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経験による定規、代謝による時間軸、熱中している時の感覚、どれも「なるほど、そうなのだ」と読ませていただきました。面白狩りさんのオリジナル論も支持させて下さい。 死者を弔うとされている儀式については、故人のためというより、残された人のためと、わたしもそのように捉えています。 時空間を越えて生き続けるのは、その人が確かに存在したという事実だと思うのです。
2010/10/23(土) 午後 1:21 [ You ]
Youさん 理屈っぽい独りよがりな独り言にコメント有難うございます。 生命を授かり自己認識が生じたとき、その個性は永遠の存在となるのかもしれません。そう考えれば、悲しむことはなにもありませんでした。 目をつむれば面影が浮かぶし、教えられたことはしかっりと自分の一部になって生きている。個々の時空を越えて確かに存在した事実が心の中に残っています。 私のオリジナルはアイディアとしては面白いのですが、理論としてはいささかムリがありそうです。お伽話のネタにはなるかもしれません(笑)
2010/10/23(土) 午後 3:41
今朝、お葬式に出席し、故人その家族に悔やみを言い、人の世の儚さと出会いの縁。 そして帰宅すれば、速達で今日の私の誕生日のお祝いのカードが送られて来た。 亡くなって生き、生きて亡くなり、自分の年が父の亡くなった年をとっくに過ぎ、子供が亡き夫の姿に似てくる。 いつもおもいます、見上げる星の中に確かに私を見てくれている星がある。 もう数えきれない・・・ほど。 面白狩りさんのお話。たのしいです。ありがとうポチ☆〜
2010/10/23(土) 午後 4:59
おっちょこちょいのパンダさん 今日がお誕生日なのですね。おめでとうございます。 同じ日に法事とは戸惑ってしまいますが、つまりは時間が連続している証拠。なればこそ生きているという実感があると思います。 時空の流れや宇宙の果ての星々・・・私らのような些細な存在にはわからないことだらけの世界ですが、でも、生きてそれらを認識しているという奇跡を感じますね。 ポチ☆っとありがとうございます♪
2010/10/23(土) 午後 6:07
代謝ですか… 物質としての人間活動の濃密さというか、 それが先食いでなく今その瞬間を濃く過ごせる、と理解すると、 とても魅力的に聞こえます。 生きる=活きる。 深く考えることしきりでした。 興味深い記事、ありがとうございました。
2010/10/23(土) 午後 11:12 [ kirixh ]
kirixhさん とりとめもない独り言に興味を持っていただきありがとうございます。 生理的には代謝が良いことは若くて健康なこととされます。ただし、人間活動の評価に絡めて考えると、必ずしもそれが良い結果を生み出す要件になるのかどうか、まだよくわかりません。(この場合、評価そのものをどう捉えるかにもよりますが) 夢中になって何かをしていると、あっという間に時間が過ぎたような感じがします。しかし、夢中という状態は生理的にはどういうことなのか?しかも、必ずしも結果が出せるとは限らない。 逆に、セルフコントロールしつつ要領よく行動した場合の方が結果は出るだろうし、時間的にもゆとりを感じるだろうと思われる。 そんな風に考えると、生理的代謝と仕事の効率とは必ずしも一致しないのかとも思ってしまいます。ただ、結果の如何を問わず夢中でいる時の方が充実して楽しいのは確かだと思います。多分、結果が良いことで感じる達成感や満足感とは異なる喜びなのかもしれません。 まあ、専門家ではないのでわからないのが当然なのですが、こんなことをよく考えます。(笑)
2010/10/24(日) 午前 10:54
述懐はある事象にことよせて様々な想念がわき上がる結果ですから、故人の面白狩りさんの中での存在感の大きさが伺われます。どういう形であれ死はは人生の一大事。それに向き合って平静でいられるはずもなく、つぎつぎとよしなしごとが現れてくるのでしょう。むしろ涙の一つ、泣き声の一つもあげるほうが呪縛から解き放たれる一番の方法かもしれません。
2010/10/25(月) 午前 9:36
おはようございます。 まずは、おばさまの安らかなる眠りをお祈りしたいと思います。 違う時空間で、生き続けている故人。 そう思えば、いつかどこかでまた、接点があるかもしれない。 悲しんでばかりいても何も生まれず、何も起きませんものね。 心の中に、知識として、知恵として、思い出として生き続ける。 たとえ、個体がなくても。。。 絶対的な生命と言うべきか?魂と言うべきか? 私もいつか個体でなくなる時、誰かにそんな風に感じてもらえたら幸せですね〜 合掌。
2010/10/25(月) 午前 11:14
ゆげるさん 昔から涙腺はゆるい方でしたので、何かというと涙を抑えられない性質なんですが、どういうわけか、最近は人の死に立ち会っても感情がこみあげることがなく、いつも冷めている自分がいるんです。 悲しくないというわけでは決してないのです。うまく言えませんが、死という永遠の眠りが故人にとって本当に不幸なことなのかという疑問と、感情のうねりに身を委ねても得るものは何もないという思いがするんです。←全くうまく表現できていません(汗) 本当に悲しくて悔しくて怒りに震えてしまうようなこととは、もっと別なところにあるような・・・例えば、年端もいかない子供が理不尽な餓えに苦しんで命を落とすとか、世の中の幸福を何も知らずに戦場で銃弾に倒れるとか、悲しいことは死よりも生の中にこそあるというような・・・そんな気がする・・・ すいません。この辺がまだこの未熟者には整理がついておらず、もっとよく考えなければいけないなあと、いつも思うんです。 すいません。本当にうまく言えていません。(慙愧)
2010/10/25(月) 午後 7:05
CANDYさん 哀悼の言葉をありがとうございます。 ただ、上のゆげるさんへのコメントでも述べたように、葬儀では感情の起伏はほとんどなく、冷めている自分を感じていました。 通夜の後、納棺された大叔母の顔はきれいに整えられて、手で触れると冷凍の冷たさが伝わってきました。 みんな口々にきれいだ生きているようだと述べていましたが、私はただの蝋人形のように見えてしまった。(この感覚は薄情と責められるべきものなのかもしれませんが)これは違う、これは全く違う「もの」だという感じがしてしまった。 脳梗塞で倒れ、意識を失っていても、肌に触れると温もりがあり、弱弱しくても息をしていたあの大叔母は、確かに生きていた。それとはまるで違う物体に感じてしまいました。 すでに旅立った後という感覚の中で、人の死について考えていたんです。 まだ、よく整理できていませんが、永遠の時空というものがあって、そこに生きているという感じがするんです。間違いなく。 でも、コメントどうもありがとう。
2010/10/25(月) 午後 7:24
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経験による定規、代謝による時間軸、熱中している時の感覚、どれも「なるほど、そうなのだ」と読ませていただきました。面白狩りさんのオリジナル論も支持させて下さい。
死者を弔うとされている儀式については、故人のためというより、残された人のためと、わたしもそのように捉えています。
時空間を越えて生き続けるのは、その人が確かに存在したという事実だと思うのです。
2010/10/23(土) 午後 1:21 [ You ]
Youさん
理屈っぽい独りよがりな独り言にコメント有難うございます。
生命を授かり自己認識が生じたとき、その個性は永遠の存在となるのかもしれません。そう考えれば、悲しむことはなにもありませんでした。
目をつむれば面影が浮かぶし、教えられたことはしかっりと自分の一部になって生きている。個々の時空を越えて確かに存在した事実が心の中に残っています。
私のオリジナルはアイディアとしては面白いのですが、理論としてはいささかムリがありそうです。お伽話のネタにはなるかもしれません(笑)
2010/10/23(土) 午後 3:41
今朝、お葬式に出席し、故人その家族に悔やみを言い、人の世の儚さと出会いの縁。
そして帰宅すれば、速達で今日の私の誕生日のお祝いのカードが送られて来た。
亡くなって生き、生きて亡くなり、自分の年が父の亡くなった年をとっくに過ぎ、子供が亡き夫の姿に似てくる。
いつもおもいます、見上げる星の中に確かに私を見てくれている星がある。
もう数えきれない・・・ほど。
面白狩りさんのお話。たのしいです。ありがとうポチ☆〜
2010/10/23(土) 午後 4:59
おっちょこちょいのパンダさん
今日がお誕生日なのですね。おめでとうございます。
同じ日に法事とは戸惑ってしまいますが、つまりは時間が連続している証拠。なればこそ生きているという実感があると思います。
時空の流れや宇宙の果ての星々・・・私らのような些細な存在にはわからないことだらけの世界ですが、でも、生きてそれらを認識しているという奇跡を感じますね。
ポチ☆っとありがとうございます♪
2010/10/23(土) 午後 6:07
代謝ですか…
物質としての人間活動の濃密さというか、
それが先食いでなく今その瞬間を濃く過ごせる、と理解すると、
とても魅力的に聞こえます。
生きる=活きる。
深く考えることしきりでした。
興味深い記事、ありがとうございました。
2010/10/23(土) 午後 11:12 [ kirixh ]
kirixhさん
とりとめもない独り言に興味を持っていただきありがとうございます。
生理的には代謝が良いことは若くて健康なこととされます。ただし、人間活動の評価に絡めて考えると、必ずしもそれが良い結果を生み出す要件になるのかどうか、まだよくわかりません。(この場合、評価そのものをどう捉えるかにもよりますが)
夢中になって何かをしていると、あっという間に時間が過ぎたような感じがします。しかし、夢中という状態は生理的にはどういうことなのか?しかも、必ずしも結果が出せるとは限らない。
逆に、セルフコントロールしつつ要領よく行動した場合の方が結果は出るだろうし、時間的にもゆとりを感じるだろうと思われる。
そんな風に考えると、生理的代謝と仕事の効率とは必ずしも一致しないのかとも思ってしまいます。ただ、結果の如何を問わず夢中でいる時の方が充実して楽しいのは確かだと思います。多分、結果が良いことで感じる達成感や満足感とは異なる喜びなのかもしれません。
まあ、専門家ではないのでわからないのが当然なのですが、こんなことをよく考えます。(笑)
2010/10/24(日) 午前 10:54
述懐はある事象にことよせて様々な想念がわき上がる結果ですから、故人の面白狩りさんの中での存在感の大きさが伺われます。どういう形であれ死はは人生の一大事。それに向き合って平静でいられるはずもなく、つぎつぎとよしなしごとが現れてくるのでしょう。むしろ涙の一つ、泣き声の一つもあげるほうが呪縛から解き放たれる一番の方法かもしれません。
2010/10/25(月) 午前 9:36
おはようございます。
まずは、おばさまの安らかなる眠りをお祈りしたいと思います。
違う時空間で、生き続けている故人。
そう思えば、いつかどこかでまた、接点があるかもしれない。
悲しんでばかりいても何も生まれず、何も起きませんものね。
心の中に、知識として、知恵として、思い出として生き続ける。
たとえ、個体がなくても。。。
絶対的な生命と言うべきか?魂と言うべきか?
私もいつか個体でなくなる時、誰かにそんな風に感じてもらえたら幸せですね〜
合掌。
2010/10/25(月) 午前 11:14
ゆげるさん
昔から涙腺はゆるい方でしたので、何かというと涙を抑えられない性質なんですが、どういうわけか、最近は人の死に立ち会っても感情がこみあげることがなく、いつも冷めている自分がいるんです。
悲しくないというわけでは決してないのです。うまく言えませんが、死という永遠の眠りが故人にとって本当に不幸なことなのかという疑問と、感情のうねりに身を委ねても得るものは何もないという思いがするんです。←全くうまく表現できていません(汗)
本当に悲しくて悔しくて怒りに震えてしまうようなこととは、もっと別なところにあるような・・・例えば、年端もいかない子供が理不尽な餓えに苦しんで命を落とすとか、世の中の幸福を何も知らずに戦場で銃弾に倒れるとか、悲しいことは死よりも生の中にこそあるというような・・・そんな気がする・・・
すいません。この辺がまだこの未熟者には整理がついておらず、もっとよく考えなければいけないなあと、いつも思うんです。
すいません。本当にうまく言えていません。(慙愧)
2010/10/25(月) 午後 7:05
CANDYさん
哀悼の言葉をありがとうございます。
ただ、上のゆげるさんへのコメントでも述べたように、葬儀では感情の起伏はほとんどなく、冷めている自分を感じていました。
通夜の後、納棺された大叔母の顔はきれいに整えられて、手で触れると冷凍の冷たさが伝わってきました。
みんな口々にきれいだ生きているようだと述べていましたが、私はただの蝋人形のように見えてしまった。(この感覚は薄情と責められるべきものなのかもしれませんが)これは違う、これは全く違う「もの」だという感じがしてしまった。
脳梗塞で倒れ、意識を失っていても、肌に触れると温もりがあり、弱弱しくても息をしていたあの大叔母は、確かに生きていた。それとはまるで違う物体に感じてしまいました。
すでに旅立った後という感覚の中で、人の死について考えていたんです。
まだ、よく整理できていませんが、永遠の時空というものがあって、そこに生きているという感じがするんです。間違いなく。
でも、コメントどうもありがとう。
2010/10/25(月) 午後 7:24