少し前のことですが、安来市の加納美術館で長岡空郷氏の講演会及びギャラリートークがありました。 長岡空郷さんは、出雲焼楽山窯十二代であります 講演の内容は、楽山窯9代空味さんの作品と業績についてです。 空味さんは明治7年の生まれですので茶道文化が衰退していた時期であり、御用窯であった楽山窯も苦しい時代であったようです。 また、父、祖父と続けて亡くし、厳しいなか20歳くらいのときに楽山窯の当主になります。その時期は、細工ものを多く作っていたそうです。 その後、不昧公没後100年(大正6年 43歳)のときに空味さんの作品の転換期が訪れます。多くの茶碗を製作し、また全国的に評価をされ、楽山窯が茶陶として茶人の間で知られていきます。 その時期の作品は、三島、絵付けなど、様々な作品を多く作られました。楽山の絵付けの多くは、この時期に焼かれたもののようです。 茶陶空味にとって、最大の不幸は一番大事な60歳代のころが長い戦争の時代であったことです。せっかく、茶陶として安定したところで、戦争に突入していきます。 その間は、茶碗を作ることが出来ず、日用品を作り続けることになります。 戦後、お茶文化が復興したころ、再び、茶碗を作り始めますが、そのは作品がガラリと変わり、侘びた茶碗になっていきます。 伊羅保も轆轤目がしっかりとあり、それがその時代の特徴になります。 この時代は、茶陶というよりも、茶人として、茶碗を作っていたようです。 空味さんは、生涯に作風を3度変えてしまうという、珍しい茶陶だったのです。 そのため、後代の私達は、楽山窯の作品の多彩さに、混乱することも多いのです。 長岡空郷さんの講演は、楽しく、時間もあっと言う間に過ぎました。 楽山窯が茶陶として、茶碗を作り続けることが出来たのも、100年前に空味さんが基礎を作っていたということが大きいことが分かりました。 それほど、不昧公没後100年というのは、大事業であったのです。 4年後は、不昧公没後200年になります。 そのときは、出雲焼楽山窯はどのような変革があるのか、期待したいところです。 お茶を嗜むものとして、これから先100年のお茶を考えてみるのも楽しいですね。 講演が終わりましたら、美術館のお茶室でお茶をいただきました。 お茶碗は、長岡空郷さんの作品です。 良いお茶碗でした。 この会場では、この度の千家さんのご婚礼のための記念のためのお茶碗も展示されていました。 出雲大社の注連縄の下に宝尽くしという目出度いお茶碗でした。 ※現在、多忙のため、コメント欄を閉じさせていただきます。 |
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