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さて、7月第二回目の配本のもう1冊は「世界怪奇シリーズ」「サラリーマン死神」、1968年小学館から創刊された青年向けの「ビッグコミック」に連載された。「サラリーマン死神」はまさしく日本のサラリーマンを描いたものと考えると興味深い。さて45年経った今、どう評価されますか?全然「サラリーマン」(労働者)の現状は変わっていないように思えるが…
日本幸福学会の水木しげるさん曰く「猫が一番幸せな動物である」とのこと、水木しげるもほんの数年前食うや食わずの生活をしていたのに、一躍漫画が大うけすると、今度は寝る間もなく、出版社にこき使われるようになったそうな…
ビッグ大家、手塚治虫に対してはちょっと控えめな表現のよう、本当はものすごくファイトを燃やしていたんじゃないのかな??
サラリーマン死神の「いつも金がなくてね、首を切られやしないかと、内に秘めて、おどおどしている感じですよ」の水木御大の解説、なかなか面白い!!!
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水木しげる漫画大全集
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7月第二回配本の「水木しげる漫画大全集」は2冊で、まず「河童の三平」上だ。1961年から「兎月書房」から発刊された貸本向けで、その第1巻から4巻までが収録されている。一番貧乏暮らしがきつい時で、安い原稿料、それも約手で最後には踏み倒されてしまうことになるのだが。著者も述懐しているが、貧乏暮らしに対し、ただ白い紙に漫画を描き続けることが唯一夢の作業だったとのこと。なんとも切なく、そして胸を打つ話だ。それ故、従来の漫画とは趣向がちがうのも当たり前のことか。また、死についても淡々と表現され、これは著者の当時の置かれた状況から派生しているのか知れない。
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「ビッグゴールド」は初代編集長は前「少年サンデー」小西湧之助が就任、「ビッグ作家」の起用として 石森章太郎、さいとうたかを、白土三平、手塚治虫、水木しげるの五人を選出した。ここでは氏名のアイウエオ順で紹介していることをお断りする。また、「大作主義」として「中間小説的な雑誌を目指し」、ボリュームも今までの少年誌とは格段の差をつけた。「ビッグコミック」創刊号は、さいとうたかをの「探し屋禿鷹登場」の81Pをはじめ石森の61P、白土の36P、水木の32P、手塚の31Pと全頁数314Pの内総計241Pであった。
その成功を受けて、さらに深化した「ビッグゴールド」が発刊される。「ビッグゴールド」は2種類あり、水木しげるの「不思議シリーズ」が掲載されたのは後、つまり「新ビッグゴールド」の方である。
「ビッゴールド」の新創刊は92年12月で99年3月号までに総計75冊発行された。
創刊号は394Pで定価680円の月刊誌である。
68年の「ビッグコミック」で5人の「ビッグ作家」の選に漏れた横山光輝、ちばてつやはこの新創刊に起用されている。その後、横山光輝の代表作になる「史記」、ちばてつやは唯一の大人漫画の短編を掲載している。
68年に選が洩れた訳を色々考えると興味深い。ちばは原稿を描くのが遅いので少年誌との掛け持ちは無理だっだのか?、当時「あしたのジョー」を連載中で、その間二度も病気で休載している。横山光輝は「地球ナンバーV−7」(少年サンデー)、「風盗伝」(ビッグコミック」そして潮出版社の月刊誌で「水滸伝」を連載中であったが、あまり人気があったような記憶がない。横山にかぎらず、少年誌ではいわゆる大御所、とりわけ「トキワ荘」の手塚を筆頭に藤子、つのだ、石森も若手の漫画家にその「場所」を取って替わられそうになっており、一人気炎を吐いていたのプロダクション形式でそれまでにない「ギャグ・マンガ」は開拓した赤塚不二夫だけだった。
92年の「ビッグゴールド」新創刊時には手塚は鬼籍に入られており、白土は執筆をしていなかった。石森は95年から「立川文庫」として「猿飛佐助」「宮本武蔵」の中編を描き下ろし、97年4月号の「西遊記①」が絶筆となる。さいとう・たかを は未掲載で、「5ビック作家」の内、唯一、水木しげるだけが連載したのである。
原作の柱、紙面の枠外の文言だが、「人は死んだらどうなる!?その疑問に答えると」と…。これを読むと死ぬことなどは怖くなくなる!!!
この項終わり。また機会があれば旧「ビッグゴールド」(78年〜85年まで12冊発刊)についても触れてみたい。 |
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3冊目は「不思議シリーズ」、この全集の配本はよく考えてあり、「忍法秘話」は貸本時代初期、「ゲゲゲの鬼太郎」は少年誌での初期の作品、そして「不思議シリーズ」は1990年代青年誌というより大人向けの雑誌というふうに。
戦後の漫画史を振り返ると1959年の「少年サンデー」と「少年マガジン」の創刊により、月刊誌から週刊誌と子どもの世界も大人と同じようにいっきにスピード化する。さらに、劇画の台頭で、漫画読者も高年齢化するのが著しかった。50年代は「漫画は子どもの読み物」と相場が決まっていたが、団塊の世代が大学生になっても少年誌を読んでいた。出版社は「ポスト子ども」を模索し、いち早く小学館が「ビッグコミック」を創刊する。時は68年2月、当初の一年間は月刊であった。数年前から青年誌の創刊が集中し、「週刊漫画アクション」(双葉社)、「ヤングコミック」(少年画報社)、「プレイコミック」(秋田書店)などなど。各誌とも創刊後、紆余曲折した編集内容・ともすれば「エロ・グロ路線」に傾斜し、休刊・廃刊するのを横目にしながら、この「ビッグコミック」は微動だにせず、まさしく王者の貫録を維持し続けるのである。この6月10日号で46年を迎えている。「大いなる保守化」とも言える。「ビッグコミック」創刊号は発行部数は13万部で販売率は約80%、69年4月の週2回刊で20万部突破、70年44万部、71年55万部、78年万部、79年大台の100万部を見事突破するのである。現在、「ビッグコミック」38万3千、「オリジナル」65万1千、「スピリッツ」20万8千、「スペリオール」13万9千、いずれも雑誌協会2013・1〜3のデータである。兄弟誌四誌総計138万1千部の発行部数である。一方、少年週刊誌のライバルである講談社は青年誌の創刊に出遅れ、80年6月に「ヤングマガジン」の創刊、さらに「ビッグコミック」に対抗しうるコミック誌として「コミックモーニング」(現モーニング)の創刊は82年8月で、「ビッグコミック」創刊から遅れて14年後だった。
講談社 「ヤングマガジン」創刊号 1980年7月7日 月2回刊 編集人 宮原照夫 180円
「ヤングマガジン」の編集長は「少年マガジン」第4代目の宮原照夫で、「あしたのジョー」「巨人の星」で150万部を達成するがその半年後に部数が半減し、三代目内田勝の後任として宮原照夫が副編集長から昇格、70年から78年までその辣腕をふるい、74年には毎週150万部を発行するまで回復させたのである。
さて、水木しげるの「不思議シリーズ」を掲載した「ビッグゴールド」の話に戻ろう。 この項つづく
勝手ながら、氏名の敬称を省略したことをお断りする。
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「火の鳥」「サイボーグ009」と同じロングランの作品はこの「鬼太郎」だ。1967年1月のアニメ化の際、スポンサーから「墓場」では?とクレームがついて、「ゲゲゲ」となったエピソードある。水木しげるによれば、幼少のころ自分の名「茂(しげる)」を正確に発音せず、「ゲゲル」と言ったそうで、そこから「ゲゲゲの鬼太郎」とあいなった。
ご存知だと思うが、1965年にあの長井勝一の三洋社から「鬼太郎夜話」が出版されたが、貸本の読者からそれほど高い評価を受けなかった。当時の事を宮原照夫少年マガジン編集長(当時、第4代目)はこう述懐している。「あの貸本時代の怪奇性は尋常一様のモネではなかったから、忌み嫌う人も人も多かった。」 編集部では起用には躊躇があったが、白土三平が前作と一線を画す少年漫画を創造したしたように、水木しげるにも期待された。
1965年32号に「手」、38号に「夜叉」、42号に「地獄流し」と三話掲載されるが、全く人気がなかった。しかし、年齢が高校生・大学生からの人気順位は上位だったのである。
そして、この「ゲゲゲの鬼太郎」の大ヒットがその後のオカルト漫画ブームを巻き起こすのである。
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