平井俊顕 (ひらい・としあきToshiaki Hirai)ブログ

資本主義・経済学・ケインズ・ケンブリッジ学派・社会哲学・マクロ経済学・経済学方法論

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アメリカで金融の自由化が以下に進行したのかをまとめてみました。

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アメリカの金融自由化 ― 「グラス-スティーガル法」の換骨奪胎化と「グラム-リーチ-ブライリー法」

概要 − 1933年に施行された「グラス-スティーガル法」 (以下、GS法と略記)は、長きにわたりアメリカの金融システムの根底を規定する法であった。1920年代のアメリカは金融的不正の横行した時代であり、そのことが大不況の到来に大きな責を有することがルーズベルト政権によって認識され1、金融機関の行動に強力な規制をかけるべく施行されたのがGS法である。同法は、(i) 金利の統制 (「レギュレーションQ」)、(ii) 銀行業と証券業の分離、(iii) 州際間業務の規制、の3本柱で構成される。
GS法の適用緩和を求める動きは、1960年代に銀行が市債市場への参入を求めて行ったロビー活動を嚆矢とする。1970年代になると、逆に、証券会社が利子を支払う貨幣勘定、小切手の利用、信用の提供などを始めるかたちで銀行の領域に参入していくことになった。これに際し「証券保管振替機関」 (DTCC) の果たした役割は大きい。1970年代-1980年代、電子化は大手の証券会社のみが可能であり、個人投資家はいわゆる「ストリート・ネーム」 によって取引をしたため、それは銀行の部分準備率のように機能した。証券会社はこれを利用して新たな資金を獲得していくようになったのであるが、翻ってこのことが銀行を焦燥感に駆り立てることになった。
 議会でも、1980年代からGS法を緩和しようとする法案はいくどか出されてきた。金利統制の撤廃が一番早く、1986年のことである。続いて1995年、州際間業務の規制が「リーグル-ニール法」によって撤廃された。銀行業と証券業の分離が解除されたのは一番遅く、1999年の「グラム-リーチ-ブライリー法」 (以下、GLB法と略記) によってである。

銀行業と証券業の分離規定の緩和化 − 以下、GS法がどのように緩和され、ついには廃止されるに至ったのかを、銀行業と証券業の分離規定に焦点を合わせてみていくことにしよう。
規定緩和に向けての動きは、FRBによってGS法第20節の拡大解釈(すなわち分離規定を緩和する方向での解釈)によって火がついたといってよい。1986年12月、同節にある、銀行が証券業に「原則的に携わる」のを禁止するという条項を、総収入の5%までは許容される、としたのがそれである。さらに1987年春、FRBは、銀行がいくつかの「証券引き受け」業務を扱える旨の決定をくだしている。
 1987年にグリーンスパン (元J.P.モルガンの役員) がFRB議長に就任して以降、GS法の規定緩和に向けての動きは加速化していった。1989年には、上記の証券引き受け業務は、総収入の10%にまで拡張されることになった (最初に認可されたのはJ.P.モルガン)。FRBはさらに1996年12月、銀行持ち株会社が証券会社を子会社として保有することを、25%までという条件で認可した。 1998年2月になると、トラベラーズ保険会社 (社長はS. ワイル)とシティ・コープ (頭取はジョン・リード) の合併話がもち上がったが、これは当時の法律下では不可能であった。だがグリーンスパン、ルービン、クリントンといった政府首脳にたいし猛烈なロビー活動が展開され、同年9月、FBRはついに両社の合併に同意を与えるに至ったのである。
 以上がアメリカで展開された「金融の自由化」運動である。FRBはさらにGS法第20節の「原則的に携わる」の「原則的に」を拡大解釈していき、GS法の形骸化をもたらしていった。その最後の鉄槌がGS法自体の廃止を求める猛烈な運動であり、その結果1999年11月、GLB法の成立をみるのである。

GLB法の推進者達 − GLB法を成立させるのに積極的な役割を演じたのは、ワイルやリードといった金融家のほか、ルービン、サマーズ(庇護者はルービン)、グリーンスパン、グラム上院議員 (共和党)といったネオ・リベラリスト達である。同法の策定者はサマーズとグリーンスパンであったが、これは「シティ・グループ認定法」の別名で知られる。
2000年7月に財務長官を辞任したルービンは、シティの経営執行委員会委員長に就任した。その在任中、彼は「債務担保証券」(CDO) をはじめとするリスキーな投資ビジネスにシティ・グループを導いていった (因みに現在の財務長官ガイトナーは、当時サマーズの庇護下にあり、ニューヨーク連銀の総裁であった。2008年9月、彼はリーマン・ブラザーズを倒産に追いやったが、巨額の公的資金を投入することでシティ・グループを救済している)。
グラムであるが、彼は2000年12月の「商品先物現代化法」(以下、CFM法と略記) の成立にも深く関与している。同法は、エネルギーの先物取引および「クレジット・デフォルト・スワップ」(以下、CDSと略記)の合法化をもたらす契機になったものである。
CFM法の制定されるまえ、商品先物取引委員会 (CFTC) にあって、委員長B. ボーンは、OTC(Over-the-Counter. 相対取引)デリヴァティブ (とりわけCDS) がどこからの規制も受けることなく販売されていることに警戒感を抱き、その規制の必要性を訴えていた。だが、この動きはグリーンスパン、ルービン財務長官、サマーズの猛反対のまえに挫折し、その後、逆に規制緩和への動きが加速化することになった。その成果がCFM法なのである。レーガン、G.H.ブッシュ政権時のCFTC委員長であったウェンディ(グラムの妻)は、CMF法を成立させるため強力な運動を展開した。彼女はその功績でエンロンに迎え入れられることになる。
エネルギー取引が監視対象からはずされたこと(いわゆる「エンロンの抜け穴」)で知られるCFM法の最大の特徴は、「シングル・ストック先物」が許容された点である。このことで、より巨額のレヴァリッジが可能となり、投機行為のさらなる拡大につながったのである(同法は2000-2001年のカリフォルニア州の電力危機に大いなる責があるとされている)。
エンロンであるが、同社は1990年代からデリヴァティブ取引に積極的であった。1999年には「エンロン・オンライン」を設置し、デリヴァティブ取引を急激に拡大させたのであるが、その後大規模な不正会計が発覚し、ついには倒産に追い込まれ、いわゆる「ドットコム・バブル」の崩壊をもたらした。
グラム2はその後、大手投資銀行UBSの幹部として迎えられた。彼は、同社のCDSの拡大を推進するうえで中心的な役割を演じたとされる。

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