太宰が住んだ大宮 情報ブログ

太宰治が大宮に住んだ二週間を濃ゆ〜く調査しています。

昔探し

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今年の1月より名古屋へ転勤となり、単身赴任をしている。大宮とも次第に疎遠になる中、こうした事で、さらに縁遠くなるのが本当は辛いもの。大宮の、太宰にゆかりの場所に出向くこともできず、せめてもと、大宮駅前に昭和22年から存在するという老舗居酒屋「いずみや」には、昔お世話になった常連の先輩方もいるので、帰省のたびに立ち寄っている。

先日もいつものように、名古屋へ戻る前に「いづみや第二支店」の暖簾をくぐった。転勤後久し振りの先輩、まりりんが出迎えてくれた。私の大宮太宰調査を最も応援してくれた、元スゴ腕日経記者のあの人である。半年以上の再会にも、そんな時間をまったく感じさせず、ごく普通の会話が交わされる、それが何より嬉しい。30分程、僅かな立ち寄りのつもりが、たわいもない話に興じ、ついには指定席を取っておいた新幹線にも間に合わなかったのである。

ここで私は、意外な、そして悲しい事実を聞かされた。元このいづみや第二支店の店長をされていた篠原さんが昨年末に亡くなったというニュース。
「なんだよ、知らなかったのかい」
そりゃあそうさ、1ヶ月に1回しか帰って来れないんだもの。なんでも昨年の12月11日、おとなりのいづみや本店で倒れて、そのまま、だったそうである。

篠原さんも、私の大宮太宰調査を応援してくれた一人だった。店内で太宰の存在を語っている私に、昭和9年の大宮商店地図を見せてくれ、おまけにコピーまで取らせてくれたのである。その地図には、「宇治病院」も、「大西屋酒店」も、現在は大宮製油と名を変えた「逸見製油所」も書かれている。おおよそ太宰が訪れた大宮の景色が消え隠れする貴重な品、そこから大宮探索のレベルも上がったともいえる。

実は私、篠原さんと昨年の今頃、顔を会わせている。いづみや第二支店の店長の座を創業者のお孫さんに譲った彼は、いづみや本店の店の前で客寄せをしていた。私は専ら第二支店へ通っており、篠原さんを見かけるのが本当に久し振りで懐かしかった。
どちらの店に入るか迷っている私に、
「知ってる常連がいるんだろ。俺に気を使うなよ。」
そう言って、私をいつもの第二支店へ送り出してくれたのである。今思えば、言葉を交わしたのがあれで最後、あのままいつもの第二支店へ入ってしまった事が悔やまれる。

こうして大宮にも時間が静かに過ぎていく。大宮での太宰、そして古田晁を知る人物も、このまま消え去ってしまうのか。そして私は、それを何もせずに見過ごすのか。今までのいろんな苦労がフラッシュバックして、頭の中をよぎる。

※ 大宮太宰ツアー第二弾のあと、いづみやで我々と酒に興じる篠原さん、懐かしい1ページ。

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昨日、日本アカデミー賞の受賞式が行われた。「沈まぬ太陽」、「剣岳 点の記」、「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」の三つ巴となった感のある今回の結果、その中でも、松 たか子が主演女優賞を受賞! 太宰作品が、一般の人たちにも支持されたのはとても嬉しい限り。確かに、松 たか子の演技は、あの映画に登場する演者の中でも群を抜いていたと感じた。自身の印象も間違っていなかった事がさらに嬉しい。
今後は、名画座のような小さな映画館や、地方の自治体などでも上映される機会も多くなる事だろう。その意味では、私の地元の映画館で、この作品を昨日まで上映されていたのは先駆けだったかもしれない。

このあと、「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」はどこに向かうのかと検索していたら、グッドタイミングな場所に行く事になっていた。埼玉県深谷市の「深谷シネマ」( http://fukayacinema.jp/ )で、明日7日から13日まで上映される。以前にもこのブログでご紹介したが、「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」のある部分、この深谷市で撮影されたものなのだ。
写真の風景、覚えているだろうか。これはセットでもCGでもない。深谷市で300年続いた酒蔵「七ッ梅酒蔵」を裏手から見たもの、このような原風景が今でも普通に残ってるのが深谷市なのだ。

この街には、映画に情熱を注ぐ人たちがNPO法人として運営し、その努力で、今では、多くの映画やドラマなどでの懐かしい風景を得られる場所として、業界では密かに人気スポットとなっている。
「深谷シネマ」はその象徴として、古い銀行を改築して誕生したもの。席数49、最近流行のシネコンではなく、昔ながらの映写機(2006年閉館 川越シアターホームランより譲渡)の回転音が聞こえる、素敵なスペースだ。私も、見逃した映画を一足遅れで見たい時、たまに訪れるが、子供の頃に見た映画館の雰囲気が残り、なんとも心地よい。

この「深谷シネマ」、4月からは「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」を撮影した「七ッ梅酒蔵」の建物の一部を改装した場所へ居を移す。このように、貴重な歴史遺産を確実に後世に残す手段を、未来に向けて建設的に展開する深谷市民に、本当に敬意を表したい。大宮とは雲泥の差、比較にならない!

ぜひ、深谷市で「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」が上映されるこの時期に、日本アカデミー賞で最優秀美術賞も取った、この作品の昭和の風景に酔い、その足で、実際の景色を確かめるというのもオツではないか。

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大宮太宰ツアーを1週間後に控え、準備の仕上げに取り掛かっている頃になって、新事実が飛び込んで来た。その経緯はまだお話できないが、極めて信頼性のある情報である。

太宰が大宮に住んでいた頃、息抜きに映画を楽しんでいる。その場所はどこか、少ない情報を頼りに、それから今日まで開催している、さいたま市博物館特別展「街にキネマがあったころ」の展示、関連資料で、かつてウエストサイドストーリーに存在した「大宮座」だと断定していた。しかしそうではなく、当時は「日活館」と呼ばれ、南銀座通りの近くで、平成17年まで営業を続けていた松竹大宮ロキシー(または、大宮シネマリゾート)であると分かった。
戦後しばらくしてから登場したハタシネマなど、新興映画館以外では、老舗映画館として最後まで頑張っていた映画館だ。ここで太宰は、山崎富栄と、小野沢さんの姪、藤縄さんとの3人で、もっぱら邦画を見ていたそうである。

この情報を得て、次ぐ日、いくつかの地図を元に現地到着すると、そこは現在の中華「天清」のまん前だった。それにここの映画館、実は私、若かりし頃、毎夜のように通っていた。映画ではなく、ここ上階のホールには、とっても大きなフィリピンパブがあり、仕事仲間と呑み遊んでいた一時期があった。
独身で、かつバブリーな、夢のような時期のこと。もう二度とはありえないが。
しかしここで、太宰と富栄が映画を楽しんでいたなんて、私は思いも寄らなかった。この頃から知らぬ間に、太宰のいた景色を辿っていたのだろうか。

※ 写真は日活館あと。閉館まで名乗っていた「大宮キネマリゾート」の看板が今も外塀に残る。

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氷川参道のすぐ脇にある「さいたま市立博物館」にて、特別展『街にキネマがあったころ』が始まったので、さっそく会場へ行ってきた。この大宮太宰調査においても、とても重要な案件の確定のため、開催を心待ちにしていたのである。

太宰は、小野沢宅に滞在していたころ、一緒に住んでいた小野沢さんの姪っ子、藤縄さんと大宮駅近くの映画館に行ったという。その映画館は、地元の人たちの証言から、すずらん通りとウエストサイドストーリーの間にあった「大宮座」だというのがもっとも有力だが、どうしてもそれが確証に至らなかった。今回訪れた特別展で、その推測はかなりの確立で決定的になった。

戦前から戦中にかけ、大宮駅東口周辺には4つの映画館があった。「吾妻座」、「新興館」、「武蔵野館」、「大宮座」の4つがそれだが、この展示で、そのそれぞれの映画館の運命が詳細に分かった。

「吾妻座」は、大宮で一番古い劇場「末吉座」の跡地に建設され、義太夫などとともに活動写真(映画)も上映されるようになったが、明治40年、「大宮座」登場とともに閉館になった。

「新興館」は、昭和6年、西口にできた「桜盛館」と同時期に開館、繊維工場として、当時大宮町の大きな産業を支えた工員たちの娯楽として繁盛した。その後「日活館」、「大宮東映オスカー」、「松竹大宮ロキシー」と名を変え、つい最近、平成17年に閉館された。しかしこの「新興館」は、大宮駅から遠く、また小野沢宅から大宮駅を越えてさらに先に行くという立地にあり、藤縄さんの言う「大宮駅に近い映画館」とはあたらないと思われる。

「武蔵野館」は、大宮駅前通りの突き当たり、駅からも一番近い位置にあったが、昭和20年、空襲延焼を防ぐ事を目的に通された駅前通りの延長に伴い、その姿を消す事になった。

そんな戦中の混乱の最中でも、営業を継続されたのが「大宮座」だった。
「大宮座」は、盛況だった活動写真(映画)の上映スペースとして手狭になった「吾妻座」に代わり、大宮町の常設劇場として建てられた。昭和になると、大宮で唯一映画専門館として改装され、長い間、市民に親しまれた。残念ながら、昭和47年に当館自ら出火した火災で焼失することになる。再建された建物でも一時営業をされていたようだが、現在では、その任を終え、回転寿司の店舗となっている。

私たちにも記憶に新しい「ハタシネマ」や「白鳥座」など、最近まで現存していた映画館が建てられたのは、太宰が住んだ昭和23年からさらにあとになるので、以上のことから考えると、当時、太宰と藤縄さんが行った映画館というのは「大宮座」だったと、かなりの確立で断言できる。

この特別展では、いくつかの講演が予定されている、その中のひとつ、11月1日(日)には、さいたま市映画史研究会の代表である山嵜廣氏の講義がある。地元の映画史を古くから調べ、「大宮座」の週ごとのパンフレットをずっと収集しているそうである。
もしかすると、太宰が大宮で見た映画の題目も知ることができるかもしれない。それが一ヵ月後の彼の死に繋がるものであったらなら、悲しい事だが。

※ さいたま市立博物館 特別展「街にキネマがあったころ」。11月23日(月・祝)まで開催中。入場無料。
特別講演などの詳しい情報は、http://www.city.saitama.jp/www/contents/1252800541807/index.html へ。

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仕事帰り、大宮駅前「いずみや第二」。給料日直前だからか、こころなしか、お客の数が少なく、静かな店内。いつも顔を合わせる常連さんたちも少なく、今日は誰とも話すことなく退散、と思っていたその時、超常連さんの大先輩、Eさんが来店。
私の席の真ん前に座るなり、
「もうギャンブルはやらねぇ!」
この店は、大宮競輪帰りのお客が特に多いのだ。オリジナルの冷酒に「大まくり」なんてあるくらいだから。さてはEさん、今日もかなりすられたな。

いつもは、Eさんの周辺には5、6人の常連さんたちが囲み、旬の競輪選手の事、地元の事、懐かしい昔の事、様々な話が繰り広げられており、私はその話を遠めに聴きながら呑んでいるのだが、今日はEさんを知る者は私ひとり。ということで、初めてサシでじっくりお話をすることができた。

地元の公務員として長く勤め、引退した今でも、それに関わった仕事を続けているというが、私の仕事とも意外な接点がある事がわかり、かなり専門的な話で盛り上った。そこから、どういうわけか、シベリア抑留の話になった。Eさんのご友人で、収容所での抑留生活を経験された人がいるという。とてもとてもブログなどで軽々しく語れない、目を覆いたくなるような話の数々に胸を痛めながら、本当に貴重なお話をたくさん伺った。

ここで忘れていた事がある。
シベリア抑留が行われた時期、戦後生まれの私には、“戦時中の出来事”と、ひとまとめに片付けがちだが、実はその悲惨な事件は、終戦後まで及んでいた。
終戦を間近に迎えようという昭和20年8月、ソ連が日ソ中立条約を破棄して宣戦布告、満州国、朝鮮へ兵を進めたのが発端となり、それから4年の歳月、数十万の日本人が、シベリア、モンゴル、朝鮮での厳しい強制労働を強いられる事になる。まったく人道的とは程遠い毎日である。

太宰が大宮で執筆活動をしていた昭和23年、厳冬の大陸では、未だ抑留者の労働が続いている真っ只中だった。その頃の太宰の作風と、世相とのギャップが大きすぎて、ひとつの時代として語ることなどできない。
あまりにも厳しい現実を突きつけられ、単に“太宰が住んでいた”などと、のんきに発していていいのだろうかという、大きな疑問にぶち当たった。しかし、戦後史を学んで、この頃の時代背景も理解した上で、あらためて太宰のいた頃、太宰の作品に触れることで、今までとまったく違った物が見えてくるのかも知れない。そうする事により、太宰の荒廃的な心のうちの一端も感じ取れるのだろうか。

※ 写真は、お馴染みのウメ割りと煮込み、今日も、ここでの夜はこれで始まる。。。

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