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みなさんの脳裏には、いつ頃からの記憶が刻まれているだろうか?たいていは2、3歳の頃からのようだが、中には母親の胎内にいた時の記憶を持つ人もいるというから驚く。
私の記憶は3歳のはじめ、幼稚園の廊下を泣きながら走り回っているところから始まっている。
4月1日に3歳になったばかりの私は、祖母の家からほど近い幼稚園に通い始めた。5月にはお姉ちゃんになることもあり、当面日中だけ祖母宅で過ごすことになったのだ。
ところが、同学年では最も生まれの遅い私は、まだ人見知りが抜けず、泣いてばかりの毎日だった。
朝登園するとまず、1列に並んで「あ〜ん」と口を開けたところに、肝油が1粒ずつ配られる。そこまではどうにか我慢するのだが、肝油を食べ終わるやいなや、涙があふれてきたように思う。
とうとうある時、「そんなに泣きたいのなら、廊下へ行って泣いてらっしやい!!」と首根っこをつままれ、猫のようにポイッと放り出された。
壁の上半分が白く、下半分が青い、薄暗い廊下。ちょうど境目あたりに非常ベルがボーっと赤く灯っていた。そこを、こっちの端からあっちの端まで、ワーワー泣きわめきながらひたすら往復している光景が、私の記憶の始まりなのだ。なんと情けない記憶の幕開けだろう。
結局事態は改善しないまま、ひと月も経たないうちに私は退園することとなり、その後は悠々自適な日々を謳歌した。
「もう明日から行かなくていいの?やった〜!!」と喜ぶ私の顔があまりにうれしそうで、母は「そこまで追いつめていたのかしら…」と胸を痛めたという。
それから1年後、4歳になった私は、自宅から少し離れた別の幼稚園へ、バスで通うことになった。近所にはいじめっ子が住んでいて、母は最寄りの同じ保育所に通わせたくなかったのだ。
ベテラン揃いの先生方が温かく迎えて下さった上、私も少しは大人(?)になっていたこともあり、新しい園にはスムーズに溶け込むことができた。
母の話では、最も早生まれで、体も小さかったグズな私を、担任のМ先生は常に自分のそばに置いて見守って下さっていたという。
М先生は、ピアノがとても上手だった。教室でもよく「トルコ行進曲」や「エリーゼのために」といった名曲を披露して下さり、私達はその迫力ある音に圧倒されながらも、夢中で聞き入ったものだ。
М先生はやがて結婚されてT先生になられ、5歳になった年長組でも私を受け持って下さり、小学校へと送り出して下さった。
難局を乗り越え、無事卒園できたことに両親ともども恩義を感じていた私は、成人してからも年賀状をやりとりしていた。
ある時、先生ではない筆跡の文字で、喪中はがきが届いた。それはT先生の訃報を知らせるものだった。49歳の若さだった。
病気などとはひとことも言わず、いつも明るい励ましの言葉を贈って下さっていたT先生。知っていたなら、きっとお見舞いに行ったのに…。
あまりのショックを受けて以来、先生のご仏前にはまだお参りしていないままだ。いつの日か必ずや果たしたいと思っている。その時は、きちんとお礼を申し上げてこなくては。
「先生、たよりない私をいつもそばで支えて続けて下さり、本当にありがとうございました。先生のおかげで、私の不名誉な記憶は、思い出にあふれた、温かくなつかしい記憶へと置きかわりました。このご恩は生涯忘れません…」
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とてもステキなエピソードですね☆
はじめまして。アップした日記からの類似記事で参りました。僕も幼少の記憶について日記を書いたので、良かったらお立ち寄りください☆
ぜひトラックバックさせてくださいね^^
2008/3/7(金) 午前 1:41
光栄です。
子育ては試行錯誤・暗中模索の繰り返しですよね。
お互い、これからも子供とともに成長していきませう!!
2008/3/12(水) 午前 10:09 [ まおちゃり ]