|
中西準子氏 ムダをなくす? ムダをなくす代表選手のような形で、八ッ場ダムの中止が民主党のマニフェストに登場した。ただ、この問題をムダかムダでないかだけで議論するのは無理だと思う。ここまで費用をかけてきた、だから、前に進むべきか、止めるべきかを通常の費用だけで考えることに無理があると思うのである。 もし、1000人収容の会館を造り始めたとして、途中まできて、300人で十分、1000人はムダだとなったとしよう。その場合には、1000人の会館を300人で使うとした場合、300人の会合を必要に応じて、民間の会議場を借りて行うとした場合との比較をする。 前者の方が経済的となれば、後はできるだけ経常経費を少なくするようにして使うことになるし、後者の方が経済的となれば、1000人の会館の建設を中止することになろう。 しかし、ダムの場合には、特殊な問題がある。ダムがあることが、どう見ても環境破壊であるにも拘わらず、そのことは通常の費用計算に組み込まれていない。環境への影響を考えれば、ダムはできれば作らない方がいいものだし、コスト計算をするなら、そのことを考慮しなければならない。 利水目的のダムは不要! できれば作らない方がいいという前提に立てば、後は、本当に必要かという議論が大きく浮かび上がる。 八ッ場ダムの目的には、利水(水道水などに使う)と治水(洪水を防ぐ)がある。東京、茨城、埼玉などで、利水のためのダムを造る必要性は全くないと、私は自分の専門の立場から言える。 関東地方でなくとも、ある非常に限られた地区を除けば、我が国で利水目的のダムが、ほとんど不要である理由を、「水の環境戦略」(岩波新書)で書いた通りだが、このことは、また、来週書くことにしよう。ここでは、このことを書くのはやめておく。 治水のために八ッ場ダムがどのくらい必要性が高いかは、実は私はよく分かっていない。私の周囲の友人達は、ほとんどダム反対派で、その主張は何回も聞いているが、本当にそれが正しいのかどうかの判断ができずにいる。その意味で、八ッ場ダムの治水面での役割を、ダム推進派の方からも聞きたいと思ってはいるが、それは、私個人の問題である。 私個人の認識は以上だが、いずれにしろ、八ッ場ダムがどのくらい必要かの議論を詰めることしか方法はなく、環境破壊という影響を考えれば、できるだけダムはない方がいいという立場で考えざるを得ないのである。 コスト比較の式 そうすると、以下のような比較になる。 建設継続の場合のコスト=環境影響+総建設費−利水のメリット−治水のメリット 建設中止の場合のコスト=これまでの投資額 継続の場合と中止の場合の費用比較: 差し引き=環境破壊+総建設費−これまでの投資額−利水のメリット−治水のメリット 差し引きがプラスなら、中止した方がいい、マイナスならば、継続した方がいい。 ここで、利水のメリット=0とすれば(中西の主張にしたがって)、 1)以下の式が成り立つとき、中止: 環境破壊+今後必要となる建設費>治水のメリット ・・・式(1) 2)以下の式が成り立つ時、継続: 環境破壊+今後必要となる建設費<治水のメリット ・・・式(2) 問題になるのは、今後「必要となる建設費」である。今までいくら投資したかではない。勿論、総事業費が決まっていれば、これまでの投資額と今後必要になる建設費は、お互いに関係しているから、関係はあるのだが、基本は、今後必要となる建設費と環境破壊によるマイナスであることを認識する必要がある。我々が比較すべきは、式(1)だということ。今までどのくらいのお金を使ったかは、忘れていい。(今後必要な費用として、撤去費とか、補償費とかがあれば、それは加える) 治水の対案 治水のメリットの大きさは、治水のための代替案があるかどうかに影響を受ける。ダム反対派が主張するように、治水のメリットはないなら、直ぐにでも中止となるのだが、一応、ここでは治水の必要性はあると考えておく。 堤防などがいいという意見があるが、それが、実行可能かどうかについては、私は分からない。ここでは、適切な代替案がないとして考えてみよう。その場合に、八ッ場ダムの規模縮小とか、使い方の工夫などもあるかもしれない。それによって、環境破壊をどの程度軽減できるかが一番の問題になろう。つまり、治水効果と環境破壊、これが天秤にかけられることになる。 地元の問題 ここには、地元の地域振興という問題もあるようだ。前原大臣も、地元の状況を考えて、相当柔軟になったので、ほっとしているが、マニフェストに書かれているから実行しますと宣言した時には、かなり驚いた。霞が関の官僚に対して、top downは分かるけど、地域の人や、市長や知事に対してもtop downですか?と聞きたくなった。 民主党に投票した人も、マニフェストに書かれていることすべてに賛成しているわけではない。また、国全体でどうするかということと、その地域はどうかということは別である。 例えば、国全体で国民投票をすれば原子力発電所が必要と言う人が5割を超えるとしても、ある地域に作るとなれば、そこは反対ということはある。その場合、国民投票で過半数が賛成だから良いはずだというような論理だけでは通用しない。 やはり、地域の反対とか賛成は、別の問題として考えなくてはならない。地元が反対だからダメということではないが、少なくとも相当の配慮が必要だろう。 政権公約は100%守る必要はない! 今回、地元との関係がこじれはじめた第一の原因は、政権公約は100%実行しなければならないと、民主党の幹部が考えているからだと思う。政権公約は、政権をとった後に、ある程度修正されるべきものだと私は思う。 鳩山内閣は、自己の主張を訴えて勝利を収めた。しかし、当選後は、その主張に反対の人も含む国民の代表である。ある程度、その反対の人の意見が反映されて当然で、その分マニフェストは薄められなければならない。 私はかつて、こういう自分の意見を朝日新聞に投稿したことがある。それは、1995年5月22日の朝刊、声欄に掲載されている。青島幸男氏が公約でお台場での世界都市博の中止を掲げて東京都知事に当選したが、すでに準備が進んでいたために、様々な動きがあり、知事宅に爆発物の小包が送られるという事件もあり、知事自身が悩んでいる様子が見えた時だった。 最終的には、5月末、知事は開催を中止すると宣言した。その少し前、5月22日にこの投書は掲載された。声欄の一番目には、「青島知事は初心を貫いて」というタイトルの意見で、私のは二番目で「公約の修正は若干あっても」というタイトルになっている。こういう中途半端な意見が、採用されたので自分で驚いたのを覚えている。 民主党がはりきりすぎて、マニフェストに縛られると、評価が下がると思う。また、自民党が、地元の反対運動に肩入れすれば、これも命取りになるだろう。 青島都知事の時代の私の投書 1995年5月22日 朝日新聞 「声」欄 「公約の修正は若干あっても」 東京都 中西準子(大学教官 56歳) 青島都知事は都市博反対を公約して当選したので、100%それを守らなくてはならないという考えで苦しんでおられると思う。しかし、それはそもそも無理なことである。都知事とは、それに就任すると同時に、都市博賛成派の人も含む全都民の代表になるからである。首長は投票した人だけを見ていてはいけないのであって、首長の公約とは、当選後は全都民の意向を入れて若干は修正されるものだという受けとめ方をすべきではなかろうか。 しかし、同時に、都議会も知事選挙に示された都民の意思を尊重し、従来の考え方を変えるべきである。個人的には私も、都市博には反対である。しかし、いろんな意見の人がいるのだから、自分の意見は半分程度生かされればいいと思っている。青島知事の決断についても、都市博反対の意思が半分入れば、公約は守られたという評価をすべきだと思う。 首長の公約とはそもそも、どうあるべきかから議論しないと、いたずらに有能な人材を疲弊させてしまうようで、気が気ではない。 |
シンポジウム
[ リスト ]




