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第2回目は”朝貢”についてです。[見て観て考える 琉球・沖縄(新城俊昭 著)より]
中国の皇帝に貢物をおさめて服従を誓うことを”朝貢または進貢”といいます。貢物を納めるために琉球から中国に派遣される使節のことを”進貢使”といいます。進貢使者は総勢約300人で2隻の船に分乗し、中国皇帝への恭順の意をあらわす文書と進上物をたずさえ、ほぼ2年に一度派遣されました。
進貢船は中国から指定された福州に入貢し、9月末から10月頃に、約20人ほどの使節団が陸地をたどって北京へむかいました。その旅程は3千キロメートルにもおよび、40日余を経て12月頃北京につきました。
北京では、朝貢使節団のための施設「会同館」に滞在し、皇帝との謁見に臨みました。正月に皇帝への謁見が許されると、琉球国王からの文書および進貢品を献上しました。これに対して、皇帝からは、琉球国王への文書および各種の品々を拝領しました。進貢使者の滞在費用はすべて中国側が負担しました。それが”中華(文化の中心)”としての威信を示すことになったのでしょうね。
福州に残った約270名余の使節団は代表の使節団が戻ってくる間、中国から指定された商人と貿易を行い益を得ていました。また、北京滞在の使節団にも貿易は許可されていました。
中国への使節は進貢使のほかに、皇帝の即位を祝する”慶賀使”や琉球国王の冊封を感謝する”謝恩使”などさまざまな名目でほとんど毎年送られていたということです。
当時の船旅はかなりの危険を伴うものだったようですが、中国での貿易はそれ以上に益の多い交流だったのでしょうね。
また、琉球の役人にとっては中国に行くことは昇進への早道でもあったようです。しかし、命がけの船旅で幾艘(いくそう)となく東シナ海の藻くずと消え数千人もの犠牲者をだしたとのこと。
いまさらながら、今日の日本、沖縄の繁栄はご先祖たちの苦労の上に積み重ねられてきたんですね。
このことについての詳しい話は、また後日〜。
★写真(2014年4/29撮影)は琉球王国発祥の地?
「南山城跡」
(沖縄県糸満市大里1901(高嶺小学校隣接))
〜地元では南山グスクと呼ばれる。グスクは12世紀後半に築かれ14〜15世紀に栄えた。12世紀に琉球を治めたとされる舜天王の母は大里按司の妹であったといわれる。
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