…だった。高架鉄道(BTS)でサイアム駅まで行き、そこからチットロム駅まで歩いてみた。普段ならものすごい渋滞が発生している場所だが、そこに車は走っていなかった。代わりに大量の赤シャツの人たちが車を止めて、路上にシートを広げて思い思いの「生活」をしていた。
阪神大震災のテレビ画面の記憶から、中央にBTSの橋脚が立っている光景は、一瞬「被災地」のようにも思えてしまうのだが、赤シャツの人たちにもちろん悲壮感はない。それどころか、むしろ昨日からのタイ正月(ソンクラーン)も相まって水を掛け合って新年を喜んでいる人やそこここでご飯を食べている人、数人集まってお喋りを楽しんでいる女性たちなど、まるでお祭り気分だった。
しかし、これだけみんなが「赤い」とやはり異様だ。それに前回訪れた6日よりも人数が増えているように感じる。どうやら赤色集団のタクシン派は、東西2カ所に分かれていた占拠地域をラートプラソン交差点を中心としたこの西側の商業地域に集約する模様で、きょうからこのサイアム〜チットロムの一帯にどんどん赤い人々が流れ込んで来ているようだった。
そして出来上がったのがこの「お祭り広場」なのだ。焼き鳥に焼きソーセージ、果物を売る屋台がずらりと並ぶ。石けんにシャンプー、歯ブラシ、ティッシュといった生活用品を売る露店もある。服屋に靴屋、宝くじ売りの兄ちゃんも歩き回っている。そしてついには足つぼマッサージの露店まで見つけてしまった。かなり客がいる。周囲の商店街やデパートは被害を恐れてほとんど閉まっているのだが、まったくこの人たちのたくましいこと。車が入ってこれなくなった片側3車線の道路には別の「街」が形成されていた。
赤色集団のトレードマークの赤シャツを売っている露店もある。表に「ไพร่(人民)」、裏には「ยุบสภา(議会解散)」と書かれている。その店の一つに腰をおろして値段を聞くと、兄ちゃんあっさり「1枚100バーツ(約300円)」と意外にも良心価格が返ってきた。もちろん観光客相手ではないだろうから普通の値段でなければ売れないのだろう。赤いネッカチーフは30バーツ(約90円)とさらに買い易い。これなら誰もが手の出る価格帯だ。そりゃぁ売れる。いい商売だ。
店の兄ちゃんとそんなやり取りをしながらも、僕の気持ちはやはり落ち着かない。なんとなく怖いのだ。何が起こるか分からない。「外から来た人間」に赤い集団という組織、人々がどう対応してくるのか予想がつかない部分があるのだ。そして当然、もしかしたら今すぐにでもここで政府軍による新たな排除作戦が始まるかもしれないのだ。どっちにしても怖いことだ。
近くにいた白人の男に「少し怖くないか?」と聞いてみたら、「ちょっと怖いね」と言って、「だからこれを買ったのさ」とタクシンの似顔絵が染め抜かれた赤色の鉢巻を見せてくれた。何か起こった時の“お守り”くらいに思っているのかと感じた自分だったが、そんな自分のかばんの中にもさっきの露店で買った赤シャツが既に入っていたのだった。
さらに進む。ラートプラソン交差点はエラワンデパート(旧バンコクそごう)が角にあるバンコク商業地の中でも「超」の付く中心地。さらに頭上をBTSのスクムビット線とシーロム線が走る交通上でも重要ポイントである。だが、ここもいつもの渋滞はなく、中央分離帯にはいくつものテントが並び、行き交う赤シャツでいっぱいだ。
当然、それだけの人数となれば「飲み」「食い」「排泄」への対処が必要になるはずだ。と思って見ていたら、道路上にどこから引いてきたのか簡易の水道パイプが横切っていて、数カ所に蛇口が設置してある。バンコクの水道は飲めないのだが、この暑さの中では水道は重要だ。そして飲み水はあちこちでペットボトルが配布されていた。
食事は、並んでいる屋台もそれを一定まかなう役割を果たしているようだが、地方から出てきた人たちを含めた大量の人口を支え切れるはずもなく、そしてそんな屋台の代金を長期間は払い続けられる人ばかりがいるわけでもないはずだ。と思っていたら、そこには炊き出しのコーナーがあった。赤シャツの人たちが列をつくっている。一人ひとりにチャーハンのようなご飯を一皿ずつ配って、もらったひとはおいしそうにほおばっているのだ。
最後に排泄対応だが、これはちょっと分からなかった。周囲の商店街はしっかり閉まっているので、デパートやショッピングセンターのトイレは使えないはずだ。だが、普通これだけ人が集まれば当然のようにするはずの汚臭がなかったのだ。とすれば、これもどこかにきちんと施設がつくられているに違いないのだ。この暑いバンコク、その中でも一番暑い季節を迎えたこの時季のことである。下手すりゃ「議会解散」を実現する前に自分たちが伝染病で「解散」である。
約30分をかけてサイアムからチットロムまで歩き切った。普段なら上の高架歩道(スカイウォーク)で10分から15分ほどのところだが、きょうは「おどおど」「タジタジ」しながら、そして変に早足になるのもはばかられる雰囲気もあってそれだけかかっていた。だがその時間以上に長く感じていたような気もする。なかなかチットロム駅に着かない気がしてならなかった。
だが、チットロムの駅の階段を上り始めると逆に、「異常に短い時間」だったよに感じていた。あれだけの人がいながら、そしてこの国の政府をグラグラと揺らしているというのに、そこは歩いてたったの30分の区間だったのだ。なんと狭い範囲でのことなのか。
それにしても不思議な空間だ。道路の不法占拠、無許可出店、勝手に作られた簡易水道…。多分、いや絶対にそのすべてが違法、不法のものなのだ。だが、それはそれで妙に整った「社会」を形成していた。本当の「社会」として機能している節もあった。
ただ、普通の社会と大きく、そして絶対的に違うのが警察や軍隊などの国家権力が及んでいないということだったろう。保健衛生はもちろん治安維持などの法的なそして国家としての根幹部分がなくなっているのだ。もちろんタクシン派内に「自警団」のようなものはあるのかもしれないが、法的根拠はゼロに等しい。国家の中に「不思議な空間」が生まれていた。
だから僕のような外から来た人間は不安なのだろう。その「社会」に対するこちら側からの信頼はないし、その「社会」からこちら側も信頼されていないような気がする。だから国家間の約束事とは無関係な場所に映ってしまうのだ。裏付けのない「社会」。外からの来訪者にとっては、なんとも不安で不安定で心細く怖いものだ。この30分の区間でそう感じるのだから、イラクやアフガニスタンといった戦乱国家、地域では、その恐ろしさたるや想像を絶するものだろう。
チットロム駅からBTSに乗り込んだ。ソンクラーンによることもあるのだろうが異常に客が少ない。だがそれを除けば、いきなり「普通の世界」に帰ってきた妙な感覚だ。サパーンクワイ駅で降りて近くのショッピングセンターでトイレットペーパーなどを買い込む。本当にとことん普通の生活だ。だが、なんだか思わず赤ワインを買ってしまった。そしてそこからアパートまでの途中の商店街で「ムーデーン(หมูเเดง=赤豚)」を買ってしまった。いかん、今夜の食事も「赤尽くし」になってしまった。共産党の「赤」なんかには影響されないが、こちらタイの「สีเเดง(赤色)」の威力は恐るべしである。実感だった。