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あすなひろしは1941年に宮崎県西臼杵郡で生まれた。後に臼杵三郎というペンネームを使用しているが、それは出生地からとったものだ。三郎は大好きな演歌歌手から借用した。高校を卒業後、広島の会社に就職し広告・デザインの仕事をしていたが、会社が倒産、漫画を描いて生計を立てようと1960年に上京したのだ。
週刊少年マガジン 1968年第39号 48〜52P
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あすなひろし
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よく見ると、コマに番号が振ってあるが、これを便宜的に「コマ番号」とさせていただくが、このころまで少年雑誌には振られていたようだ。マガジンは69年に廃止されている。この「コマ番号」の役割は、次にどこをよんだらいいか、読者が迷わないためにつけられていたようだ。
43Pの一段目と二段目のコマをぶちぬく構図、これは回想シーンとして場面を切り替えるという高等なテクニックなのだ。また、白黒でオーロラを表現するという技巧に舌を巻くのは私だけか?
「週刊少年マガジン」 1968年39号 43〜46P
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内田勝編集長の「少年マガジン」はもはや「少年」を取り外そうかの勢いで、読者の年齢が上がっていくのだ。1959年創刊当時の小学生が10年後の68年に高校生・大学生になっており、さらにその周りを読者として固めていくのだ。68年には第1号から「あしたのジョー」(ちばてつや・高森朝雄)、15号から「野生犬サボ」(石川球太・戸川幸夫)、42号から「八つ墓村」(影丸譲也・横溝正史)の長編、そして「黒部の太陽」「富士山頂」「強力伝」などの短編が掲載され、いわゆる「文芸」路線がますます強化された。
新田次郎原作の「北極光」があすなひろしの手により、漫画化されたのだ。
週刊少年マガジン 1968年39号 39〜42P
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1968年「週刊少年マガジン」は少年を取ろうと言うぐらい青年向けの漫画雑誌に急成長した。59年に小学館から「週刊少年サンデー」、講談社から「週刊少年マガジン」が創刊されてちょうど10年目の事だ。1号から「あしたのジョー」が始まり、「巨人の星」と並んでサンデーを大きく引き離し、史上初めての100万部を突破し、150万部に届こうとするのだ。66年19号連載が開始された「巨人の星」は当初まだまだ子ども漫画だったが、わずか3年で様変わりをしてしまい、劇画の波が寄せるのだ。その中で、大きな役割をしたのがこのあすなひろしの「北極光」だ。
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