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当社、大正14年生まれ八重山出身神職の戦中の思い出を書いていただきました
(原文ママで載せています)
徴用人からはおつゆの味がわるい、太平洋だ、鏡の如しと言われた主食はお芋、徴用人から魚業に従事していた人達を選び漁護班を編成して、クリブネで出魚 色々の魚、タコ、千本針、等がとれ各宿舎へくばられ徴用人に喜ろこばれた。食糧供出が始まつた頃は立派な野菜が出荷されたが各島では徴用のため野菜作りの人手不足で野芋はなく自然にはえたパパイヤの実、ヨモギ、春のノゲシ、秋のノゲシ、タンポポ、野ビル、雑草まで供出されるようになり、しまいにはパパイヤの根、若いクキ等まで供出された。
飛行場建設現場では 機械力も無く、手作りのモツコオ、竹ザルで石、土を運び、土均しの鉄製の大型ローラも人が引くありさま、戦さは日に日にせまり台湾沖海戦、八重山地方に敵機来襲ゆうゆうと低空して飛ぶ敵機、敵機と知らす日本空軍、そこにあり萬才萬才とよろこぶ人達も居たと云う、建設中の飛行場、各学校、大きな建物、陣地目掛け爆弾投下、機銃掃射その時始めて敵機と知つた、敵機がとびさるとダンコン、ウメ作業が始まる、日本は神の国だ 必ず勝と神に祈りつつダンコンウメの作業は続いた。昭和十九年十月十五日、那覇十十空襲五日目に球第六四六一部隊に陸軍二等兵として入隊した
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