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輪廻転生を思い浮かばせるあの、登れども登れども降りてしまう永遠の階段は、エッシャーの創り上げた見事な数学と芸術の曲双の美であった。今ではだれでも知っているが、当時は新しい西欧の風が吹き込んできた、と感じたものだった。
画家達の数学への憧れはギリシャ時代にも見られるが、中世の代表的なものはやはりレオナルド・ダ・ヴィンチだろう。
彼の絵を描く為の探究心は想像を越えるものがあり、人間の眼の構造を知るために、死人の眼をくりぬき、ゆで卵ふうに茹で上げて、断面を研究し絵に応用したというエピソードは有名だ。
彼の、黄金分割を人間の骨格に応用した「老人の頭部」や、透視画法による「最期の晩餐」は、非ユークリッド幾何学を人間の眼で具現したタブローというべきである。
またウイリアム・ホガースの「偽の透視画法」のような、川岸の女が向こう岸の男の煙草に火をつけるといった、エスプリのきいただまし絵を見逃すわけにはいかない。
観る者をだますことに終始してきたといっても過言ではないこれら画家たちは、4次元、五次元へと拡がる人間の憧れを、逆に二次元の不思議・美しさに引き戻す魔術家たちでもある。
言うまでもなく彼らの数学への憧れは構造への志向にある。エッシャーやダヴィンチが建築家であったのもうなずける。
構造の複雑さ、精巧さを美しいヴェールでおおうオルゴールは、子供に叩き壊す誘惑を覚えさせるが、彼らは完全な構造をヴェールでおおい、完全な美を目指したのだろう。
だが、ゆるぎないものよりも、あやふやな、もろい、移ろい行くものにも、美を発見したのは、日本人の特質なのだろう。
その絶壁のような峠を乗り越えた芸術家は、たとえばイナガキ・タルホは「絶対」をも包み込んだ、そのなだらかにうねる文章で、「宇宙と永遠」と「物理」の関係を教えてくれた。
詩は!あらゆる知性と知識を構造にしたなだらかなヴェールでありたい。詩人はすべてを知っていなければならない。古、詩人は預言者ですらあったのだ。
最近、私はこれぞ詩だ!というものに出会った。
複雑な駱駝
誰かが仕掛けた罠に 駱駝が掛かっていた 通りがかったKは 複雑な罠の仕掛けを 解くことは出来なかった 何日かすると 駱駝の瘤は次第にへこみ始め 水筒の水を与えても 瘤の衰えは止まらなかった さらに何日かすると 駱駝の背中は平らになった そして そのまま窪んでゆくと 罠はいっそう難解になり Kは無論、仕掛けた本人でさえ 解けそうになかった 駱駝も諦めたのか、横になると 窪んだ背中がさらに窪みつづけ 砂漠に深い穴を穿ってしまった Kは駱駝と一緒に穴の上を仰ぎ 複雑な駱駝の罠に K自身が まんまと掛かった気がして ならなかった (をゝさわ英幸 ・作) ラストまでの、不条理と絶望と宇宙の関係は、まるで素数のゼーダ関数のように見え、彼はあらゆるゼロに向った銀河の風景の中に、駱駝を放った。
こうした凝縮された内部構造の放つ香気は、人工の極地とも言い切れる。
詩に数学を取り入れるのではなく、数学を越えた詩こそ、開かれた新しい詩であるように思われる。
透視画法のような構造と、エスプリのきいた遊びと、宇宙、永遠への誘いに満ちた「詩」こそ、私の、たぶん生涯探し求め続ける一編の詩である。
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数学の中に詩が含まれているのか、いやそうではない、と私は考える。数学も詩の一部であり、洗練された数学者はその中に詩を発見し、究極の公式を発見する。発見された公式は、詩を形而下に露わにしてしまった「形状」であり、変容する詩を制御する。だが、詩は数学者の孤独を薄ら笑うように、新たな公式を形成し続ける。
それを追い求めることは、掃き溜めの中から湧水を見つけるようなもののような気がしてならない。本当の詩人はそれを識別できるのであろうと思います。
2010/8/21(土) 午後 5:04 [ 俳諧史 ]
たった10個の文字で、宇宙を読み解こうとする数学は、たしかに詩を形而下に露わにしてしまおう、という世界かもしれませんね。
私が感じるのは、座布団のしたにも、押し入れの奥にも、神は詩をころがしている。
それが見える、ということが詩人の本質だと思います。
数学が好きだった、というのは初耳ですが、なるほど、詩の構築にゆるぎないものを感じるのは、そのためだったのか、と思いました。
丁寧に読んでくださり、有難うございました。
2010/8/21(土) 午後 6:14 [ 香代子 ]