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「バンパイヤ」の連載が始まったのは1966年だ。
「鉄腕アトム」のアニメの好調ぶり、アニメ・実写とタイアップした「ビッグX」「W3」「マグマ大使」、アニメ化は考えられていた「フライングベン」の作品を次々発表するが、「劇画」という大きなうねりの中で、手塚治虫は戦々恐々としていたのだ。
最初は楳図かずおの怪奇物、水木しげるの妖怪物であった。講談社の「暮らしの年表/流行語」の65年を見ると、水木しげるの「墓場の鬼太郎」が少年マガジンに登場、少年サンデーでは赤塚不二夫の「おそ松くん」登場し、イヤミの「シェー」が大ブレイクするのだ。あのゴジラもシェー、加山雄三の「若大将シリーズ」の青大将もシェー、そして皇族までもと、話題は尽きないのだ。週刊少女フレンドに楳図かずおの「へび少女」が連載され、一気にホラー(とうじは恐怖)漫画の大興隆となるのだ。
米軍のベトナム北爆開始、ベ平連のデモ、日韓基本条約の調印、中国の文化大革命、赤字国債の発行と戦後20年の大きな節目となった年でもある。
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講談社手塚治虫漫画全集
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毎日暑い日が続くが、昨日は本当に熱かった。背中に噴き出た汗がそのままヘバリつき、シャワーを浴びても取れず、石鹸の力を借りずには要られなかったのだ。今朝は涼しく感じられるが、このような日こそ午後はとても暑い、熱いのだ。
さて、手塚治虫の「バンパイヤ」の話に移るとしょう。1959年に幕開けた「少年週刊誌」時代、小学館の「週刊少年サンデー」の創刊号から、手塚治虫は少年漫画界の第人者として、「スリル博士」を連載するが、毎週8頁では長編・大河ドラマの得意な手塚にとって十分その力を発揮できず、半年で連載を終了したのだ。第2作目は「0マン」で、私の大好きな作品だが、続いて「キャプテンKen」、「白いパイロット」「勇者ダン」と連載されるが、少年雑誌はどんどん「進化し」、米沢嘉博の言(げん)を借りれば、「またも週刊誌が形を整えるにつれ、手塚マンガの複雑さ、知性が人気の点で遅れ(原文ママ)をとらせていくことになる」(手塚治虫マンガ論86P河出書房新社2007)と的を得た話にうなずくだけだ。簡単にいえば、暴力、軽薄、ただ興味本位の作品が増え、手塚の真面目なテーマは飽きられていったのだ。
「パンパイヤ」が発表された頃はどんな時代だったのか?
講談社 手塚治虫漫画全集 MT144 1979年6月30日
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講談社手塚治虫全集のMT20「スリル博士」のあとかぎを読んで見ると、小学館からのオファーと講談社からのオファーの話が興味深い。石森章太郎の「怪傑ハリマオ」のエピソードはいかがかな。三橋美智也の「まあーっかなたあいよおう、もおえーているー」の歌で始まるテレビを良くおぼえているのだ。月光仮面兼用のビニール製の黒メガネとマフラーで良く遊んだものだ。なぜかタドン小僧が好きで、今でも鮮明に記憶があるが、今なら差別問題になるのでないか。スマトラ半島のエピソードとして演出されているが、あまり日本との関わりについて知らないので、図書館に行って勉強すべし。ちなみに只今ヨーロッパの歴史「ローマ帝国」と「暗黒の中世」について速読・乱読しているので、漫画の方は少し遅れている…
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手塚治虫自身の「あとがき」に原稿が紛失した話や最終回の藤子不二雄(
安孫子)のアシストの話は有名だが、「漫画少年」の原作は当初は3段組みなので、4段組みに改編されているのだ。1969年の小学館の手塚治虫全集では3段組みで編集されている。
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手塚治虫の作品の中で、誰が言おうとこの「ジャングル大帝」が金字塔なのだ。「W3」事件で講談社と不幸な関係になっていたが、当時前例のない300巻もの個人全集を発行する運びとなった。作者編集・選考の全集で、カバー絵も全部新しく描かれ、サイズも価格も手塚の希望を入れたものとなった。文庫版は版がつぶれる、高価な本はだめ、というものだった。第3巻の奥付で連載期間が「昭和25年10月」となっているが、これは間違いで「漫画少年」(学童社)「11月号」が正しい。カバー画は船上で生まれたレオが故郷のアフリカを目指して、旅をするシーンだ。
1977年6月15日 MT1 400円
3巻めの手塚治虫の「あとがき」にもあるが、描き加えがあるので、レオやケンイチの顔がそれぞれちがうのだが、それも楽しいではないか!
1977年7月15日MT2 第2巻 400円 1977年8月18日MT3 第3巻 400円
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