太宰が住んだ大宮 情報ブログ

太宰治が大宮に住んだ二週間を濃ゆ〜く調査しています。

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先日初めて潜入した新宿のバー「風紋」。マダムの林聖子さんが太宰の作品「メリイクリスマス」のシズエ子ちゃんであるという話は太宰ファンならほとんど周知で、だからそういった熱心な人たちも多く訪れるのだろう。
しかしこのお店の開店には、太宰が死んでからの、筑摩書房社長古田晁氏が深く関係しているのである。
やはりこの頃、太宰治、古田晁、林聖子といった輪の中で関わってきた野原一夫が書いた「含羞の人 回想の古田晁」という本に、詳しく載っている。
以下に一字一句略さずにご紹介する。脈々としたドキュメントを感じてほしい。

* * * * *
太宰治が死んでまもなくの二十三年八月に私は古田さんに会っている。林聖子を筑摩書房に入社させてくれるよう、聖子を伴って古田さんを訪ねたのである。
林聖子は、太宰治の小説「メリイクリスマス」のシズエ子ちゃんのモデルである。聖子の母の富子は、男女のややこっこしい感情などなしに、太宰が安心してつき合っていた、おそらくはただひとりの女性である。女学生の頃から、聖子は太宰に可愛がられていたが、ニ十二年の春、太宰の紹介で新潮社に入社し出版部に配属された。そのころ私も同じ出版部にいたから、短い期間だったが席を同じくしていたのである。私が新潮社を退社して角川書店に移ったのは二十三年の四月であるが、その一ヵ月後に聖子も新潮社を退社した。しばらく家でぶらぶらしていたが、病弱の母を抱えてのふたり暮しでべつに財産があるわけでもなく、勤めに出る必要に迫られた。たまたま三鷹のその家に遊びに行った私は、聖子からその事情をきかされた。角川書店に入れてもらえないかというのだが、早くもその頃、私は角川書店に、というよりワンマン社長の角川源義氏に嫌気がさしていた。人一倍あくが強く、我儘で身勝手で、仕事熱心のあまりかおそろしく人使いが荒く、それを当然のこととしていた。いつまで我慢できるか自信がなかったので、まして人を紹介するなど思いもよらなかった。
私は古田さんを思いうかべた。聖子も何回か太宰治のところで顔を合わせている。いかにも清純な感じの、若さが匂うような聖子を古田さんも気に入っているように見えた。筑摩書房の経営はけっして楽ではなさそうだったし、人手が要るかどうかは分からないが、古田さんなら、なんとかしてくれるだろうと私は思った。
私は聖子を本郷台の筑摩書房に連れていった。古田さんは、二つ返事で引き受けてくれた。
しかし、実は、そのころ筑摩は、女子社員を必要としていなかったのである。聖子を配属すべき部署がなく、さしあたり聖子は社長秘書ということになった。古田社長、安河内専務と同じ部屋に机を並べて坐っているのだが、とりたててする仕事もない。銀行へ行って金を引き出してきたり、月末には飲屋やバーをまわってツケを払って歩くのが精々の仕事である。

入社まもなくの九月のはじめ、聖子の母の富子の病状が悪化した。結核性脳膜炎である。三鷹駅前の中村病院に急遽母を入院させた聖子は、古田さんに電話を入れた。会社を休んで、十分に看病してあげなさい、と古田さんは返事をした。その頃は、結核性脳膜炎は、病状が悪化すれば一週間が寿命とされていた。そのことを知っていた聖子はほとんど夜も寝ずに母の看病に当った。二、三日のち、古田さんはが見舞いにきてくれたが、そのとき古田さんは、かなりの量のストレプトマイシンを持ってきてくれた。ストレプトマイシンは、そのころ民間では入手することが不可能な貴重な薬だった。アメリカでは生産が進んでいたが、特別なコネがないかぎり手に入れることができなかったのである。古田さんは昭和五年から十二年までアメリカに滞在し父三四郎の経営していた貿易商日光商会に勤務している。そしてこの頃、二十三年頃には、アメリカからバイヤーが日本に来るようになり、父三四郎が貸したままになっていた金が借主から戻ってきたりしている。なんらかのコネがあり、そのためストマイを手に入れることができたものと思われる。しかしきわめて高価な薬であったにはちがいない。それを古田さんは、かなりの量持ってきてくれたのである。
薬効は顕著だった。富子は一時的には病状をもち直した。しかし三ヵ月後の十二月十三日、永眠した。奇しくも、太宰治が玉川上水に入水した、ちょうど半年ののちである。

聖子は社長秘書として再び出社しはじめたが、とりたてて仕事のないことに変わりはない。母をなくしてひとり暮しをしていた聖子の家に、早朝の出社前、どこで呑み明かしていたのか、かなり酩酊している古田さんが、その大きなからだを現わすことがあった。一升瓶をどんと畳の上、新聞紙につつんだおおぶりな蛸の足やなま筋子をどさっと台所におき、
「聖子ちゃん、呑みまっしょ。」
「しかし、会社が。。。。」
「会社?きょうはここが会社だ。」
「安河内さんに叱られます。」
「安河内?あんなもん、ほっとけ。」
聖子は酒が強かった。まだ新潮社にいたころ、坂口安吾さんの家に同行し、饗応されたことがある。安吾さんはジンが好きで、日本酒とジンをちゃんぽんに呑まされ、私は酔いが発して苦しくなったが、聖子はほとんど色にも出ず、かえって安吾さんを気味悪がらせた。聖子の酒の強さは、太宰治との酒席で古田さんはよく知っていた。それにしても、社長と新入の女子社員がさし向かいで早朝からの酒盛りとは、やはり珍しい図と言わねばなるまい。古田さんが深更、早朝に社員の家を襲い、酒宴におよぶことはしばしばあったが、女子社員の家を急襲したとは聞いたことがない。聖子には、特別の気持ちを持っていたのだろう。母をなくしてひとり身になった聖子へのいたわりの念もあったろうが、太宰治への思いが、聖子へのいつくしみにつながっていたのだろう。

林聖子は、二十五年の四月に筑摩書房を退社した。すでにその頃、筑摩の経営は悪化し、給料の遅配がはじまっていた。社長秘書は、居心地が悪くなってきたのである。やめなければならない、と聖子は思いはじめていた。
古田さんが外出していたあるとき、同室の安河内専務が、分厚いスリッパの音をぱたんぱたんと立てながら、両手を背中に組んで部屋のなかを歩きまわっていた。資金繰りに追われていた安河内の内心の苛立ちが、そのスリッパの音から伝わってくるようだった。ふと、視線が合った。とっさに、ほとんど衝動的に、聖子の口から言葉が出た。
「会社を、やめさせていただきます。」
安河内は一瞬目を見張った。それからその顔に、ほっとしたような表情がうかんだ。
帰社した古田さんに聖子がそのことを言ったとき、古田さんは無言で目をとじ、じっと目をとじたままだった。

筑摩書房を退社してまもなく聖子は、銀座の「コットン」というスタンドバアに働きに出、それからその姉妹店の「カルドー」に移った。「カルドー」に移ってすぐのある晩、古田さんがひとりで店にきた。その晩、古田さんは聖子を相手にビールを一ケースあけた。一ケースは二ダース、二十四本である。さすがに酒に強い聖子も悪酔いし、帰途、新宿で途中下車してトイレで吐いた。古田さんはさして酔っているふうにも見えなかったそうだが、そのとき古田さんは四十四歳、たしかに、そのころの古田さんは桁はずれに酒が強かった。まさしく「駆け付け三本」だったのである。
「カルドー」から「ヤマ」、「カープ」と聖子は銀座のバアを渡り歩いている。「ヤマ」では、ナンバーワンだった。もうその頃は私は筑摩書房に入社していたのだが、古田さんは時には単身で、しかしおおむねは私たち筑摩の若い者をひきつれて、“陣中見舞”をしつづけた。

昭和三十六年の秋、聖子は借金をして新宿の三光町に「風紋」という二坪ほどの小さなスタンドバアをひらいた。仕入れた酒類の支払いは一ヵ月後にしてもらったが、おつまみなどを買ったら手許には二千円しか現金が残らなかった。開店披露の当日、私は古田さんといっしょに「風紋」に行った。その日は無料招待ということで、入れかわり立ちかわりの招待客で狭い店内は混み合うだろうと、私たちは開店前の早い時期に会社から直行した。まだ客はなく、私たちはビールを一本ずつ呑んだだけで引きあげたのだが、帰りぎわ、古田さんは内ポケットから紅白の水引をかけたお祝いを出し、無言で聖子の手のなかに押しこんだ。
「きょうは、お金はいただかないんですけど。」
しかしもう古田さんは背を向けて戸口のほうに歩き出していた。
「いいから、もらっておきなさい。引っこめる人じゃないだろう。」
私は聖子の肩をたたき、古田さんのあとを追った。
どれほどのお祝い金であったかはしらないが、古田さんのこと、少ない額であったはずはない。
もちろんその後も古田さんは頻繁に「風紋」に通っているし、いつしか「風紋」に筑摩の社員の溜り場のようになった。会社の近くでまず一杯、それから私たちはおきまりのように新宿三光町へと車を走らせるのである。
やがて聖子は、これも借金をしてのことだが、最初のスタンドバアのすぐ近くに、かなりの広さの店をひらいた。たとえば何かの会のあとなど、二次会はおおむね新「風紋」ということになった。筑摩の関係で常連になった著者も、壇一雄氏、竹内好氏などすくなくはない。
いま「風紋」は、さらに新宿駅に五十メートルほど寄った、花園神社の近くのビルの地下の、洒落た雰囲気の店に変わっている。
昨年の十一月二十日、その創立二十周年の盛大な祝賀会が草月会館でひらかれた。たのまれて私は祝辞を述べたが、そのなかで、きょうのお祝いの会に古田さんの姿を見ることができないのはまことに残念であると私は言った。地下の古田さんも、きっと喜んでいてくれるだろうとも言った。
林聖子は目頭を押さえていた。
* * * * *

あらためて、古田晁という人物に深く触れてみたくなった。
今年度(サラリーマンは、よくこの区切りを使う)は、古田晁の生涯をたどってみようか。

※ 写真は、バー「風紋」の店先。イガさんすいません、お借りしました。


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