ほど、病気が回復しました。行動療法の専門医による治療を数年前に行い、あれから3年くらい?経ちますが、日常生活をほとんど普通に送れる状態がずっと続いております。
 強迫性障害において「治る」とはどういうことか…専門的な事はわからないですが、私個人の体験から言えば、この病気が自分の身体(頭)からすっかり取り除かれ、全くまっさらになる、という感じでは無いと思っています。

 例えばウィルスなどが原因の病気は、ウィルスが身体からいなくなれば病気は治った、という事になりますが、強迫性障害については、そういうのとは違うと思います。なので、つまり、強迫性障害自体は相変わらず、自分の脳の中にいる、という感じです。脳みそを取り替えない限り、自分の中から完全に無くすことは出来ないのでは?と思っています。だから強迫性障害という病気を克服することは、「治った」「完治した」というのとは、またちょっと性質が違うのかな?というのが私の感想です。

 では強迫性障害の克服、広い意味では「治る」とはどういう感じなのか…これは「強迫観念は相変わらず頭の中にあるが、しかし、これを気にしなくなる、忘れる、どうでも良くなる、多少気になるけど放っておけるようになる…」という感じでしょうか。
 わかりやすい物にたとえて言うと、例えば近所で工事が始まるとする。毎日毎日、ドリルで地面を掘る音、何かの金属音などでとてもやかましい。ガンガンと鳴り響く工事の音は、最初はやかましいなぁ、と思ったりするが、毎日毎日聞いてるうちに、そのうちそれが当たり前みたいになって、気づいたら、どうでも良くなっている、騒音を気にしなくなっている。だけど、騒音自体はそこにしっかり存在しているわけですが…そこに注意を向ければ、ああ、騒音、やかましいなーと思うが、しかし、もうどうでも良くなっていて、無意識に気にしなくなっている…みたいな感覚です。

 良くなった今、強迫観念がまるっきりゼロになったかと言うとそうではなく、相変わらず強迫観念は存在しますが、そこに特に注意を払わなくなる、気にしなくなる、そんな感じです。そして、やがて、日常の本来自分がやらねばならない事(仕事、家事、プライベートの諸々)をやっているうちに、それらが忙しくなり、強迫観念のことを考えている時間が無くなる、とでも言うか、強迫観念が浮かんで浮かんで仕方がない、という状態がだんだん薄れて行きます。
 逆に考えれば、強迫観念自体は存在はしているわけなので(強迫観念が浮かんでしまう脳のしくみということなのかどうか、専門的なことはわかりませんが…)、調子が悪い時、ひょっとした何かきっかけがあった時に、また再発しやすい病気、ということなんだろうかなぁ、と思ってみたりしています。

 しかし、日々、自分が恐れていることを避けずにやり続けていることでだんだん耐性がついていって、普通に生活が出来るようになるのもまた事実だと体験から思います。強迫性障害において「治る」とは、「気にしなくなる」「まあ、いいやと思えるようになる」「そのうち観念のことなど忘れてしまえるようになる」、そんな感じだと、私としては体験から思っております。

Y子の体験談の特徴

 バタバタと多忙な日々を過ごしております。
 とても長い連載になってしまいましたが、これは以前、別のブログに連載していたもので、あくまで私の体験談にしか過ぎませんが、もしかしたら何か、治療をされる上での参考になることもあるかもしれない、と思い、改めて掘り起こして、連載してみました。本当にかなり長文ですが、治療をやってる時の心の持ち方、心の中の葛藤、変化などをなるべく詳しく書くようにして連載したものです。
行動療法をやって良くなった、怖かったけど出来るようになった、という体験談は本などでよく目にしますが、怖いことに挑戦してから出来るようになるまでの、主に心の有り様、葛藤、ジレンマ、そして最終的にどのように気持ちが変化して出来るに至ったかが書いてあるものを私自身が悩んで、なんとかヒントをつかみたくて、いろんな文献を読みあさっていた時には、あまりそう言った事が書かれてある本などが無いと感じていて、「行動療法が効くのはわかったけど、でもあんな怖いことをどうやったらやれたのか」という、その時の気持ちや心の持ち方が知りたい、と、当時、痛切に感じていたりした事もあり、至らない文章で申し訳ないのですが、自分の心の中の気持ちの変化みたいなものもなるべく詳しく書いてみることにしたものです。全部が全部、網羅しきれてはいないので、どこまでご参考になるかはわからないのですが…もしよかったら、お読み下さい。
 では、よろしくお願い致します。

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