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岡山県出身の 竹下夢二 の 番組を見て、その夜、4号の古くなったスケッチブックに
描いた、ボールペン画。
始め 描いてて、男顔に成りかけて、女顔に動かし描いた絵。 空想画。
番組によると、 若く上京して、早稲田の学校の様な所へ行ったが、車夫など苦労し、
気持ちも荒み、反抗的になり、 ある時、「平民新聞」なのか 新聞挿絵に投稿、採用され、
挿絵画家として売れっ子になったようだ。
ちょうど、日本画出の挿絵画は表現が固く、独学の夢二の絵は動きに富んでいたようだ。
売れっ子になって すぐ、1年前に未亡人となった 目の大きい絵ハガキ屋の年上の女性
と 知り合い、深い関係、結婚したらしい。
それからは、奥さんの絵ばかり絵を描き続け、夢二の挿絵も 目の大きな美人画になって
行ったようだ。
当時は 明治後半、未だ江戸時代の流れを汲む 切れ長の目の美人画が日本画で
主流だったようだ。
私のこのブログでも、日本画の美人画には 切れ長の目の美人画が結構多い。
私の絵も、目の大きな女性画ばかりでは無い。
その後、 着色印刷と共に、目が大きく、流行の着物.洋服を着た女性の挿絵を 女学生
たちが、競って 大正時代、マネをする流行になったようだ。
もしかしたら、夢二の奥さんへの憧憬の 目の大きな女性が、今に至る、少女マンガと
共に、目の整形まで招く 「美人の典型」になったのかもしれない。
その後、奥さんと別れ、子供の為、同居や別居を繰り返していた頃、 日本橋の商家
の娘の18才の日本画志望の女性が 夢二に絵を見て貰おうとしたらしい。
「彦野」という女性で、夢二は30代の男。 彦野の日本画も 夢二の影響で 目を大きく
描いていたらしい。
2人の関係を 彦野の親が反対し、京都へ移った夢二を追い、京都での絵の修業の名の下、
京都で一緒に暮らし始めたようだ。
だが、彦野は結核になり、東京に連れ戻され、夢二も東京へ行くが、親から拒否され、
黒猫を抱いた名作を描いたらしい。 その1年後、彦野は死ぬ。
その後、夢二は 肉筆の1枚画を沢山描くが、どれも、女一人の寂しい絵のようだ。
喪失感か。
その後、昭和にかけ、不景気の経済の中、夢二の絵は 評価されなくなり、
友人の救けで、渡米、渡欧するが、あちらも経済不況で、夢二の絵は売れず、
フランスでも モジリアーニなみの裸婦など描いたようだが、最期にドイツで絵画教室
を開くも、ナチス.ドイツの為閉鎖。 ユダヤ人に好意的で、女性も描いたようだ。
だが、この頃、 彦野との関係からか、吐血結核になり、 失意の帰国後、1年で死んだ。
49才とか。 ただ、最期に、子供の本の表紙に良い絵を残したようだ。
私が以前、見たか聞いたかした話では、夢二の先妻と、夢見る絵の東郷清児が若い頃
関係を持ったとか、ずっと若く愛人「ツバメ」の様に。
その東郷清児は ごつげなガッチリ男だが、作家 宇野千代とも愛人関係ではなかったか。
女との関係は 創作を刺激することは 間違いない。
フランス彫刻家のロダンも お弟子女学生を弟子として 2人でデリケートな共同作品
を創ったようだが、最期は カミーユは精神を病み、精神病院で死に、ロダンは古い妻の
元へ戻ったようだ。 ロダンは上流階級の奥さん連中のヌード、エロスのデッサンを
沢山残しているようだが、関係を持たなくても、お弟子カミーユは気を病んだのか、、。
もちろん、おっさんのロダンと ずっと若い弟子カミーユは肉体関係が有ったようだが。
モジリアーニも年配男のユダヤ系、美術学生の奥さんは金持ち娘。 奥さんばかりキレイ
に描き残し、モジリアーニの死後、すぐ、奥さんは お腹の2番目の子と共に、投身自殺して 後を追った。
女の創作家も、男の影響が大きいかは、解らない。
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