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http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20061013/20061013_002.shtml
第9部 水俣病と報道
行政や政治だけでなく、私たちマスコミにも「未解決の半世紀」に責任があるのではないか

<1>誤報 打ち消す努力足りず 本紙第一報は「伝染性」
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20061013/20061013_002.shtml
<2>中央偏重 遠かった「地方の声」
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20061013/20061013_003.shtml
<3>幕引き 「空白の8年」に陥る
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20061018/20061018_001.shtml
<4>過熱 使命感だけだったか
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20061018/20061018_002.shtml
<5>ニセ患者 中傷を解消しきれず
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20061018/20061018_003.shtml
<6>潮目 見えなくなった患者
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20061018/20061018_004.shtml
<7>ジレンマ 伝えて起こる反作用
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20061018/20061018_005.shtml
<8完>提言 地域見据え持続的に
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20061019/20061019_001.shtml


引用
■水俣病と報道<1>誤報 打ち消す努力足りず 本紙第一報は「伝染性」

水俣病の公式確認を最初に報じた1956(昭和31)年5月8日付の西日本新聞朝刊の記事。現在から見れば、「伝染性の奇病」は明らかな誤りだった(記事中の人名などを処理しています)

 1956年5月1日。新日本窒素肥料(チッソ)水俣工場付属病院の細川一(はじめ)院長と、医師を乗せた紺のダットサンが水俣保健所に滑り込んだ。
 
 「車中、細川院長は無言でした。玄関で、保健所の伊藤蓮雄所長が到着を待っていました」。当時、付属病院の運転手だった水俣市の坂本良行さん(77)は証言する。細川院長は伊藤所長に、市内の漁村で相次いでいる奇病の発生を報告した。後に、この日が「水俣病の公式確認日」とされる。
 
 一週間後の5月8日。西日本新聞社会面に水俣病公式確認を初めて伝える特ダネ記事が載った。

 「水俣市に3年前から小児マヒに似た伝染性の奇病が発生、すでに数名の死亡者や、発狂者を出していることがわかり、水俣保健所からの連絡で、7日熊本県衛生部から技師が急行した(一部省略)」「手足がしびれ、不眠になり食欲がなく、言語が不明瞭(ふめいりよう)で、視力は遠いものは見えるが近いものは見えないという変わった症状」…。

 「伝染病」「奇病」として、水俣病報道が始まった。

   

 水俣病は、汚染魚介を食して有機水銀が体内に入り発症する中毒症である。「伝染病」は明らかに違う。しかし被害が出た当初、それが強く疑われる事情があった。同じ汚染魚介を口にしたため、患者は家族などごく狭い単位で発生した。

 公式確認前日。坂本さんは付属病院に入院していた水俣病患者を、「避(ひ)病院」と呼ばれた市の伝染病隔離病棟に搬送した。

 避病院を出るとき、噴霧器で「髪から滴がしたたり落ちるほどたっぷり」と消毒液をかけられた。その日、患者と家族を乗せて、付属病院と避病院を3、4回往復した。そのたびに、車中も消毒された。「独特の刺激臭が何日も消えなかった。50年たっても、あの臭(にお)いは忘れない」

 ただ、坂本さんもパニックになるような受け止めはなかった。「当時は結核などが流行し、今ほど伝染病が珍しくなかったように思う。病院でも細川先生の自宅でも、新聞記者を見かけることはなかった」と振り返る。

 報道の始まりは静かだったが、差別の方は一気に過熱した。「手渡しでなくかごに入れて釣り銭を渡した」「鼻をつまんで家の前を通り過ぎた」

 白い防護服姿の市職員らが患者発生宅を消毒に回ったことで、伝染病への差別観が口コミで広まったようだ。本紙の「伝染性の奇病」報道が直接、差別を招いたわけではなさそうだが、だからといって責任を免れるものではない。

 「西日本新聞の責任は、伝染病という報道をしたことではなく、その打ち消し記事を大きく掲載しなかったことではないか」。患者支援活動を続ける水俣病センター相思社の弘津敏男理事(55)は指摘する。

 公式確認から半年後。熊本大の研究班は「チッソからの排水が関係した中毒症」という可能性を示唆した。西日本新聞は、研究班の会合結果を「中毒性のものであり伝染の恐れはいくぶん薄らいだ」(56年11月7日、熊本版)「(原因が)伝染病のものかいまのところ不明との発言があった」(同月26日、同版)と報道。歯切れが悪い。57年1月、厚生省(当時)の対策会議後の「水俣の奇病は“毒物説” 厚生省対策会議で有力」の記事は、「原因が細菌やビールス(ウイルス)ではないということはほぼ確実だ」と末尾に書くにとどまった。

 「第一報の印象が強いほど、そのミスリードを打ち消すには、それ以上に大きく報じる努力が必要ではないか」。弘津理事の見方は、今日にも通じる新聞の課題である。

 本紙を含め、水俣病を「奇病」と表現する新聞記事は、少なくとも58年夏ごろまで続いた。

   

 水俣病問題を取材して、胸の奥にひっかかる感覚がある。それは行政や政治だけでなく、私たちマスコミにも「未解決の半世紀」に責任があるのでは、との思いだ。環境相の私的諮問機関「水俣病問題に係る懇談会」は今年9月の提言書で「地域住民のパニック、偏見、差別などを防ぎ、事態の正確な理解を促すための活動が不十分だった」とマスコミの問題点を指摘した。15日からの新聞週間に合わせ、水俣病報道を振り返った。



=2006/10/12付 西日本新聞朝刊=



■水俣病と報道<4>過熱 使命感だけだったか―連載

「有明海に『第三水俣病』」?。1973年5月22日、全国紙の一面に衝撃的な見出しが躍った。

 熊本大第2次水俣病研究班が、有明海南部の町で水俣病と似た症状の患者を発見。汚染源はチッソとは別の疑いがある、と報じたのだ。水俣、新潟に続く「第三水俣病」の発生なのか。その日の夕刊から報道合戦となった。

 「完全にノーマークだった。先輩からえらい怒鳴られてね」。当時入社4年目、西日本新聞熊本総局で水俣病担当だった渋田民夫記者(59)=現・論説委員長=は赤茶けたスクラップ記事に記憶を重ねた。

 「公害」が全国で社会問題化していた時代。新たな被害出現の記事は即、大きな扱いになった。記者たちの「患者探し」は熱を帯びる。視野狭窄(きょうさく)を測ろうと、住民の目に指を当てる「にわか医師」のような記者もいたという。

 渋田記者は今、「喉(のど)に棘(とげ)が刺さったような思いだ」と明かした。それは、特ダネを抜かれたからではなかった。

   ■   ■

 「本当はもう1年じっくりやるつもりだったんだが…」。研究班のメンバーだった熊本学園大の原田正純教授(72)は、書かれた側の思いを吐露する。「水俣病の疑いは十分だった。でもまだ裏付けが弱かった。新聞に派手にやられて『第三水俣病』という言葉が独り歩きしてしまった」

 騒ぎが大きくなりすぎて、その後の研究は環境庁(当時)に実権を握られてしまう。「後の追跡調査が一切できなかった。住民の検診も自由にできなくなった」。検診が記事になると魚が売れなくなり、皆が迷惑する。そんな理由で、原田教授らを拒む者もいた。

 それでも報道は過熱した。「福岡・大牟田でも類似患者」「徳山湾“第四水俣病”の不安」…。魚価暴落を含む「水銀パニック」が広がった。

 第一報から2カ月後の8月4日。逆の特ダネが本紙朝刊一面に出た。「有明海の患者2人は水俣病ではなかった」?。研究班と対立する熊大教授の診断結果を、渋田記者がスクープしたものだ。「第三」に否定的な側からの情報提供だった。

 「出すかどうか一週間悩んだ。広く患者を救済するという流れを、覆すことになると思ったから」。その懸念を「第三水俣病の不安は消えぬ。実態調査の継続を」と解説記事にして添えた。だが、強い見出しはそんな訴えを軽々と吹き飛ばした。

 環境庁は翌年6月、「有明海沿岸に第三水俣病の患者はいない」と最終判断を下した。

 原田教授ら研究班は騒動の張本人と目され、その後の研究から締め出される。研究班長は、熊本県の水俣病認定審査会会長の座を追われた。

 「あの騒動は何だったのか」。渋田記者は時折考える。社会に警鐘を鳴らす使命感?。だがそれ以上に当時の記者たちを包んでいたのは「書けるものはどんどん書けという異様な興奮状態だった」という。「抜かれ記事は否定するか、新しいネタで抜き返す。結局、私の記事は火消しを望む側に書かされたわけだ」

 「研究者と報道。両者に罪がある」。原田教授は、マスコミだけに責任を負わせる言い方はしなかった。しかし次の言葉は、ストレートな批判以上に突き刺さった。

 「気の毒だったのは患者さん。肩身の狭い思いをさせ、振り回した。そして、本当にいたはずの被害者を闇に葬ることになってしまった」

=2006/10/15付 西日本新聞朝刊=


2006年10月18日22時44分

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