| 「なんだ、全然釣れぬではないか」 侍は甚六に向かって文句を言った。 「旦那、だから、今日は潮目が良くねえって言ったんでやすよ」 「ふん、この土地随一の釣り宿と聞いたが、それほどではないのう」 嫌味を込めて侍は船を戻せと言う。 甚六は少し困った顔をして、女房のおみねに目くばせすると、おみねは勢いよく海に飛 び込み、暫くして大きな法螺貝を手に戻ってきた。 「お客様に失望されては、釣り宿甚六の名がすたりやす」 そう言うと、甚六は法螺貝で見事な造りを侍に出した。 「うむ、これは美味じゃ。それにこの貝殻はいくさ笛ではないか。うむ、これは良い。 この法螺貝三百個、城に持参せよ。褒美はたんとはずむぞ」 「旦那、それぁムリってもんでさ。これを取り過ぎると大きな鬼のヒトデがはびこっ て、海を台無しにしてしまうんでさぁ」 「ええい、黙れ。言うことを聞かぬと、そなたの持ち船はすべて没収じゃ。良いか。明 日までに用意するんじゃ。わかったな」 侍はそう言い捨てて去っていった。 甚六がため息をついて戻ってくると、 「仕方がねえ。釣り宿甚六もこれまでよ」 そう言って酒を煽り、さっさと布団にくるまって寝てしまった。 翌朝、甚六は宿を開ける気にもなれず、酒を飲んでごろごろと家の中で過ごしていた。 おみねはそっと家を抜け出して浜に向かった。 傾きかけた日が波間に光の帯を落としている。 おみねは手を合わせて海に祈りを奉げ、一人で貝を採りに船を出した。 宵闇が辺りに満ちると、おもての戸を叩く音がする。 その音に目を覚ました甚六はおみねを呼ぶが姿はない。 「へいへい、お待ちを」 そう言って、戸を開けると、そこには昨日の侍が家来を連れて立っていた。 「これ甚六、貝はどうした」 甚六が慌てて閉めようとするところを、家来が強引に引き止め、甚六の体を表に引きず り出した。 「法螺貝三百、殿が所望じゃ。すぐに用意いたせ」 甚六は侍たちに連れられて浜に来ると、ちょうどそこにおみねが沖から戻ってきた。 なんと船の上には法螺貝が山と積まれている。甚六は顔色を変えた。 「おみね、お前なんてことを」 侍は家来たちに貝を箱に詰め替えるように指示をした。ところが、 「これでは百もないではないか」 おみねは、この海の法螺貝はこれで精一杯だと言ったが、侍は許さない。 二人して数を揃えよと、再び船を出させ、夜が明けるまでに三百の法螺貝を採った。 「では褒美をやろう。と言いたいが、約束は昨日の内に持参ということであったな」 侍は冷たい目をして、甚六の釣り船を全て没収すると言った。 「それだけはご勘弁を」 おみねが侍の袖をつかむが、「ええい、無礼者」と一刀のもとに斬り捨てられた。 「おみね」と駆け寄る甚六。 ふるえる手に船の櫂を取って侍に飛びかかるが、これもあえなくやられてしまった。 侍が持ち帰った三百の法螺貝は、さっそく城中の夕餉に供されたけれども、勿体ないこ とに残す者もいた。 また、全ていくさ笛になるはずもなく、ほとんどの貝殻は城下の藪に打ち捨てられた。 そんなことがあった後も法螺貝の乱獲は止まず、甚六の言った通り、海は鬼のヒトデに 蹂躙され、珊瑚は白く、魚の寄りつかない死の海と化していた。 海の向こうから野分の風が吹き寄せる日のこと。 墨をかき混ぜたような雲がとぐろを巻き、高波が高波を呼んで、荒れ狂う潮のしぶきが 浜に打ち寄せた。 オオーンオオーンと聞いたこともない風の音が、大海原の泣き声のようだった。 それはまた「法螺貝を返せ、法螺貝を返せ」と叫ぶ声にも聞こえた。 やがて、海の怒りは猛烈な風と波を大きな鬼の姿に変え、逃げまどう人々を城と街もろ とも呑み込んでいった。 今はもう何もない野山に、かつて大量に捨てられた法螺貝が花となって咲いている。 人々はその花を釣り船草と呼んでいる。 |
| ◇ツリフネソウ(ツリフネソウ科)ホウセンカに近い仲間。日当たりの良い山野の湿地に生える。名前は帆掛け舟が吊り下がっているような花の形からで、吊り舟草が正しいかもしれない。黄花のものはキツリフネと言い、こちらは木陰を好む。低山ハイクでよく見かける。図鑑ではツリフネソウの後に咲くとあるが、私が行く森林公園では黄色が先に咲く。あてにならん。なお、記事のエピソードは真っ赤なつくり話である。(2011/08/30) 《庭先の博物誌*書庫》 |
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