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【キブンの時代】第2部 危険はどこに(1)新型インフル「偏執病」 (1/4ページ) 2010.4.4 08:00 「『もう言わんとこ』って決めたんです。話したくないのは当然だけど、思いだしたくもない」 大阪府寝屋川市にある公立高校の校長は、やんわりと取材を断った。 昨年5月、この高校は、新型インフルエンザの大騒動に巻き込まれた。短期留学で訪れたカナダから帰国した生徒4人が、成田空港での検疫で新型インフルに感染していることが判明。同じ航空機に乗っていた同級生ら乗客48人が空港近くのホテルに停留される羽目になった。 新型インフルの日本での初の感染確認だった。 高校が追われたのは、生徒らへの対応ばかりではなかった。「謝れ!」「大阪へ帰ってくるな!」「バカヤロー」。伏せられていたはずの高校名をどこで知ったのか、電話が殺到した。 「まるで危険物扱い。誹謗(ひぼう)中傷も、マスコミの取材もすごかった。でも1週間もして、日本各地で感染が確認されると誰も騒がなくなった。あの雰囲気、世間の気分は、いったい何だったのか」。校長は1年近くたった今でも納得がいかない。 ◇ 厚生労働省では、国内での感染が確認された時点など要所要所で、当時の厚労相、舛添要一(61)が深夜、早朝を問わず自ら会見を開いた。 国が騒ぎ過ぎたので、日本中が大騒ぎになったのではないか−。そんな声は当初からあった。舛添から「緊急時なのに連絡がつかない」と指摘された横浜市長(当時)の中田宏(45)が発した「大臣自身が落ち着いた方がいい。カリカリし過ぎ」という言葉が反発を象徴している。 厚労省幹部によると、首相官邸からも「何で大臣が深夜に会見するんだ」といった牽制(けんせい)があったという。 これに対し舛添は今年2月、日本環境感染学会で講演し、「反省点は山ほどある」としながらも、「見えない敵との戦争だ。危機管理の問題で情報を公開することが大切。位が上の人が言うほど情報の信頼性が高まる」と反論。「ワクチン対応などで長妻昭厚労相が国民の前で語るのを見たことがない。これではだめだ」と切り返した。 国の対策の事務方の責任者である厚労省健康局長の上田博三(60)は一連の情報発信について、「大臣が会見したことで、国民にしっかりとメッセージが伝わった」と肯定的に振り返る。一方で、「情報が強く伝わってしまった点もあった。われわれがもっと積極的に情報の背景説明などをすべきだった」と語る。 ◇ マスク、手洗い、そして感染者が出た学校への誹謗中傷…。米紙ニューヨーク・タイムズは、新型インフルをめぐって日本中を覆った雰囲気を奇異にとらえ、「パラノイア(妄想症)の国」と伝えた。 記事は「下着からボールペンに至るまで抗菌性」と日本社会を揶揄(やゆ)し、「もともと衛生状態への強迫観念がある」と分析する。 なぜ、日本中で「パラノイア」と称される光景が生じたのか。ものものしい防護服に象徴された検疫体制を検証してみる。 「空港の検疫体制は過剰ではなかったのか」。メキシコでの新型インフルエンザ感染確認から約1年がたった今年3月31日。厚生労働省で開かれた新型インフル対策を検証する委員会で、そんな批判が紹介された。 新型インフルの“恐怖”を視覚的に日本中に伝えたのが、メキシコでの感染確認から間もない昨年4月29日から5月22日まで続けられた航空機内での検疫だ。ゴーグルをつけ、白い防護服を着た検疫官が機内で乗客の健康状態をチェック。島国・日本だからこその“水際作戦”だった。 だが、当初から専門家は検疫強化による効果に懐疑的な見方をしていた。 政府の新型インフルエンザ対策本部専門家諮問委員長を務める尾身茂(60)は今年3月、日本記者クラブ(東京都千代田区)での会見で、「水際作戦に限界があったことは皆が承知していた。だが病気についてよく分かっていなかった時点で、水際作戦をやめることに国民は耐えられただろうか」と、世論の動向が検疫強化につながったという見方を示した。 当時厚生労働相だった舛添要一(61)もインフル対策を振り返る中で、「水際作戦の継続のように、医学的にみれば『あまり合理的でない』ということはあるかもしれない。しかし、人間の心理や感情を考慮しなくてはいけない」と語っている。 続く |
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◇ 厚労省内でも感染確認直後から、「ものものしい検疫をいつまでも続けるより、早く病院など国内の体制整備に力を向けたい」という声が聞かれるようになっていた。同省健康局長の上田博三(60)は「5月の連休明けにも検疫体制を縮小することも考えた」と振り返る。 しかし、まだ連休中だった5月9日。成田空港の機内検疫で感染者が見つかった。カナダへの短期留学から帰った大阪府寝屋川市の高校の生徒たちだった。 上田は「検疫で見つかることが分かった途端、『もっとやれ』という声がいろいろなところから届き始めた。風向きが急に変わった」と話す。 検疫の強化は、国内で感染者が確認された後も継続されていくことになる。 ◇ 羽田空港検疫所で働く医師、木村もりよ(45)は、厚労省のとってきた政策を正面から批判する。インフル対策で歯にきぬ着せぬ発言をし続け、国会に参考人として呼ばれたこともある現役の厚労省職員だ。 「そもそもインフルエンザの感染を封じ込めるなんて無理な話で、検疫を強化しても仕方ない。季節性インフルでも何千人と死ぬことがあるのだから、腹をくくり、重症化しやすい人への対策に力を入れるべき」。木村はそう主張する。 そして「公衆衛生や医療現場を分かっていない役人が、誤ったメッセージを国民に伝えるからパニックになった。この騒動は『官製パニック』。国民は踊らされた」と一刀両断にする。 世界的にみて、今回のインフルで、これほど検疫強化に努めた地域はない。厚労省の立ち上げた検討会では、その評価も含めた検証が始まるが、昨年の日本社会が官僚も国民も含め、新しいウイルスへの恐怖感で満ちていたといえる。 検疫業務に参加した女性スタッフ(42)が話す。「『大げさだ』と怒られたこともあるが、検疫を受けた人や、多くの国民から『安心した』『頑張って』という声を随分かけてもらったことも事実。少しでも安心な気分になってもらえたなら意味があった、と思う」(敬称略) ◇ 新型インフル、中国製ギョーザを契機とした冷凍食品問題など、日本人の健康や安全に影響が出るような事象が相次いでいる。マスクをしたり、購入をやめたりと、敏感に反応する日本人。その反応に“キブン”的なものはないのか。健康や食の安全をめぐるキブンを考える。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 過去の報道等 第9部 水俣病と報道 行政や政治だけでなく、私たちマスコミにも「未解決の半世紀」に責任があるのではないか 水俣病と報道<1>誤報 打ち消す努力足りず 本紙第一報は「伝染性」 水俣病の公式確認を最初に報じた1956(昭和31)年5月8日付の西日本新聞朝刊の記事。現在から見れば、「伝染性の奇病」は明らかな誤りだった 1956年5月1日。新日本窒素肥料(チッソ)水俣工場付属病院の細川一(はじめ)院長と、医師を乗せた紺のダットサンが水俣保健所に滑り込んだ。 「車中、細川院長は無言でした。玄関で、保健所の伊藤蓮雄所長が到着を待っていました」。当時、付属病院の運転手だった水俣市の坂本良行さん(77)は証言する。細川院長は伊藤所長に、市内の漁村で相次いでいる奇病の発生を報告した。後に、この日が「水俣病の公式確認日」とされる。 一週間後の5月8日。西日本新聞社会面に水俣病公式確認を初めて伝える特ダネ記事が載った。 「水俣市に3年前から小児マヒに似た伝染性の奇病が発生、すでに数名の死亡者や、発狂者を出していることがわかり、水俣保健所からの連絡で、7日熊本県衛生部から技師が急行した(一部省略)」「手足がしびれ、不眠になり食欲がなく、言語が不明瞭(ふめいりよう)で、視力は遠いものは見えるが近いものは見えないという変わった症状」…。 「伝染病」「奇病」として、水俣病報道が始まった。 公式確認前日。坂本さんは付属病院に入院していた水俣病患者を、「避(ひ)病院」と呼ばれた市の伝染病隔離病棟に搬送した。 避病院を出るとき、噴霧器で「髪から滴がしたたり落ちるほどたっぷり」と消毒液をかけられた。その日、患者と家族を乗せて、付属病院と避病院を3、4回往復した。そのたびに、車中も消毒された。「独特の刺激臭が何日も消えなかった。50年たっても、あの臭(にお)いは忘れない」 報道の始まりは静かだったが、差別の方は一気に過熱した。「手渡しでなくかごに入れて釣り銭を渡した」「鼻をつまんで家の前を通り過ぎた」 白い防護服姿の市職員らが患者発生宅を消毒に回ったことで、伝染病への差別観が口コミで広まったようだ。本紙の「伝染性の奇病」報道が直接、差別を招いたわけではなさそうだが、だからといって責任を免れるものではない。 「西日本新聞の責任は、伝染病という報道をしたことではなく、その打ち消し記事を大きく掲載しなかったことではないか」。患者支援活動を続ける水俣病センター相思社の弘津敏男理事(55)は指摘する。 公式確認から半年後。熊本大の研究班は「チッソからの排水が関係した中毒症」という可能性を示唆した。西日本新聞は、研究班の会合結果を「中毒性のものであり伝染の恐れはいくぶん薄らいだ」(56年11月7日、熊本版)「(原因が)伝染病のものかいまのところ不明との発言があった」(同月26日、同版)と報道。歯切れが悪い。57年1月、厚生省(当時)の対策会議後の「水俣の奇病は“毒物説” 厚生省対策会議で有力」の記事は、「原因が細菌やビールス(ウイルス)ではないということはほぼ確実だ」と末尾に書くにとどまった。 「第一報の印象が強いほど、そのミスリードを打ち消すには、それ以上に大きく報じる努力が必要ではないか」。弘津理事の見方は、今日にも通じる新聞の課題である。 本紙を含め、水俣病を「奇病」と表現する新聞記事は、少なくとも58年夏ごろまで続いた。 ■水俣病と報道<4>過熱 使命感だけだったか―連載 「有明海に『第三水俣病』」?。1973年5月22日、全国紙の一面に衝撃的な見出しが躍った。 中略 「あの騒動は何だったのか」。渋田記者は時折考える。社会に警鐘を鳴らす使命感?。だがそれ以上に当時の記者たちを包んでいたのは「書けるものはどんどん書けという異様な興奮状態だった」という。「抜かれ記事は否定するか、新しいネタで抜き返す。結局、私の記事は火消しを望む側に書かされたわけだ」 「研究者と報道。両者に罪がある」。原田教授は、マスコミだけに責任を負わせる言い方はしなかった。しかし次の言葉は、ストレートな批判以上に突き刺さった。 「気の毒だったのは患者さん。肩身の狭い思いをさせ、振り回した。そして、本当にいたはずの被害者を闇に葬ることになってしまった」 =2006/10/15付 西日本新聞朝刊= 恐ろしい“あの時は仕方なかった”という言葉 水俣の悲劇が役立っていないという二重の被害。真摯な反省がないところに深い教訓など生まれようがない。そういう行政の姿は、その後の薬害エイズ、肝炎問題など多い。そういう構造は、誰が本当の水俣病事件の反省をしたのか問われなければならないと思う。それは、企業も同じだと思う。チッソ性善説。チッソだけでなく私たちの社会、行政、マスコミの根っこにあると思う。その、共通の言葉が“あの時は仕方なかった”にあると思う。高度成長期に言われていたのに“日本は、政治は三流だが、経済は一流”とずっと言われてきた。どうも政治も三流だが経済も三流だったのではないかという気が今はする。 行政にしろ企業にしろいろいろなところで、水俣病の教訓は生かされていない気がする。その結果として、政府解決策[資料として『法学セミナー』を示す]が中途半端な解決であった。ここでもきちんと整理されていない。だから、問題として教訓としてきちんと残らない気がする。 中略 言葉の持つ恐ろしさ、活字の持つ重みをひしひしと感じる時間でした。 “あの時は仕方なかった”この言葉の持つ重み。普段何も考えずに使っているのではないだろうか。水俣病事件は、チッソ、国だけが起こした問題ではなく、個人一人一人の問題であることがはっきりしたような気がした。 東ソー株式会社 第2節 今後の問題点 環境三四郎Research Center 第一回報告書 水俣病問題 −保存版− 4−2)第3水俣病事件 十年後の水俣病の実態、現状を明らかにしようとして発足した熊大二次研究班は、1971年8月21 日から、御所浦島、水俣市の住民の一斉検診を行った。そして、対照として天草郡有明町の住民に同じ方法による住民検診が行われた。同じスタッフで、同じ方法と基準でピックアップしたところ、対照地区であったはずの有明地区において、10人(1.1%)が水俣病およびその疑いありとなった。 研究会内部の報告会では、有明の汚染は過去のもので緊急性は低いと考えられることから、公表はせず慎重に継続調査をすすめる方針とされた。しかし、1973年5月22日、『朝日新聞』が一面トップで「有明海に第三水俣病」「天草・有明町で八人の患者」などと派手にスクープしたため、全国に水銀パニックが拡がった。熊本県の魚介類は関西で一時取引き停止をくい、魚価は下がり、売れなくなった。
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