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屋嘉捕虜収容所(写真/屋嘉日本軍捕虜収容所の全景・金武町屋嘉)
日本人棟、沖縄人棟、朝鮮人棟、それに 日本軍将校棟 の四つに 区分けされていた。 区分けは 彼らの対立に 手をやいた 米軍が考えだしたものだが、 それは日本、沖縄、朝鮮 三すくみの近代史 を浮かび上がらせること
サイパン孤児守った県出身者 研究者が評価 沖縄戦の1年前に戦われた南洋群島のサイパン戦で、親や家族を失った子どもたちが集められた孤児院の実態が分かる史料が、院長を務めた松本忠徳さん(故人)=座間味村出身=の家族によって保存されていた。当初、同孤児院では栄養失調で多くの子どもが命を落としたが、松本さんが院長に就いた後は食事や住環境が整備され、状況は好転。戦中戦後の孤児院を研究する浅井春夫立教大教授は
「米軍がサイパンの孤児院改革を踏まえていれば、翌年以降の沖縄占領で多くの子どもが救われたはずだ」と指摘している。(嘉数よしの)
サイパン戦は、1944年6月から2カ月に及ぶ激しい戦いで、住民1万2千人が死亡したとされる。邦人の6割が県出身とされ、多数が犠牲になった。
漁師だった松本さんは38歳でサイパンへ移住し、戦渦に巻き込まれた。捕虜収容所で打診を受け、孤児院で働くようになり、副院長からやがて院長になった。松本さんは、孤児院の環境整備を求め、建物は「掘っ立て小屋」から、病院に隣接したコンセットになり、学校もできた。
炊事係、世話係ら職員がそろい、医療、衛生面が大きく改善された。特別に食事や衣類などが用意され、44年12月には「奇跡が起こった」と言われるほど、子どもたちは回復、成長したという。
一方で沖縄戦時に、県内各地の収容所におよそ10カ所の孤児院が造られたが、最低限の居住条件を確保したにすぎず、衰弱死が相次いだ。全体で千人余が収容されていたが、激しい下痢や栄養失調で、相当数が亡くなっている。
浅井教授は「松本院長指導の下、組織的に養育環境を改善した結果、子どもたちが救われた」と解説。「サイパンは沖縄占領の実験場。サイパンでの成果を生かして条件整備していれば、沖縄戦を生き抜いた子どもたちが、孤児院で亡くなることは極力防げたはずだ。
そうした努力がされたとは言い難い」と残念がる。
松本さんは後に帰郷し、座間味村長や農業組合長などを務めた。長男の忠司さん(86)=浦添市=は、松本さんの史料が浅井教授らによって「日の目を見た」と感謝し「父の苦労や、歴史の事実を子孫に伝えることができる。うれしい」と喜んだ。
サイパンでの出来事は良いと思う
でも何故沖縄ではそうならなかったのか? ってまた米軍のせい?
孤児が亡くなったのは当時の沖縄に居た「大人の責任」でもあったのではないだろうか?
何でも「米軍」の所為にするのは無理があるのでは?
慰霊の日が近づいています
慰霊を利用した反日報道がひどくなってます
地元TV今日はNHK沖縄から民放までーー)
民放では特集で未だに「4.28屈辱の日」として天皇陛下をコントにした人等を特集してます
慰霊の日は慰霊する気持ちを忘れてはいけない
決して「反戦、反米、反日の日」ではない
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沖縄の新聞
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( ´ー`)y─┛チァーパーボェー
場所が違えば状況も違う そんないいとこ取りが左翼思想ですね
ナイス!&ランクリ
2013/6/22(土) 午前 11:05
にっぽに屋さん
>いいとこ取り
ほんとう都合のよいことばかりですよねどうしてそうなるのか? 理解不能です
ナイス!&ランクリコメントありがとうございます
2013/6/22(土) 午後 8:46