散策思索語録質種

絵本もどきの落書きと、エッセイもどきのひとりごと・・・

インスピレイション

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(斎場の係員が参列者に礼拝を促すと読経が始まる) 以前、歳を取ると時間の経過を速く感じることについて書いたことがある。イメージとしては、心の中に一定の長さの物差しがあって、自分が経験した時間をその物差しに割り振ったときの大きさが時間感覚なんだと思っていた。つまり、経験の少ない子供は定規に割り振られる時間が相対的に大きくなるから時間感覚が遅く、大人になるにつれて定規の中がだんだん手狭になって時間が速く感じられるようになる。 と、勝手に考えていたが、あるとき、時間の感覚は代謝効率に関係するという生理学の話を聞いて、オリジナルのイメージが見事に崩壊した。すなわち、子供の頃は代謝が活発なので時間が遅く感じられ、歳を取るほど代謝が悪くなって時間が速く感じられるようになるというのだ。だから、同じ時間でも人によって代謝が異なるから、それぞれ全く違う時間経過を感じているということになるわけだ。 それは、つまり人によって時間軸が違うということであり、絶対的な同一の時空間はないということだ。例えば、新幹線と山手線が平行して走っているところで、両者がたまたま近い速度で走っていればそれぞれの車両に乗っている人同士で直接のコミュニケーションがとれるだろう。が、新幹線がスピードを上げればもはや全く別の時空となって離れてしまう。人付き合いというのもこれに似たようなもの。人はそれぞれ全く別の時空を生きているのだ。 (我が国は信教の自由があるので、親戚でも異なる宗教宗派の場合が多い。聞き慣れないお経の中で念仏が流れると、突然、木魚がバックビートを叩きだした!私の家も念仏の浄土真宗だが、普通のダウンビートで1拍目にアクセントがくる。確か、時宗のお寺だと聞いた。時宗の開祖は踊り念仏で有名な一遍上人である。なるほど、バックビートといえばジャズのリズム。リズムに乗りながら念仏を唱えて陶酔の境に入るというわけか) 時空が人によって異なるということは、それが絶対ではないということだ。アインシュタインの相対性理論は最終的にはエネルギーと物質は同一の存在であり、時間と空間は相対的であることを示したものだけれど、理解が難しいのは、その結論を導く過程が客観的絶対ではなく主観的相対を基準にしているからだ。つまり、科学である限りは常に客観性が重視されなければならないのに、認識という主観の下で理論が展開される。 認識の速さとは光の速さだ。光の速さを超えてしまうと認識できなくなる。認識できないものは存在しないのだから考える必要がない。だから、光よりも速いものはこの世には存在せず、絶対的なものは光速のみという前提で理論を展開しなければならない。ところが、通常の感覚では時間や空間の方が絶対的な存在で、光は単なる現象という捉え方をしてしまう。 もし、時間や空間が絶対的なものであるなら、人が死んでもいすれ復活すると思うだろうし、今も霊魂が生きていると考えるだろう。だが、時間と空間は相対的なのだ。出発したときにキスをした恋人が、宇宙旅行から戻ってくると老人になっていたという浦島太郎のようなことが現実にあり得る。それは時空がそれぞれ別個に動いている相対的なものだからだ。人それぞれで時間軸が異なっているのである。 (焼香が始まる。喪主に一礼して、祭壇に手を合わせる。浄土真宗ではナマンダブだが、時宗はリズミカルに「なぁもぉあぁみぃだぁぶぅ」という感じ。念仏は故人への弔いというより、悲嘆にくれる本人が仏に救いを求める他力本願の言葉というものだ) 子供の頃、死んだらどうなってしまうのか、死んだあと人はどこに行くのかと考えると、恐くて眠れなかった。天国に行ければ良いけれど、誰しも後ろめたいことの一つや二つはある。多少は地獄で罪を償わなければならないのではないか。その地獄は罪の深さによって、等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻という八つの階層があり、一番軽い等活地獄でさえ抜け出すのに1兆6653億年かかるとされている。宇宙の誕生から140億年程度というから、とんでもない長さの時間である。 昔の人が地獄の恐ろしさを強調するために口から出まかせで並べた数字と言ってしまえばそれまでだが、あながち的外れでもなさそうなのだ。というのは、代謝が悪くなれば時間が速く過ぎ去っていくわけだから、最も代謝の悪い状態、つまりゼロになれば時間は相対的に無限となる。代謝がゼロとは死を意味する。つまり、死者は今も無限の時空を生きている。 時空は人それぞれ異なるもの。だから、私の時空の中に故人は存在していない。しかし、故人は息を引き取ったあの瞬間を無限の時空としてまだ生きている。悲しむことは何もない。私が山手線に乗っていて、故人は新幹線でずっと先に行ってしまったようなものだから。いずれまた同じ時間の速さの中で逢って話すこともあると信じよう。 (読経が終わり、棺の遺体に最後の別れを言うと、すすり泣く声が響き渡って葬儀のクライマックスとなる。が、焼場で骨になっても私の目に涙は浮かんで来なかった。なぜなら、これはかつて同じ時空にいたときに故人だった「もの」でしかない。もう故人はいないけれど、故人は故人の時空で永遠の時を生きているんだもの。間違いなく) ナマンダブと自分のために呟く。

(2010/10/23)

光陰:月日。歳月。移り行く時。
 http://blogs.yahoo.co.jp/omoshirogari/20114976.html?type=folderlist

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経験による定規、代謝による時間軸、熱中している時の感覚、どれも「なるほど、そうなのだ」と読ませていただきました。面白狩りさんのオリジナル論も支持させて下さい。

死者を弔うとされている儀式については、故人のためというより、残された人のためと、わたしもそのように捉えています。
時空間を越えて生き続けるのは、その人が確かに存在したという事実だと思うのです。

2010/10/23(土) 午後 1:21 [ You ]

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Youさん

理屈っぽい独りよがりな独り言にコメント有難うございます。
生命を授かり自己認識が生じたとき、その個性は永遠の存在となるのかもしれません。そう考えれば、悲しむことはなにもありませんでした。
目をつむれば面影が浮かぶし、教えられたことはしかっりと自分の一部になって生きている。個々の時空を越えて確かに存在した事実が心の中に残っています。
私のオリジナルはアイディアとしては面白いのですが、理論としてはいささかムリがありそうです。お伽話のネタにはなるかもしれません(笑)

2010/10/23(土) 午後 3:41 面白狩り

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今朝、お葬式に出席し、故人その家族に悔やみを言い、人の世の儚さと出会いの縁。
そして帰宅すれば、速達で今日の私の誕生日のお祝いのカードが送られて来た。
亡くなって生き、生きて亡くなり、自分の年が父の亡くなった年をとっくに過ぎ、子供が亡き夫の姿に似てくる。
いつもおもいます、見上げる星の中に確かに私を見てくれている星がある。
もう数えきれない・・・ほど。

面白狩りさんのお話。たのしいです。ありがとうポチ☆〜

2010/10/23(土) 午後 4:59 おっちょこちょいの パンダ

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おっちょこちょいのパンダさん

今日がお誕生日なのですね。おめでとうございます。
同じ日に法事とは戸惑ってしまいますが、つまりは時間が連続している証拠。なればこそ生きているという実感があると思います。
時空の流れや宇宙の果ての星々・・・私らのような些細な存在にはわからないことだらけの世界ですが、でも、生きてそれらを認識しているという奇跡を感じますね。
ポチ☆っとありがとうございます♪

2010/10/23(土) 午後 6:07 面白狩り

代謝ですか…
物質としての人間活動の濃密さというか、
それが先食いでなく今その瞬間を濃く過ごせる、と理解すると、
とても魅力的に聞こえます。

生きる=活きる。
深く考えることしきりでした。
興味深い記事、ありがとうございました。

2010/10/23(土) 午後 11:12 [ kirixh ]

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kirixhさん

とりとめもない独り言に興味を持っていただきありがとうございます。
生理的には代謝が良いことは若くて健康なこととされます。ただし、人間活動の評価に絡めて考えると、必ずしもそれが良い結果を生み出す要件になるのかどうか、まだよくわかりません。(この場合、評価そのものをどう捉えるかにもよりますが)
夢中になって何かをしていると、あっという間に時間が過ぎたような感じがします。しかし、夢中という状態は生理的にはどういうことなのか?しかも、必ずしも結果が出せるとは限らない。
逆に、セルフコントロールしつつ要領よく行動した場合の方が結果は出るだろうし、時間的にもゆとりを感じるだろうと思われる。
そんな風に考えると、生理的代謝と仕事の効率とは必ずしも一致しないのかとも思ってしまいます。ただ、結果の如何を問わず夢中でいる時の方が充実して楽しいのは確かだと思います。多分、結果が良いことで感じる達成感や満足感とは異なる喜びなのかもしれません。
まあ、専門家ではないのでわからないのが当然なのですが、こんなことをよく考えます。(笑)

2010/10/24(日) 午前 10:54 面白狩り

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述懐はある事象にことよせて様々な想念がわき上がる結果ですから、故人の面白狩りさんの中での存在感の大きさが伺われます。どういう形であれ死はは人生の一大事。それに向き合って平静でいられるはずもなく、つぎつぎとよしなしごとが現れてくるのでしょう。むしろ涙の一つ、泣き声の一つもあげるほうが呪縛から解き放たれる一番の方法かもしれません。

2010/10/25(月) 午前 9:36 ゆげる

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おはようございます。

まずは、おばさまの安らかなる眠りをお祈りしたいと思います。
違う時空間で、生き続けている故人。
そう思えば、いつかどこかでまた、接点があるかもしれない。
悲しんでばかりいても何も生まれず、何も起きませんものね。

心の中に、知識として、知恵として、思い出として生き続ける。
たとえ、個体がなくても。。。
絶対的な生命と言うべきか?魂と言うべきか?

私もいつか個体でなくなる時、誰かにそんな風に感じてもらえたら幸せですね〜
合掌。

2010/10/25(月) 午前 11:14 CANDY

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ゆげるさん

昔から涙腺はゆるい方でしたので、何かというと涙を抑えられない性質なんですが、どういうわけか、最近は人の死に立ち会っても感情がこみあげることがなく、いつも冷めている自分がいるんです。
悲しくないというわけでは決してないのです。うまく言えませんが、死という永遠の眠りが故人にとって本当に不幸なことなのかという疑問と、感情のうねりに身を委ねても得るものは何もないという思いがするんです。←全くうまく表現できていません(汗)
本当に悲しくて悔しくて怒りに震えてしまうようなこととは、もっと別なところにあるような・・・例えば、年端もいかない子供が理不尽な餓えに苦しんで命を落とすとか、世の中の幸福を何も知らずに戦場で銃弾に倒れるとか、悲しいことは死よりも生の中にこそあるというような・・・そんな気がする・・・
すいません。この辺がまだこの未熟者には整理がついておらず、もっとよく考えなければいけないなあと、いつも思うんです。
すいません。本当にうまく言えていません。(慙愧)

2010/10/25(月) 午後 7:05 面白狩り

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CANDYさん

哀悼の言葉をありがとうございます。
ただ、上のゆげるさんへのコメントでも述べたように、葬儀では感情の起伏はほとんどなく、冷めている自分を感じていました。
通夜の後、納棺された大叔母の顔はきれいに整えられて、手で触れると冷凍の冷たさが伝わってきました。
みんな口々にきれいだ生きているようだと述べていましたが、私はただの蝋人形のように見えてしまった。(この感覚は薄情と責められるべきものなのかもしれませんが)これは違う、これは全く違う「もの」だという感じがしてしまった。
脳梗塞で倒れ、意識を失っていても、肌に触れると温もりがあり、弱弱しくても息をしていたあの大叔母は、確かに生きていた。それとはまるで違う物体に感じてしまいました。
すでに旅立った後という感覚の中で、人の死について考えていたんです。
まだ、よく整理できていませんが、永遠の時空というものがあって、そこに生きているという感じがするんです。間違いなく。
でも、コメントどうもありがとう。

2010/10/25(月) 午後 7:24 面白狩り


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