おけらの いつか青空 脱原発

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ほんとうに久しぶりに開き投稿する記事が新屋英子さんがみまかったことに関してとは。

新屋英子さんのことはご存じだろうか。
大阪では、相当有名な新劇系の女優さんらしいが、私が初めて知ったのは1990年か、1991年の「徹子の部屋」でだった。8月6日だったはずだ。在日のおばあちゃんに扮しての一人芝居、「チョゴリを着た被爆者」を新屋さんが演じ続けていることに注目してご本人を登場させた、この番組のプロヂューサーの感覚に感心した。
新屋さんは、短い時間だったが、「チョゴリを着た被爆者」のラストシーンを番組の中で演じて見せた。
それを観て、どうしても新屋さんの一人芝居を観たくなった私は、テレビ朝日に電話をし、ご本人に連絡を取らせていただいた。
それから、彼女とのお付き合いが始まった。
ちょうど山田洋次監督の「学校」に、在日のオモニ役で出演されている、毎週のように大阪から大船まで撮影に行っているということだった。出演者には前売チケット捌きの役割があるとかで、それをお手伝いすることになった。私も夜間中学に関心を持っていたから、この映画の応援は大いに歓迎するところだった。
結局、700枚くらい私経由で友人達ともに前売券を普及した。
いわゆる還元金(それも結構多額の)が私の手に残った。それを私することは気持ちが許さなくて映画サークルの活動資金とすることにした。そのときスタートした会はあれから25年、まだ続いている。
ということで、私と、この映画サークルにとっては、新屋英子さんは恩人のような方だ。
新屋さんの一人芝居を結局何回拝見しただろうか。
東京で4回、川口で、一回、滋賀のほうの高校生向けの上演にもお邪魔したことがあった。
地元の町の公演にも伺った。田辺聖子さんの芝居も舞台にしておられた。お連れ合いの演出家鵜野さんといっしょに「野火の会」を創立されて、若手の役者を育てたりもされていた。面倒見の良い方であることは、お付き合いの中でわかった。

2000回の上演を超えた「シンセタリオン」も、「チョゴリを着た被爆者」簡単な装置で、もちろん出演者は新屋さんだけ。脚本も演出も御本人。
オモニたちの身の上話を纏めた脚本は、はじめは短いものだったが、舞台を見た後のオモニたちから語られる感想や体験談がどんどん加わって、結局長い芝居になっていったそうだ。
それを嬉しそうに語っていた新屋さんは「この芝居は私が描いたんじゃない、オモニ達が描いたんだ。」とおっしゃっていた。「橋のない川」を書かれた住井すえさんの仰っていたのと同じだった。
差別に苦しめられてきた在日、そして「部落」民。人々の思いを受け止めることができた新屋さんも住井さんも、ほんとうに素敵な方たちだった。
思えばおふたりとも女性だ。女性差別こそ、根源的な差別の所以か。
滋賀の高校生と一緒に観た「チョゴリを着た被爆者」が新屋さんの芝居の初見だった私の後輩はいたく感動していた。彼ももう一人前の行政の長だ。あの時のような新鮮な感覚を忘れないでほしいと思う。
あの夜、新屋さんの紹介で、猪飼野だったか、どこだったか、在日の方の焼肉屋へ行ったことをおぼえている。
うまかった。

そして小泉訪朝の時、2001年9月15日、16日だ。
友人たち20人近い一行で、新屋さんにご案内いただいて、大阪見学をした。
岸和田のだんじり祭り(これが例年9月の同じ日にち)を気に入っていた私は、いつかみんなにそれを見せたいと思っていたので、念願がかなった
新屋さんは「岸和田だんじり」にこそ、ご一緒しなかったが、「ミナミ」や道頓堀などの名所・・・を連れまわってくださった。
鶴橋のマーケットで、チョゴリや色とりどりの製品を、新屋さん行きつけの店で拝見したこと、きれいな女将のおいしい料亭にご案内していただいたこと、たのしい思い出になっている。
近頃、麻薬で問題をおこしてしまった清原を高校時代からみていて、「ひっかけ橋を歩いている大木みたいな高校生が清原だった」と仰っていた。連れ立っていた女の子がまるで大木にとまるセミみたいだったとか。どれだけ大きい高校生だったのか、と思ったか、新屋さんの表現が面白くて、忘れられない。
清原大好き、と言っていた。

帰りの新幹線の中で、訪朝した小泉首相にすべての拉致被害者が死亡していると金正日から報告されたという電光板ニュースを見た。激しい悲しみと憤りをもった。しかし他の友人たちは、あまりピンと来ない様子だった。北朝鮮の実態が国民的な規模で知られるようになるのは、その後からなのだ。
おぼえておいでだろうか。そんなことだったのだ。拉致が北朝鮮の仕業と警察官僚もよくよく知っていたが、それを明らかにしてこなかった。だから普通の人々は知らないで済んでしまっていた。ほんとうのことは、なかなか知らされない。
在日のたくさん住む大阪に遊びに行き、朝鮮人を演じて著名な新屋さんと一緒に過ごした後の「みな死亡」の電光板ニュースの残酷。いまだにたくさんの拉致被害者は帰っていない。
それはさておき、
映画「学校」の中に彼女の名演技は刻まれている。
逞しく生きた在日一世を演じて、新屋さんの右に出る人はいない。これからも出ないだろう。
ヨンさまブームもあった。朝鮮人差別にも変化があっただろうか。
日本の流行歌の歌手には在日が多数だと聞く。
どの人も歌が上手いようだ。しかし出自を隠している人もまだまだいる。
新屋さんはよく本物の在日と間違われると言っていらした。それほどリアルに演じていらした。
ホンモノと間違えられることを「嫌な事」としてではく、嬉しそうにおっしゃっていた新屋さんは、きっと天国でオモニたちと仲良く笑いあっていることだろう。
ひとりでも、何も装置がなくても、道端だって、「芝居で思いを伝えられること」を教えてくれた新屋英子さん、安らかにお眠りください。

あなたの「思い残し切符」は、ちゃんと受け取りましたよ。





閉じる コメント(3)

新谷栄子さんとの交わり始めてお聞きしました
チマチョゴリの似合う女優さんでしたね
大阪の下町で育った僕の周りの友人の4人に一人は半島からの人だった

彼らの家に遊びに行くと イースンマンのべた金かキムイルソンの肖像画がかかっていたので彼らの出身地が分かった

小泉純一郎の親父の順也の肝いりで1959年から1984年までに北の楽園に向かったのは北出身のものより南出身の者が多かった
当時の日本 今もそうかもしれないがこの国の在日に対する
差別や閉塞社会に在日の人々は北に向かったのだろう 高校生としてお互いにアドレスを交わしたが誰からも返事を貰ったことがない

2016/5/10(火) 午後 5:04 [ taruim1941 ]

↑新屋英子さんの間違いです スミマセン

2016/5/10(火) 午後 6:07 [ taruim1941 ]

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おどろきました。ご存じだったんですね。
あらゆる差別をなくしたいと、頑張ってがんばった新屋さんを私はとても尊敬しています。
我が家は悲しみにくれています。みんな一緒に大阪を歩いたのですから。私には在日の友人は居ません。しかし、つい最近、小学校の同級生だったTさんは朝鮮人だった、と友人から聞きました。
私も貧困家庭でしたが、Tさんはそれ以上の貧しいお家だったと思います。あまり話したこともなかったクラスメートの一人でしたが、今にして思えば、ともだちになっていたら良かったなと思います。
北に「帰った」人たちの地獄は、想像するだに苦しいです。
私だったら精神が狂ったと思います。
拉致被害者も同様です。無事に日本の土を踏んでいただきたいです。
新屋さんとは、そういう話はできませんでしたが。
「学校」のビデオを再見しようと思っています。
書き込みありがとうございました。

2016/5/10(火) 午後 10:50 [ okera ]


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