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だんだん面白くなってきたのだ。皇極天皇と蘇我入鹿との間に「月王子」が生まれている話だが…
遠山美都男氏の「壬申の乱で解く日本書紀 天武天皇の企て」によると興味深い内容があるのだ。「天智・天武の母である皇極・斉明は、舒明と結婚する前に用明天皇の孫の高向王と結婚、漢皇子をもうけたと伝えられている。この漢皇子こそが天武天応の正体であり、天武は天智の同母弟でなく異父兄だったのではないかというわけである。また、高向や漢が渡来系氏族のウジナであることから、皇極・斉明の先夫やむすこは天皇家とは無縁の渡来人でだったのではないかとする極論まで唱えられるにいたった」と諸説を紹介している。
さて、皇極天皇は次の天皇に入鹿との子、月王子を考えていたのか、このところは重要なポイントだ。大国唐と朝鮮半島をめぐる緊迫した情勢のなかで、「倭(やまと)」がどういう政治選択をするのか、そして日本と言う国をどのように建設するか、大きく揺れていたのだ。蘇我入鹿は大悪人・謀反人という「常識」?少し横に置いといてください。
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天智と天武
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蘇我入鹿が「遣唐使」を提案するが、歴史上は628年唐が中国を統一、630年宝皇女立后、犬上三田鍬、恵日らが遣唐使として派遣されている。
遠山美都男氏の「通説を見直す日本古代史の読み方」によると「鎌足は蘇我入鹿の最近の行動に危機感を募らせていたのであった。このまま放置すれば、入鹿は遠からず天皇家に取って代わろうとするのではないか。(中略)すると、蹴鞠を楽しむ貴公子の中に中大兄の姿を発見する。なんという偶然か。と思う間もなく、鎌足の足許に勢いあまって中大兄の沓が落ちた。鎌足はそれを拾い上げると、中大兄に近づき恭しく献じた。」
いや待て!作品上の男は中臣鎌足(後の藤原鎌足)ではなく、百済王子の豊璋ではないか!!さあ、お話はどのように展開していくのか、たのしみだ…
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中大兄王子と蘇我入鹿のツーショットだが乙巳の変(645年)の正月と設定されているが、入鹿は若くとも35歳(推古18年・610年が誕生年)と言われており、この二人が同年代とは少し無理があるようだ。中大兄王子(後の第38代・天智天皇)は推古34年(620年)と言われ、25歳前後なのだ。
そして、百済の豊璋(生年不明)の渡来は舒明3年(631年)とされており、一説には百済の「大乱」後、皇極元年ともある。この「天智と天武」では豊璋の活躍ぶりが興味ふかいのだ。
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中村真理子の「天智と天武」(原作 園村昌弘)の連載が始まったのが、2012年第17号だ。その巻頭に非常に興味深い鼎談(ていだん)が掲載されている。中村真理子、園村昌弘そして哲学者の梅原猛先生だ。大化の改新の評価、法隆寺の建立のいきさつ、いわゆる「通説」に対して疑問が投げかけられているのだ。
たとえば聖徳太子についてはいろいろ逸話があるが、その子 山背大兄王(やましろのおおえのおう) が
蘇我入鹿によって死に追いやられていることなどはあまり知らないのではないか。「日本書紀」では聖徳太子は病死となっているが、本当のところはどうなのか。息子は死に追いやられたが、父の聖徳太子がなぜ「怨霊」となったか、いろいろと興味深いのだ。
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とうとう最終回になったビッグコミックの「天智と天武」、原案監修 園村昌弘、画 中村真理子、第93話堂々の完結だ。学校でならった「大化の改新」の話はよく覚えているだろうが、その通説とはまったく異なった観点からの説もあるのだが…。この「天智と天武」も通説ではなく、新しい切り口の作品として大変興味深かったのだ。
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらみや) 現在の奈良県明日香村伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)と考えられているが、第40代天武天皇が崩御したのが、西暦686年10月1日・朱鳥(しゅちょう・すちょう・あかみとり)元年9月9日だ。
妻は鵜野讃良(うののさらら、うののささら)、後の第41代持統天皇で、軽皇子は天武天皇の第2皇子草壁皇子の長男である。軽皇子から見ると父方の祖父が天武で、祖母が持統天皇なのだ。父の草壁皇子が689年に死去したため、軽皇子は持統天皇の次の天皇に即位した、数えで15才。(西暦683年生まれ、即位697年、崩御707年)
第36代孝徳天皇も軽皇子と呼ばれていたが、全くの別人なのだ。
天武天皇には草壁皇子以外に大津皇子、大伯(おおく)皇女ともに母は太田(おおた)皇女、高市皇子は母は胸形尼子娘(むなかたのあまこのいらつめ)だ。太田王女は父天智天皇、母は越智娘(おちのいらつめ)で持統天皇と同父母姉妹だったが、すでに太田王女が死去しており、我が子草壁皇子を次の天皇にと考えたとも推測される、大津皇子は天武天皇崩御後の10月3日(西暦10月25日)に謀反の疑いをかけられ?自殺している。持統天皇のなんらかの力が働いたというのは邪推か?草壁皇子より1歳下で、享年24才であった。
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