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…を暇に任せて夜のバリで読んでいた。
戦前の作品だが、中々面白かった。というか、戦前によくこれだけ書けたものだ、と感心もした。発表された1929年(昭和4年)当時は満州事変直前で、その後の日中戦争や太平洋戦争への本格的な軍国主義体制が確
実際に作者の小林多喜二はその4年後、1933年に逮捕され、特高警察の取り調べのよって虐殺されたことからも、当時の言論がどれだけ不自由だったかが分かる。
東京の大資本がチャーターした蟹工船の中で、漁師や缶詰加工作業に携わる労働者の過酷な労働実態を描く。そしてその余りに過酷な状態から、労働者たちの中に「労働のあり方」や「利益優先の企業」「資本家たちの欺瞞」「国家」に対する疑問がわいてくる。そしてサボタージュからついにはストライキと発展するのだが…。
大まかにはこんな展開だった。激寒のオホーツクの海での過酷な作業。虫けら同様に扱われ、監督の「浅川」からの酷い仕打ちを受ける労働者たちの日常。資本家たちの勝手な論理と「戦争」作り出される理由が淡々とした筆致なのだが、強烈に描き出されていた。
なるほど当時の大財閥や国家というものはそういう感覚だったのだろうし、底辺の労働者たちの環境は劣悪だったのだろう。収入も環境も教育も、なにもかもにものすごい格差があったことがよく分かる。その格差が人を大きく差別し、人権さえないような人々を作り出すということもうなずける。
さて、そんな状態を経て、日本は戦後、基本的人権が(まがいなりにも)保障され、教育の権利が(まがいなりにも)保障され、労働者の権利が(まがいなりにも)保障される国になった。そんな「恵まれた」時代に生まれて教育を受けて会社に入った僕。そして労働組合にも加入した。
最初のころは「労働者の権利は大切だ」「労働より健康」などと納得しながら青年部などで活動していたが、途中からうんざりしてきた。というのは、要求の内容が(一部の繁忙部署を除いて)労働実態に見合わないような巨額のボーナス要求と「電子レンジを設置せよ」「横になれる(休憩の)スペースを作れ」などのくだらない要求ばかり。部署によって忙しさが大きく異なる業種だったのに、忙しくなく、能力も必要ない部署への人員要求をかたくなに下ろさないという不条理さ。
仕事をしない人が一番「得」をして、仕事が忙しくまじめに取り組む人ほどバカを見るという状況をさらに増長するばかりの組合だったということだ。そこはかなり共産色の強い組織だったから、上層部はほとんどが党員だったのだが、そんなヤツらは仕事をしない。いやできない上に「(無理矢理な理由をつけた)権利」ばかりを主張する。うんざりだ。そんな幹部にいいよう使われ、その気になってまた若いのが働かない、いや「働けない」幹部になっていく。そして10数年を経てようやく僕はそんな組織から脱出できた。
数年前からこの「蟹工船」は日本の若者層の間でブームだったという。バブル経済崩壊後、終身雇用制が大きく変質するなど日本の労働環境は変わった。「失われた10年」といわれる時期に大学卒業を向かえた30代から20代後半の人たちは会社への正式な就職ができずに、その中で契約社員や派遣社員として食べていかざるを得なくなった。そこに景気悪化、国際競争激化による生産拠点の海外流出などが追い討ちとなって、ついにはその派遣職場さえも追い出される状況が生まれた。
なるほどブームには「蟹工船」的な時代背景があるのかもしれない。そんな境遇の労働者たちの憂いは大きく、企業や資本家、国家に対する不信も増幅されたに違いない。自分たちの「この境遇」の原因は何なのか?誰が、何が、僕たちをこんな目に合わせるのか?そんな思いが「蟹工船」のブームにつながったのかもしれない。
共産党などはそんなブームを「我が党が必要とされる時代になった」というような感覚で見ていたようだ。小林が共産党員だし、労働環境の悪化で労働者の意識も高まっただろうから、単純に結びつければそう考えられなくもない。だが、「蟹工船」を読んでみたら、そんな受け取り方は短絡的な「アンポンタンな勘違い」としか考えられなかった。
というのは、僕個人はこの「蟹工船」を読んでいて、「労働者 対 企業、国家」とは逆の「労働者 対 組合、共産党」という構図を思い描いたからだ。「蟹工船」の中に出てくる「企業、資本家」が「党や大幹部」。そしてそこから派遣された「監督の浅川」は「組合幹部」に映ったのだ。
そしてその党や組合の下で「焼きを入れられ」ながら酷使されているのが、いわゆる一般の「まじめな労働者たち」に思えたのだ。そう。働かず、その意欲も、能力もない組合幹部たちこそが労働者から好き放題「搾取」しているという構図である。
これは僕の昔の職場での体験からの感覚だから、もちろん「それがすべて」「これが正解」と言うのではない。が、とにかく当時の組合幹部たちは働く能力も意欲もないヤツらだった。そして忙しい部署の実態には目をつぶり、(ほぼ無理矢理な)体調不良や組合幹部だからという訳の分からない主張によって長らく居座っている「気楽な部署」の延命のみに苦心する心底下劣なヤツらだった。
まじめな労働者たちは忙しいこともあって組合活動にタッチしない。それがいけないことも分かっているが、やはり忙しいし、ぶっちゃけ「面倒くさい」。だから幹部たちはますます好き勝手にする。会社側に対しても何かと言えばすぐに「不当労働行為だ!」と難癖をつけて要求を通そうとする。自分たちの「不当に労働していない行為」は棚に上げてだ。そして組合費はそんな「下劣な方々」の飲み会に消えていく。幹部たちの中にはついにはどこかの「生協」の理事に納まったりするのだ。これを内々には「裏出世」と呼んでいたが…。
そんなヤツらこそ、さっさと首を切ってしまって、やる気のある、能力のある人を雇うことができれば、どれだけ今の日本の企業に活力が生まれ、生産性が上がり、将来性がアップするか。
くしくもきょうは労働者の祭典の日「メーデー」である。日本各地ではすでに連合系は昨日、そして労連系はきょう、集会を開いて「賃上げ」や「生活レベル向上」「反戦平和」なんていう毎年変わり映えのしない「お題目」ばかりを唱えたのだろう。
だが、本当の労働者たちの「声」はそんな(一部の)組合幹部たちによって作られたスローガンの中にはないような気がする。たとえスローガンにあったとしても、その実現に向けて、「働かない、能力のない組合幹部たち」は本気で取り組んではいないし、そのつもりもない、と僕個人は強く確信している。
労働者の本当の実態を要求に反映し、実行しようとする組合や政党というのは……、…難しいのだろうなぁ。そう言えば、「働き蟻」のうちの3割は「働かない蟻」なのだそうだ。なるほど。
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