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私が昨年より、名古屋へ転勤となった事業は色々訳あり、この11月で消滅となった。埼玉へ帰れる理由も無く、結局は片道切符になってしまったようだ。大宮とも次第に遠くなってしまった感があり、このまま「太宰が住んだ大宮」も先に進めないのかと思うと辛い。
名古屋の事業所は、静岡県も範疇となっている。お世話になった取引先に、この消滅する事業の引継ぎご説明と御礼をするために、静岡市、沼津市を訪れた。午前中に静岡市、そこから鈍行列車に乗って沼津市。途中の車窓からは、富士山が大きく姿を現した。
以前、富士市から甲府市へ、JR身延線でぐるりと富士山の麓を回った事があった。どうみても、富士山は甲府側のほうが美男子である。静岡側からの富士山はドン臭い、っていうか田舎者に見える。太宰も、美智子夫人と逢った甲府市側と、下曽我に行った静岡側と、両方の富士山を見ている。どちらの方が素敵に感じたろうか。甲府側の富士山については、富嶽百景にあるように絶賛しているが、静岡側からのそれはまったくない。彼もそう思ったに違いない。
沼津市で用件を済まし、まだ3時少し前、帰りの新幹線に乗り換えるにはと調べると、三島駅だという。三島?なにか覚えがあるぞ!
そうだ、太宰が帝大時代にひと夏を過ごした街、ララ洋菓子店の女店員に思いを寄せた街、のちに『満額』のモデルとなるお医者様が住んだ街、そうだ、三島だ。
太宰の住んだ街を、青森、三鷹、鎌倉、水上、下曽我、そして大宮と巡った私が唯一、行ってなかった街、三島。もうこんな遠地出張などないかもしれない最後の旅が三島とは、いやはや太宰さんもニクい演出じゃないか。
名古屋行きの最終新幹線こだまに乗るにはまだまだ時間がある。とはいえ、太宰の見た景色を巡るには明るいうちが限る。思わず足の運びが早くなる。
三島駅、開業当時のままの駅舎はどこかモダンな佇まいを見せていたが、改修工事が進んでいるのか、囲い塀が周囲を覆っていた。
駅前には、いきなり森。太宰が住んだ街は、楽寿園と呼ばれる大きな公園の向こう側のようだ。時間が無い。一気に突っ切るか。ところが、この森を抜けるには入園料が要るらしい。わずか300円だが、通過のために払うにはもったいないな。迂回しよう...
そうなると、方向音痴な私には、大冒険が始まる。なにしろ今回の旅には、東京紅團に載っていた地図しか持ち合わせていないのだから。遊園地の猿電車のような伊豆箱根鉄道の電車が、わずかな家々の隙間を縫うように走る。ちょっと“鉄”な私には、なんともこの風景は楽しい。と言ってる場合じゃない。時間が無いんだ、今日は。
この電車と並行するように走る1本の道路をようやく見つけた。この先に太宰の住んだ街がある。遠くに、青い大きな家が見えた。「松根印刷所」と大きな文字。昭和9年、佐吉の家に居候していた頃に、寝泊りしていた所だそうだ。「私は男はきらいじゃ」『老ハイデルベルヒ』で、佐吉の妹、さいちゃんとの楽しい会話が聞こえて来そうだ。そしてその先、現在は和菓子屋になっている、この辺りが坂部武郎酒店だった。この間を、毎日太宰は歩いていたのだ。気持ちはいっぺんに昭和初期に戻る。
後ろ髪引かれる思いで次に向かったのは、ララ洋菓子店。太宰はここのママさんが好きでよく訪れていたという。そのママ、千代子さんは当時23歳、一番危険な頃の太宰がよく手を出さずに済んだものだ。奇跡!(もしや?)
その千代子さんも平成21年に96歳で亡くなられた。またひとつ、生き証人が姿を消した。
1階が洋菓子店、そして2階が喫茶店になっていた。木の壁の店内ははやりその昔のままなのか。ショートケーキと珈琲を注文。千代子さんの娘さんと思われる女性と若干歓談。その方はひとりで1階も見ていたので、あまり多くは話せなかった。
次、『満願』の舞台であると言われる今井産婦人科病院があったとされる場所は、現在は駐車場になっていた。そのすぐ前には、昔ながらのタバコ屋、そして元看板娘(?)のおばあちゃんが店の番をしていた。このおばあちゃんであれば、その昔の事をいろいろ知っているかもと、しばらく張り込んでみた。おばあちゃんは、誰かとずっと電話中で、いつまで待っても切ろうとはしない。どれだけその前で待ったろうか、かなり粘ったのだが、いっこうに状況は変わらず。ついには薄暗くなってしまい、私はその突撃取材を諦めた。
街の間には、きれいな水が流れる小川の清流が私の心を和ましてくれた。理由は要らない。居心地のいい街であることは間違いない。
さあ、暗くなってきた。どこかでいっぱいやって、名古屋に帰るか。
※ ララ洋菓子店で頂いたケーキと珈琲。落ち着いた時間がゆっくり流れた。
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