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1935年、中国側の三原則と日中親善工作・広田三原則

1935年、中国側の三原則と日中親善工作・広田三原則

 1935年、当時の岡田内閣の外相であった広田弘毅による広田三原則は
歴史資料でも見かけることが多いが、当初、日中親善工作に関する三原則
は中国国民政府側からも既に日本側に提示されていた。

 当時の中国国民政府側から日本に提示された三原則の内容は、次の
三点だった。
(1)日中両国が互いに国際法上の独立国として尊重しあうこと。
(2)日中が真正の友誼を維持すること。
(3)日中両国間の事件を平和的外交手段により解決すること。


  しかし、当時、既に華北進出を始めていた関東軍(陸軍側)は親善(和平)
工作には反対していた。
 日本側の対中国政策は、外務省の和平・外交の政策と軍部の武力政策に
分かれてしまっていたのである。

 軍部と外務省で方針が分かれてしまっていた中国政策だったが、中国との
関係改善に動き出した広田外相が中国側に提示した日本側の交渉案が
「広田三原則」と呼ばれている。


広田三原則の概要は、
(1)中国側に対する排日言動の取締り要求
(2)満州国独立の黙認
(3)防共(アンチコミンテルン)で協力すること

 ただし、広田三原則のとりまとめには、強硬姿勢を崩さない日本陸軍の意向
が強く反映されていたので、当時の中国世論の排日気運の高まりに影響を
受けた中国国民政府側も次第に日本側との和平交渉を渋るようになった。

 満州事変以降の日本の軍部の強硬姿勢が、侵略を受けている中国側の
民族運動を刺激したことで、当時の中国人の反日・排日運動の原因になった
であろうことは想像に難くない。
 当時、華北に進出した日本陸軍軍人の言動を、中国側が問題視していた
趣旨の記述が、日中戦争に至る経過を記録した歴史資料にも残されている。
( 参照文献 : 朝日新聞社「太平洋戦争への道」の第三巻など )

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【 追記 】
 日本は、明治維新後の富国強兵策で欧米の文明・技術を吸収し発展したが、
調子に乗り過ぎて、中国大陸への侵略政策にのめり込むようになった。
 昭和6年(1931年)の満州事変から昭和8年(1933年)には国際連盟から
脱退など、日本は国際社会から孤立し始め、軍国主義と戦争による「亡国
の道」を彷徨い始める。
 満州事変(1931年)から日中戦争開戦(1937年)に至る過程では、中国と
和平のチャンスは日本側にも十分あったのだが、軍部の強硬姿勢に引き
摺られる格好で和平の機会は台無しになり、日本は中国大陸での大戦争に
突入したのである。

 日本人が戦前の軍国主義を反省したり、歴史に学び二度と失敗を繰り返さ
ない為の歴史観を持つには、「東アジア蔑視・上から目線」による軍部等の
強硬姿勢に引き摺られた結果日本は道を誤った、という反省の観点で歴史を
振り返ることに尽きるだろう。
                                              以上


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