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こだわり力
これはY子さんのブログからの引越しです

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強迫症状が辛くて、会社や学校を辞めたいと思うこともあるかと思いますが、私は出来る限り辞めない方が良いと考えます。

 その理由は、
1:「ヒマは強迫の敵」とも言われるように、空いた時間が出来てしまうと、ますます強迫観念のことばかり考えてしまうようになるから。
2:強迫行為を治すには、強迫行為をやらないでおく事が一番の治療ですが、自分の意志のみで強迫行為を制御するのはなかなかに困難です。もし仕事や学業など、自分がやらねばならない何かしらの責任のあるものがあれば、その仕事なり学業なりを果たすために、どこかのタイミングで、嫌でも強制的に強迫行為を辞めねばなりません。
なので、強迫行為を制御する訓練のためにも、強制的にでも制御しなければならない環境に身を置いていた方が結果的に良いと思うのです。実際に私は強迫症状がひどくて会社を休職していましたが、現在の主治医の先生は、すぐに職場復帰するように、と言われました。結果として、それは苦しいことではあったけど、でも治療にとって効果的でした。

3:仕事なり学校をやめてしまうと、ただでさえ強迫症状でいろんな日常のことが普通に出来なくなって悲観しているのに、それに加えて、辞めてしまったことで、自分が何も出来ない人間に思え、無能感を抱いてしまったり、ますます社会から断絶してしまった気がして、どんどん落ち込んでしまいます。そのことで、ますます悲嘆的になり、自分の足で立とうと言う気持ちになりづらくなったりします。苦しくても何とか踏みとどまって、まかりなりにも自分は仕事を、あるいは学校を続けている、という事実は、自分を保つことにつながるように思うのです。

4:いったん辞めてしまうと、またやっぱり仕事につきたい、学校に戻りたい、と思っても、物理的にも精神的にもハードルが高くなってしまいがちです。
5:会社や学校をやめて一時的に楽になっても、基本的にはいつかは、そう言った社会の中で生きて行かねばならず、
また、社会生活を上手く営むためには、社会生活の中で訓練を積むのが一番だと思うのです。また、いったん逃げてしまうと、次からもどんどんと逃げてしまうようになり、なかなか自分の力で踏ん張ったり、不安や困難に対する耐性を身につける機会を逸してしまいます。
 
 強迫観念に打ち克つ、また、強迫行為をしたくてたまらなくても我慢出来るようになるためには、何もしないで受け身で待っていても、いつまで経っても現状打破は出来ず、自分で制御出来る力を訓練により身につけねばなりませんが、そしてその訓練がすなわち行動療法ですが、それをやらねばならない環境に身を置く=会社や学校をやめずいる、と言うことは、苦しみも伴いますが、結果として、治療に大きな効果をもたらすことでもあると、以上、箇条書きにして書いた内容も含めて自ら体験した気持ちや状況ですが、経験からそのように思います。

 人によって状況はさまざまなので、一概には言えないと思いますが、なかなか自分の意志だけで強迫行為をやらずに次の行動に移る、というのを始めから実践するのは難しいので、仕事をしていれば嫌でも強迫行為を振り切って仕事を完了させねばならないし、また会社や学校では人目があるから、いつまでも強迫行為をやり続けることも出来ないので、一見この状況はとても辛くて疲れる状況に見えますが、裏を返せば、それらが強制的にでも抑止力となって、強迫行為を永遠にやり続けてしまうループを断ち切ってくれる、とも言えます。強迫行為はやればやるほど、どんどん深みにはまり、やがて何時間も辞められなくなってしまうので、強迫症状を抱えながらの仕事や学校は辛いものだけど、逆にその強制的に強迫行為を辞めざるを得ない環境を利用して、治療の一助とするのが良いように感じています。

周りの人の反応

 強迫性障害を患うと、いろんな事が不安なったり怖くなったりし、自分が恐れている物事を自分でやれなくなったりします。
 患者は不安から、周りの人達に不安を絶えず口にしたり、相談したりなどし、時にはその回数も尋常じゃなくなり、周りの人達の都合や気持ちを考えず、とにかく自分の気持ちを晴らしたいことばかりに囚われてしまい、しつこく誰かに自分の気持ちを聞いてもらおうとしてしまったりもします。そして、場合によっては、自分が恐れていることを、家族や友人など、周りの人に自分の代わりにやってくれるようお願いするようになったりします。または、自分の強迫行為を周りにもやってくれとお願いしたりもします。

 例えば、
 「自分の代わりに戸締まりを確認してくれ」
 「外出から帰ったら、石けんで家族もゴシゴシ手を洗ってくれ」
 「外に1人で行けないから、付いて来てくれ」などなど…

 周りの人達は、かわいそうだと思ったり、何とか患者を楽にさせてあげたいと思って手伝ったり、あるいは逆に、あまりにもしつこくお願いされるために、どうしようもなくなって、手伝ってしまったりします。でも、これが病気を悪化させる原因になるのです。手伝ってしまうと、患者はどんどん自分で出来なくなってしまい、どんどん周りを頼るようになります。そしてそのうち、周りの人はどんどんと患者の強迫行為や悩み相談の渦に巻き込まれて行き、周りの人達の生活ペースまでおかしくなり、家族崩壊にもつながりかねなくなったりもします。

 また強迫性障害と言うのは、患者自身が自分で自覚して、自分で不安を抱え、不安を断ち切る訓練をしない限り、克服出来ないのです。周りの人達が永遠に患者の身代わりに確認行為などの儀式行為をしてあげられるなら良いですが、ずっと四六時中、一生涯、患者のそばに付いていてあげる事は出来ませんし、患者自身も自分でいつまでも出来ない事で、どんどんと気持ちが鬱屈し、卑屈になったり自信が無くなったりして行き、生きている充実感や達成感を味わえなくなり、気持ちもウツウツとして行ってしまいます。

 私も確認行為をずっとずっと家族に代わりにやってもらっていました。また、不安な気持ちから逃れたくて、周りにいかに自分が苦しんでいるかをわかってもらいたくて、いつも、しつこくしつこく、周りの誰かしらにグチや相談や不安を訴えていました。しかし、それをやっていると、いつまで経っても症状を克服出来ないばかりか、どんどん悪化させることになると医師に言われました。

 医師は私の家族に、
 「娘さんには1人で何でもやるようにさせて、娘さんがどんなに頼んでも無視して下さい。絶対に強迫行為を手伝って代わりに確認してあげたりとか、また、娘さんが何度も不安を訴えたり、相談をして来たりしても、それもいっさい無視して下さい。親御さんは『石』になって下さい。石は何もしゃべりませんよね?娘さんが泣こうが叫ぼうが、気絶しようが、やけになって暴れようが、いっさい無視して放っておいて下さい。娘さんは自分の力で自分の不安や恐怖を抱えて耐えて、それに立ち向かうようにならなければ、いつまで経っても治りません。そして、誰かを頼っている限り、頼れる場所がある限り、娘さんは結局そこに逃げ込み、自分の力でやろうとしないままになってしまいます。とにかく、娘さんはこの世で1人ぼっち、1人きり、自分でやらなきゃどうにもならない、という状態にして下さい」というような事を言いました。

 私の家族は最初はとても躊躇していました。
 「だって、子供が目の前で苦しんでいるのに、助けてあげ、手伝ってあげるのが親心では?」とか「しかも娘は、言うことを聞いてあげないと、いつまでもしつこく頼んでくるし、こっちも、あー、もう、そんなにしつこくしてくるなら、こっちでやってあげるわ!と、ついなってしまう」とか言っていました。

 しかし私の主治医の先生は、
 「親御さんも我慢して、ついつい娘さんの言葉に耳を貸してしまうのをこらえて下さい。親御さんのそういう姿勢が、娘さんをダメにしてしまっている部分もあるんですよ。親御さんにとっても、これは治療に当たるわけです。娘さんが八つ当たりしようが、泣きわめこうが、死ぬとか言おうが、いっさい無視して放っておいて下さい」
 そして、結果として、うちの家族は私の言葉にいっさい耳を貸さないように努力していました。

 「ねえ、お母さん、聞いて。やっぱりアレがすごく気になって怖いんだよ。だから一回だけでいいから、私の代わりに大丈夫かどうか確認して?」
 「ねえ、怖くて怖くて死にそうなんだよ。本当に苦しくてたまらないよ。どうしてわかってくれないの?」みたいなことを、私は家族にしつこく言いまくっていましたが、家族は腹をくくり、ガンとして、私の言葉に耳を傾けなくしていました。

 なので私は最初は、「ひどい」とか思ったり、「先生はああ言ったけど、1人で出来るわけなんかない、1人で不安をこらえられるわけがない、こんなに怖いのに!」とか、ムカついたり、絶望したり、とにかくメソメソしていました。
 でも、親などの、私の不安やグチを聞いてくれる人が1人もいなくなり、また私が怖くて出来なかったことを身代わりにやってくれる人が1人もいなくなってしまったので、とうとう私も自分で何とかしなくては生活が回って行かなくなって来ました。

 なので、「もう自分でやるしか無いんだ。自分でやらなくては、いつまで経っても出来るようにはならないんだ」と観念して、少しずつですが、出来なくなって避けていたことを自分でやるようにしました。
 本当に恐ろしかったし、もういっそ、死んだ方がマシと何度も思いました。誰かにこの不安な気持ちを聞いて欲しい、自分の胸にしまっておけない!と何度も思いました。しかし、よくよく考えると、いろんな人に悩みを訴えても、誰かがいろんなアドバイスをくれても、結局は自分のことは自分で決めるしかなく、また、人に悩みを訴えてどんなに聞いてもらったとしても、スッキリとせず、また違う誰かに同じ悩みを訴えてみたりしている自分がいたりすることに気づきました。

 自分が納得の行くような答えなど、誰も持っていないんだな、って気づきました。それに、誰かが話を聞いてくれて、何かアドバイスをくれたとしても。それを素直に受け入れずに、自分の都合の良いような言葉を望んでいた自分にも気づいたりしました。結局、答えは自分の中にしか無いんだな、と気づいたんです。なので、誰かに悩みや不安やグチを聞いて欲しくても、私もいっさい他人に悩み相談をしないようにしてみました。不安でも、自分でこらえて、自分がその時にやれることにとにかく行動を移すようにしてみたんです。

 言葉で書くと、サラーッとやってるような風に見えてしまいますが、現実は、一筋縄では行かなかったです。地獄かと思うくらい苦しかったです。ダメな日もありました。でも、自分で乗り越えなくては、これからも一生このままだ、と思い、上手く行く日もあれば、全くダメな日もありましたが、もうとにかく、やるしかないと思い、頼れるようなもの=つまり退路をいっさい断って、自分でやるようにしました。 

 結果、病気がだんだん良くなりました「もう自分でやるしかない」という、イヤイヤでもそういう風になるには、とにかく本人に逃げ道があっては、なかなか決意出来ないものです。周りの家族や友人、恋人などは、放っておけなくて、ついつい手助けしてしまいますが、周りの人が「手助け」と思っていることが、実は本人をさらにダメにしてしまい、病気がどんどん悪化していくことに加担してしまうのです。

 患者本人が自分の力で不安を持ちこたえて打破することが出来ることを助けるには、周りの人が出来る本当の手助けは
 「放っておくこと」
 「手助けしないこと(強迫行為を手伝ったりなどしないこと)」
 「本人の責任において、本人のことは本人にやらせて、本人に解決させること」なのだな、と今は思います。

 私の主治医の先生がおっしゃられたことの意味が今はとてもよくわかるのです。周りの家族や友人の人達は、目の前で自分の家族や友人が苦しんでいたり、あるいは何度も何度も苦しいなどと悩みを訴えてくれば、放っておけないものですが、本人のためと思って、周りの人は心を鬼にしなくてはならないのだと、実際に体験してみて、強く思ったりしています。
 もしもご家族などで、患者の確認行為を手伝ってしまっていたり、本来は1人で外出しなくてはならないのを付き添ってしまっていたり、患者が強要してくる儀式行為をご家族なども一緒になってしてしまったりなどしていたら、即刻やめた方が良いと思います。

 また、誰かが身代わりに強迫行為をやることによって、患者本人がその強迫行為をやらずに済む、と思うのも間違いです。始めは誰かが代わりに確認などをしてくれるから、患者は楽になったような気持ちでいます。でも、そのうちだんだん、たとえば、
「お母さんは確認したと言ったけど、本当に確認してくれたのだろうか?」とか、
「お母さんは確認したつもりかも知れないけど、見落としたんじゃないか?」などと、
次々と不安が沸くようになっていきます。

で、親が「確認したよ」と言ってるにも関わらず、親にも何度も確認するよう強要したり、あるいは患者の気が済む「やり方」で確認などをするように強要するようになってしまいます。家族も周りも巻き込まれての強迫儀式が延々と続くことになってしまい、患者本人も結局、「不安が起こっても自分でこらえて、自分で抱える」という根本をやらないわけですから、不安が起こるたびに他力を頼り、頼るたびに不確実な気持ちが浮かび(結局、他人にやってもらってるから)、際限なく、どんどんと不安や強迫儀式をやり続けることになり、どんどん悪化してしまいます。

 強迫観念に打ち勝つには「怖くても自分でこらえる」「強迫行為をいっさいやめる」ことを決意し、それを断行しない限り、改善の道につながらないのです。

 長くなりましたが、もしご家族など周りの方々で、患者の強迫行為を手伝ったり、あるいは何度も何度も悩みを訴えてくるのに付き合ってしまっている方がいらっしゃったら、その手助けを辞めて、患者本人がもう自分でやるしかないのだ、と観念する状態にしてあげることが大切だと経験から思います。

 患者本人も周りの人も、自分の人生は自分しか歩くことが出来ないから、自分の力で歩く訓練をしない限り、いつまで経っても出来るようにならないからです。酷なように聞こえるかも知れませんし、私も実際に主治医に言われたときは「酷だなぁ」と思いましたが、優しい言葉をかけることだけが手助けではなかったのだとわかりました。
 親が心を鬼にして、私のことをいっさい無視するように親も努力してくれたのだと、今になってわかりますし、親が主治医の言うことを忠実に守って、私を放って無視し続けたことで、結果、私は自力でやらざるを得なくなり、それが回復につながっていったので、今では感謝しております。

 うちの親は
 「無視するって、本当にキツかったよー。しつこく言われれば、こっちもついつい反応したくなっちゃうから。本当に苦しかったけど、こっちがアンタの言うことを聞いたら、アンタはいつまで経っても治らないと思って、こっちも相当ガマンして辛かったよー。こっちも頭がどうにかなりそうだったわ!」
 と言っていました。

 当時は自分の苦しみでいっぱいで、周りの気持ちを思いやることが出来ずに私は自分1人が一番苦しんでるような気持ちになっておりましたが、でも実際は、苦しい苦しい、助けて助けてと悩みを吐きまくっていた私を無視する、ということをしていた私の家族も、とても苦しい思いで主治医の言いつけを守り通して無視をし続けていたのだ、とわかりました。私は自分のことしか考えていなかった事を恥じ、同時に、固く主治医の言いつけを守って、私を放っておくことで私が自分で自分のことをやる状態に誘導してくれた家族に感謝しています。
 優しい言葉や、その場の目先のことを手助けしてあげることは、時として、ただのその場を何とか取り繕うための付け焼き刃にしかならず、本当の問題にフタをしてしまっており、長い目で見れば、問題が解決されないまま、その場の応急処置だけで時間を過ごしてしまって、問題自体はどんどん悪化をし続けてしまっている…ということになりかねないのだな、と今では思っています。
 ご参考になるかわかりませんし、絶対そうした方が良いと断言も出来ませんが、私が良くなるために経験した体験として、ご参考までに記しました…

原因と治し方

強迫性障害には様々な症状があります。例えば、不潔恐怖、確認強迫、加害恐怖、縁起恐怖、など…人によって恐怖の対象は様々で、他の人にとっては何にも怖くないことが自分にとっては本当に恐ろしかったり不安だったりするのも特徴だと思います。

 だから、自分でも時々、「なんで自分はこんな事を恐ろしく感じてしまうのか?何とかこれを恐ろしく感じなくならないだろうか?その方法は無いだろうか?」と思ったりすることもあると思います。だから、この病気になると、とかく自分の恐怖対象に対して、何とかアプローチする治療方法は無いか?と思ったりするのではないでしょうか?少なくとも私はそうでした。

 だから私が病院を受診した時は、「とにかく私はこれこれに対して強迫観念が沸いてしまって、これこれがこんなに怖いのです。また、あれも恐怖対象だし、さらにこれも恐怖対象で…」
と、とにかく事細かに、自分が何に恐怖や不安を感じているのかを必死で説明しました。しかし、私が病院の先生に言われたことは、「症状はどうでもいい、恐怖対象が何だっていい。何がどう怖いと思おうが、根っこは一つです」という事でした。それはつまり、人によって恐怖対象は様々ですが、要は、何か怖い目にあったり、不安な気持ちが浮かんだり、怖い考えが浮かんで恐怖を感じた時に、「その不安や恐怖を受け止めて、それに耐える力が弱いことが原因だ」という内容のことを言われたのです。

 つまり、何か不安な事が起きると、その不安に負けてしまって折れてしまうから、どんどん具合が悪くなっていくのだ、ということです。なので病院の先生は「今のあなたは赤ちゃんみたいに非力で、水の入ったバケツ(つまり不安)を一つも自分で持てない状態にいます。だからそれを、いくつもいくつも沢山のバケツを持てるように訓練して行きましょう」とおっしゃいました。

 これを最初に聞いたときは、私はピンと来ず、とにかく自分の強迫観念が何とか浮かばなくなる治療は無いのか?自分の恐怖対象が恐怖対象では無くなるような治療は無いのか?と、その時はいてもたってもいられず、何とか直接的に自分の恐怖対象にピンポイントでアプローチしてくれるような治療法は無いのだろうか?と、気持ちが落ち着きませんでした。

 しかし、今にして思うと、先生のおっしゃった通りだったことが良くわかります。自分の恐怖対象のみに効く、という治療法は無いのだとも思います。仮に、もしか自分の恐怖対象だったもののみに効く治療があったとして、今まで怖かったものが怖くなくなったとしても、自分の心の不安に対する耐性が弱い限り、また別の不安を見つけ出して悩むことになります。

 強迫観念が何故沸いてしまうのか。何故、強迫症状が起きてしまうのか。それについては残念ながら、まだ現在の医学では解明されていません。ゆえに、強迫性障害という病気は、例えば何か注射を打てばすっかり治る、とか、何かをちょっとやればスッキリ治る、という病気ではありません。いつの日にか、遠い将来には、脳のしくみが今よりも解明されて、強迫性障害の治療を脳医学的に治療するような日が訪れるかも知れないですが。

 しかし、道はあるのです。それは、上に書いた、「自分の心を強くするよう訓練する」という方法です。そしてこの訓練をすること=行動療法なわけです。よくよく考えてみれば、同じ目にあっても、「まあいいや」と平気で気持ちを切り替えられる人と、いつまでもメソメソしたりクヨクヨしたり、引きずってしまう人がいると思います。それはそれぞれ、不安や困ったことが起きた時に、それに対する耐性が強いか弱いか、というのが関係しているのだと思います。そして、不安や悩みを自分で抱えて自分の力で処理出来ない人は、周りに相談しまくってしまったり、周りに頼ったり、八つ当たりしたり、あるいは自己嫌悪に陥ってさらに悩んだりしますが、これらの行動は全て、形は違えど「現実から目を背けて、自分の力で何とか前に行こうとすることから逃げる」行為であります。そして、これを続けていると、どんどん自分の力で何も出来なくなってしまって、ますます悪循環の中に陥って行ってしまうことになります。

 しかし、これは「自分の決意」と「訓練」を重ねることによって、少しずつ少しずつ、強くなって行きます。人によってペースはさまざまでしょうが、あきらめず、投げ出さず、歯を食いしばってでもやり続けているうちに、少しずつ、自分の力で耐えられるようになって行きます。行動療法は本当に苦しい訓練です。人によっても度合いは違うでしょうが、少なくとも私にとってはひどく苦痛な治療でした。始めは何度も挫折しましたし、失敗も繰り返しました。しかし、自分はどうしても治りたかったし、強くなりたかった。なので、死ぬ気でやりました。おそらく、この治療を受けて改善された方の多くは、多かれ少なかれ、不安で不安で仕方なく、何度も何度も挫折もしたけど、それでも歯を食いしばってやり続けたから改善されたのではないか、と思います。

 怖いことをガマンして、とにかく自分でやるようにする、というならば、医者に行かなくても良いのでは?と思う方もいらっしゃるでしょう。確かに、自力で治された方を知っています。
その人は、本当に、自分の力で、血反吐を吐く覚悟で治されたようです。しかし、自分1人の力でそこまでやるには、相当に強い意志がなければなかなか難しい。よって、始めのうちは専門医のサポート、治療を自力にて出来るようになるためのきっかけ作りを医師にしてもらう、というのが良いようにも思います。

 しかし、いったん治療に踏み切れば、医者が全てを魔法のように治してくれるわけではありません。医者はあくまで道案内役、なわけです。もちろん優秀で専門的な道案内人ですから、その人の案内を信頼しなくてはなりませんが。しかし、その道(治療の道)を歩くのは、「自分」です。自分の足で歩いて行かねばなりません。怖くても、恐怖や不安で気を失いそうになっても、引き返したり、足踏みをしたまま前に行かない、というのでは良くなりません。ほんの一歩でも、とにかく前に進めば、いつかゴールが見えます。

 自分の道を自分で歩く、ということこそ、つまり、「何か不安や問題があっても、それを自分で抱えて自分の力で耐えて、乗り切っていく」ということになるのではないでしょうか。自分の人生は、誰も肩代わりはしてくれません。その時々で助けてくれたり、自分の代わりに嫌なことをやってくれたり、話を聞いてくれたりすることはあるでしょうが、しかしそれらは全て、一時的なものでしかなく、また、あくまでサポートにしか過ぎない。永遠には続かないものです。その周りの人達にもそれぞれの負っている自分の人生があるからです。

 自分の人生は自分で歩いて、切り開いていくしかない。だから、それがちゃんと自力で出来るようになるために訓練を重ねることで、強迫観念が浮かんでも、不安が襲っても、それに耐えて、それに囚われて足踏みをして何時間も時間を無駄にしてしまうことなく、「怖いけど、不安だけど、でももう次のやらなくちゃならないことをやる!」という風に自分自身の気持ちにケジメをつけることが少しずつ出来るようになり、始めは無理矢理そうやってる、って感じですが、
だんだんとそれに「慣れて」行って、そのうち、知らない間に平気で出来るようになって行くというか、少なくとも私はそうでした。

 強迫観念は相変わらず浮かんだりもしますが、前にみたいに瞬時に恐怖を覚えて身動き出来なくなるのではなく、浮かぶし、ちょっと何だかモヤモヤ不安だけど、もう面倒くさいから、どうでもいいや、という風に思えるようになって行きました。そして、強迫観念が浮かぶということに囚われなくなっていった結果、強迫観念が浮かぶこと自体も、どんどん少なくなって行きました。昔よりも「水の入ったバケツ(不安)」を、たくさん持てるようになったからだと思います。

 病院の先生によれば、人によってどれくらいでそういう兆しが現れるかは様々ではあるけど、
平均して大体、治療をはじめて3ヶ月くらいで改善の徴候が見られることが多い、とのことでした。私も本格的な治療を始めて3〜4ヶ月くらいで、少しですが、回復の兆しが見え始めました。
しかし、それには、適当にやったり、治療でやらねばならない事を先延ばしにしてしまったり、
誰か他人に代わりにやってもらったり、あるいは病院には通っているけど治療課題はやってない、という風では、全く良くなりません。本当に苦しいし、我慢に我慢を重ねて、こんなに辛い目を体験しなくては良くならないのか?と思ったりしますが、それでもやり続ける、ということをやって、それで大体3ヶ月くらいから、という感じです。

 病気に負けるな、というよりも、「自分に負けるな」というのが、この病気の治療をやって行く上で、大切なことだと、体験から痛感しております。

治るとは何か

 20才から20数年間、強迫性障害を患って、どのような薬を飲んでも治りませんでしたが、行動療法という治療法を行って、大体8割〜9割ほど、病気が回復しました。行動療法の専門医による治療を数年前に行い、あれから3年くらい?経ちますが、日常生活をほとんど普通に送れる状態がずっと続いております。
 強迫性障害において「治る」とはどういうことか…専門的な事はわからないですが、私個人の体験から言えば、この病気が自分の身体(頭)からすっかり取り除かれ、全くまっさらになる、という感じでは無いと思っています。

 例えばウィルスなどが原因の病気は、ウィルスが身体からいなくなれば病気は治った、という事になりますが、強迫性障害については、そういうのとは違うと思います。なので、つまり、強迫性障害自体は相変わらず、自分の脳の中にいる、という感じです。脳みそを取り替えない限り、自分の中から完全に無くすことは出来ないのでは?と思っています。だから強迫性障害という病気を克服することは、「治った」「完治した」というのとは、またちょっと性質が違うのかな?というのが私の感想です。

 では強迫性障害の克服、広い意味では「治る」とはどういう感じなのか…これは「強迫観念は相変わらず頭の中にあるが、しかし、これを気にしなくなる、忘れる、どうでも良くなる、多少気になるけど放っておけるようになる…」という感じでしょうか。
 わかりやすい物にたとえて言うと、例えば近所で工事が始まるとする。毎日毎日、ドリルで地面を掘る音、何かの金属音などでとてもやかましい。ガンガンと鳴り響く工事の音は、最初はやかましいなぁ、と思ったりするが、毎日毎日聞いてるうちに、そのうちそれが当たり前みたいになって、気づいたら、どうでも良くなっている、騒音を気にしなくなっている。だけど、騒音自体はそこにしっかり存在しているわけですが…そこに注意を向ければ、ああ、騒音、やかましいなーと思うが、しかし、もうどうでも良くなっていて、無意識に気にしなくなっている…みたいな感覚です。

 良くなった今、強迫観念がまるっきりゼロになったかと言うとそうではなく、相変わらず強迫観念は存在しますが、そこに特に注意を払わなくなる、気にしなくなる、そんな感じです。そして、やがて、日常の本来自分がやらねばならない事(仕事、家事、プライベートの諸々)をやっているうちに、それらが忙しくなり、強迫観念のことを考えている時間が無くなる、とでも言うか、強迫観念が浮かんで浮かんで仕方がない、という状態がだんだん薄れて行きます。
 逆に考えれば、強迫観念自体は存在はしているわけなので(強迫観念が浮かんでしまう脳のしくみということなのかどうか、専門的なことはわかりませんが…)、調子が悪い時、ひょっとした何かきっかけがあった時に、また再発しやすい病気、ということなんだろうかなぁ、と思ってみたりしています。

 しかし、日々、自分が恐れていることを避けずにやり続けていることでだんだん耐性がついていって、普通に生活が出来るようになるのもまた事実だと体験から思います。強迫性障害において「治る」とは、「気にしなくなる」「まあ、いいやと思えるようになる」「そのうち観念のことなど忘れてしまえるようになる」、そんな感じだと、私としては体験から思っております。

Y子の体験談の特徴

 バタバタと多忙な日々を過ごしております。
 とても長い連載になってしまいましたが、これは以前、別のブログに連載していたもので、あくまで私の体験談にしか過ぎませんが、もしかしたら何か、治療をされる上での参考になることもあるかもしれない、と思い、改めて掘り起こして、連載してみました。本当にかなり長文ですが、治療をやってる時の心の持ち方、心の中の葛藤、変化などをなるべく詳しく書くようにして連載したものです。
行動療法をやって良くなった、怖かったけど出来るようになった、という体験談は本などでよく目にしますが、怖いことに挑戦してから出来るようになるまでの、主に心の有り様、葛藤、ジレンマ、そして最終的にどのように気持ちが変化して出来るに至ったかが書いてあるものを私自身が悩んで、なんとかヒントをつかみたくて、いろんな文献を読みあさっていた時には、あまりそう言った事が書かれてある本などが無いと感じていて、「行動療法が効くのはわかったけど、でもあんな怖いことをどうやったらやれたのか」という、その時の気持ちや心の持ち方が知りたい、と、当時、痛切に感じていたりした事もあり、至らない文章で申し訳ないのですが、自分の心の中の気持ちの変化みたいなものもなるべく詳しく書いてみることにしたものです。全部が全部、網羅しきれてはいないので、どこまでご参考になるかはわからないのですが…もしよかったら、お読み下さい。
 では、よろしくお願い致します。

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