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こだわり力
これはY子さんのブログからの引越しです

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儀式妨害の大切さ

強迫行為を止めるために私が自分なりに工夫した点を書く予定にしていましたが、
強迫行為をやめれば症状は良くなるか、と言うご質問をいただいたこともあり、強迫行為を止めた方が良いと言うことについて、何をどう伝えれば良いか今日までずっと考えていまして、私なりの考え、と言う形に最終的にはなってしまうのかも知れませんが、病院で先生方に言われた内容も含め、そのことについて今回は書いてみようと思います。
 行動療法では、「儀式妨害」と言って、つまり強迫行為をしてしまうのを止めるよう医師から指導されます。強迫行為を何故やってしまうかと言うと、不安や不確かさを解消するためにやってしまうわけですが、何度やっても安心感や確かさも得られないし、やってもやっても不安だったり不快だったりで、ますます息を詰めて、なんとか安心、安全を得たいと躍起になって、ますます強迫行為がやめられなく、もうヘトヘトで辛いのに、と思いながらも不安はうなぎ登りに上昇し、その場から離れられず、何とか自分が納得行くまで、と思ってしまい、全然やめられない…本当はこんなこと止めたくてたまらないのに、他にもやることあるのに、こんなに疲れてるのに、でもやめられない!!となってしまいます。

 病院の先生に私が言われたことは、「安心や納得を得ようと強迫行為をしてしまうが、強迫行為をやればやるほど症状は悪化する。強迫行為をやることにより、自分の強迫観念の対象物のことを、ますます自分にとって怖いもの、不安なもの、あるいは不快なものと脳に刷り込んでしまうことになる。つまり安心を得ようとやってる行為が実は逆効果な結果を脳に学習させてしまっている」と言う内容のことを言われました。

 また、この病気は「自己防衛反応が過度になっている状態」で、自分を守りたい気持ちが強過ぎる状態にあると言うか、以前の記事でも書きましたが、「何か不安や問題が起きた時に、それを自分で抱えきれない、こらえることが出来ない」ことが一番の問題だと言われました。なので、不安な考えや嫌な考えが浮かんでも、それを抱えながら、あるいは「もうどうでもいいや」と流すように訓練をすることが肝要と言われました。なので、なんとか早くスッキリしたいとか安心感を得たいと強迫行為をやってしまうことは、つまりは不安に耐えたり流したりすることと逆行してしまうことであるので、その観点からも、強迫行為をやり続ける限り、自分にとっての不安なことや苦手なことから逃げてしまうことになるので、強迫行為をやめて耐える努力をしない限り、苦手なものは苦手なままで、何も前に進んで行かないように思います。

 また、強迫観念から解放されたいとの思いで強迫行為をやるわけですが、強迫行為をやり続けること=自ら強迫観念に執着してしまっていると言うことになるのではと思います。考えたくないと思いながらも、結局、強迫行為を繰り返すことで自分で進んで強迫観念のことに執着して首を絞めてしまっていることになります。不安を解消することに執着する限り、不安は逆に解消されず、絶えず不安な気持ちのままな状態をずっと引きずることになるな、って言うのは、確かに私もその通りだなと思いました。

 強迫行為をやめれば必ず誰もが良くなるか、については、医学的にどうかや、絶対そうなるよ、とは、私は医師ではなく、ただの患者に過ぎないので明言、断言は出来ないのですが、ただ、強迫行為を繰り返すことはすなわち、結局自ら強迫観念のことばかりに執着してしまっていることになり、これではいつまで経っても解決しない、と言うのは理に叶っているな、と思います。

 また実際に強迫行為を繰り返せば繰り返すほど悪化の一路を辿りましたし、はじめは数回の強迫行為で済んでいたものが、しまいには何時間もやめられなくなってしまい、生活が機能しなくなってしまったし、また「本当は強迫行為をやめたいのに。一回だけパッと見たら、もうその場を離れたいのに」と希望していたとしたら、どうやったらそうなれるかは、何度も強迫行為を繰り返している限り、いつまで経っても希望に近づかないのは当たり前なことだなと、ある時気づいたのですが、一回で離れたいなら、一回で離れる経験を自らやらない限り、ずっとやれないままなのは、強迫行為のことに関わらず、他のいろんなことにおいても同じ理屈で考えることが出来るな、と思い、何故、強迫行為をやめることに一歩踏み出さねばならないかの重要さがわかったように思ったのでした。

 例えば、すごく上手に絵を描きたいとして、まずは実際に描かない限り、いつまで経っても何も描けないままですし、仕事でも遊びでも何でも、こうやりたい、こうなりたいと思ったら、実際に自分でそれに着手しない限り、ただ願っているだけでは何も動いて行かないのと同じことのように思いました。

 世の中には、例えば何度も確認などをしてしまう生活を送っていても平気な人もいるし、逆に何度も確認することがその人にとっては当たり前なこととなっていて、そのことで悩んでいない人もいます。私の伯母がそうです。伯母も何度も確認行為をする人ですが、そのことで悩んでいなくて、むしろ当然のこととして、伯母の生活スタイルの一部となっています。確認行為に時間を取られることで、他の人に比べて次の行動に移るのが遅いし、はたから見てると非常に効率が悪く、1日にこなす物事の量が他人と比べたら少なくて、一つのことにそんなに確認して時間を掛けていたら、いくら時間があっても足りないよ!と、よく祖母から小言を言われていましたが、伯母は全くヘッチャラで、むしろ自分の時間軸の方が正しいと言ってるくらいで何も悩んでいませんでした。

 なので、何が正しくて何がダメで、という明確な基準というのは無くて、たとえ何度か確認なり、他人より過度に手洗いをするなどがあっても、生活が回っていて、自分がそのことで悩んでなければ、その人それぞれの習慣として、それらの行為があっても良いとも思うのです。しかし、生活に支障を来していたり、悩んでいたり、とにかく自分は本当は何度もやらずにパッと終わらせたいのに、と思うのであれば、それは自ら、そうするようにしてみなくては、いつまでも出来ないままとなってしまいます。

 だから苦しくとも強迫行為をやめる努力、訓練に着手したのでした。ずっとずっと強迫にさいなまれて生きるか死ぬかくらいの気持ちで長年悩んで来たことです、だから、そんな急に上手くやれるわけがありません。最初は上手くやれなかったり、かろうじて強迫行為をやらずにいたとしても、爆裂な不安に押し潰されますが、それは当たり前のことだと思います。自分がこの世で一番怖いと思っていることをあえてやるわけですから、怖くて不安で当たり前だと思います。

 だから病院の先生方も「治療は辛いですよ」と最初におっしゃいます。ただ、これは良くなって行く過程でおそらく誰もが通るべき関門で、良薬口に苦しと同等なものだと個人的に捉えています。そして、この治療方法によって、これまでに多くの患者さんが快方に向かわれたという医学的なデータがあり発表されていることや、診ていただいた主治医の先生方も30年近くの治療経験において、この方法で多くの患者さんを回復させた実績を持たれておられると言うことを信じて、そして「治療は辛いですよ。そして医師である我々はあくまで道案内役で、実行するのはご自身ですよ。全て自分次第です。ただし、それを行えば、必ず良くなりますよ」と言う言葉を信じて、
と言うか、私の場合は20年に渡り患っており、いくつもの病院に通い、いくつもの薬を飲み、いろんな治療をやった挙げ句、全く良くならず、悪化の一路をたどり、もうワラにもすがる気持ちで、もう残された治療の選択肢はこれしかないと、最後の砦として行動療法をやるしかないと思って受診したので、もう信じるしか道は無かったのですが、結果的に、まだ症状はあるにせよ、飛躍的に良くなり、一時は怖くて何も出来なくなり、寝たきりになってしまったのが、ほぼ普通に生活も出来るようになったので、治療は確かに辛く、と言うか生き地獄に思えましたし、何度も挫折したり煩悶しましたが、這ってでもあきらめずに治療、つまり、怖いものにあえて直面することと、強迫行為をやらずに次の行動に移ると言うのを、日々とにかく挑戦し続けて良かったと思っています。この治療はとにかく根気が必要です。すぐには結果は出ません。地道な挑戦、訓練の繰り返しです。

 どうしても強迫行為が我慢出来なくて、ダメと言われてもやってしまって、先生に泣きついた時もありました。すると先生は「強迫患者さんは、すぐに結果を求め過ぎる。また、すぐに完璧な答えを求めたり、知りたがり過ぎる。結果がなかなか出せないと言うことを受け止められず、すぐに出来ない、やれないと言うことばかりを訴える。それでは上手く行きません。とにかく、あなたが治療としてやらねばならないことは、すでにわかっているはずです。それを自分の意志で、自分の責任と選択において実践し続けることが大切です。今までの治療実績では、ちゃんと実践して、平均で大体3〜4ヶ月で回復の傾向が見られるようになっています」と言う内容のことを言われました。
 そう言われて、その時に思ったのは、「確かにすぐに結果や答えを知りたがってる自分がいるな」と言うことと、「すぐに結果を知りたがったり出したがったりするのも、結果が出ないモヤモヤや不安や焦りを抱えて耐える力が弱いからだ、すなわち先生が治療の始めに、『この病気は症状や恐怖対象が何であれ、どうでも良いのです。
一番の問題は、あなたが不安を抱えることが出来ないことなので、それを不安があっても耐えることが出来るように訓練するのが治療となります』と言ったことと同じことなのだ」と言うことでした。

 なので、すぐに結果が出ないモヤモヤや不安を味わうこともまた、治療の一部なのだと思い直して、とにかく、もうやるしか道は無いと、本当に地道も地道、いつゴールが来るのか?果たしてゴールなんてあるのか?とも思いつつも、苦しい治療でしたが、あきらめずにやり続けて良かったと思います。強迫行為をやめることを「儀式妨害」と専門用語では言いますが、なぜ儀式と言う言葉が使われているかは、不安を解消しようとして、自分では、もう強迫行為をやらないと気が済まない、おまじないの一種というか、繰り返した所で何ら有益でもなく、建設的な行為でもない不毛なこととわかっているのに、やらないと気持ち悪い、やらないと気が済まないと自らに課してしまっているから儀式と言う言葉を使っているのかなぁ?と、ふと思いました。
 確かに、初めは何となく不安で、ふと何度か確認したに過ぎないのに、何度か確認したことで、余計にその対象物の安否を意識するようになって行き、意識するとますます確かな安心を求めるようになり、放っておけず、ますます念入りに確認するようになり、たまには大丈夫かなと思う時もあったけど、でも確認行為をやらないと何となく漠然と不安で念入りに確認してしまい、するとますます対象物のことが頭に強く重要事項として刷り込まれ、完璧な安心感をますます求めるようエスカレートして行きました。

 なので、私自身は体験として、強迫行為をやればやるほど症状がエスカレートするというのは合点が行きます。エスカレートせずに、私の伯母のように、ある一定程度で止まる場合もあると思いますが、私は何時間も強迫行為をやめられず、生活がにっちもさっちも行かなくなり、ほぼ何も出来ない状態まで悪化してしまっていたので、
強迫行為を止める訓練をして本当に良かったと感じております。

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