散策思索語録質種

絵本もどきの落書きと、エッセイもどきのひとりごと・・・

Myブログ考

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Myブログ考 折に触れてMyブログについての考察をしていきます。私自身が考えるブログのあるべき姿を明らかにして、より快適に愉しむことができればと思っています。                                                                     
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コメント数が4ケタになった。区切りの数字を提供してくれたのはブロ友のCANDYさんだ。CANDYさん、どうも有難う。 それにしても、こんなに目立たないブログでも、訪問者はのべ15000を超え、1000のコメントになるものだ。その時点でのアクセスがたった11というのを見れば、いかにこのブログが退屈でつまらないか、よくわかるだろう。それでも1000と言えばそれなりの区切りなので、最近のブログについて思うことを一言二言。 トップページにも書いたけれど、履歴からその人のブログに訪問するのはやめにした。以前は、せっかく来てくれたのだからお礼の意味も込めて、コメントまで残したこともあった。しかし、その訪問者を見ると何かおかしい。 ランダムに当たったときに並ぶ名前はいつも同じだし、ランキングの上位を争うような人気ブログの管理人がこんなつまらないブログにわざわざ訪問に来るはずがない。結局、そのほとんどが、通り掛かりのスルーのお客さんか、または自動巡回というソフトを使った実体のない訪問者であることがよくわかってきた。 つまり、どんなに手間を掛けて記事を書いても、ファンの方を除けば誰にも読まれていないのである。もちろん、ファンの方に愉しんでいただければそれで十分満足だし、人気なんかなくても一向に構わない。とくに最近は自動巡回が横行して、怪しげなブログに誘導されるのもいやなので、履歴から訪問なんてムダで危険なことは一切やめにしたというわけである。 前にも書いたけれども、自動巡回なんてことまでして数字の実績を作って、上辺だけの人気ブログになることがそんなに面白いのだろうか。例えば、このブログが今回1000のコメント数に達したといっても、その半分以上はレスコメだから、自分自身でいくらでも数字の操作ができてしまう。その数字に大きな価値があるとは思えない。 それでも、人気ブログとなってブログ管理人として有名になれば、それなりに多くのブロガーの羨望の的となり、優越感もひとしおなのだろう。それで悦に入っているのも勝手だが、たまに優越感の押し売りをしてくる輩が出てくるのが村社会というものだ。 裸の王様のようなもので、常に自分が相手より優位でなければ我慢できないものだから、無知や間違いを指摘されるとケチを付けられたと勘違いして、敵意をむき出しにしてくる。相手が大人なら放っておくところが、ブロガーなんてみんな自己顕示欲の強い連中ばかりだから、売り言葉に買い言葉でエキサイトして、滅茶苦茶になってしまう。はた迷惑も良いところだ。(幸福の村はそういう輩をモデルにしたわけでもないが、今読み返すと、自分でも色々と感じることがあって面白い)さてさて、そういう連中とは距離を置いて、目立たずマイペースでブログを愉しめればそれで良い。 私の場合、最近は創作の場として利用している傾向が強くなってきた。欲を出せば、広く多くの人に見てもらいたいとは思うけれども、世の中には、統計数字だけで満足する似非才人ではなくて、本当に素晴らしい本物の人もいる。そういう人の手前でエラそうなことを言えば、自分も似非才人と同じようなもので、恥ずかしくてとてもいたたまれない。自分の分はわきまえて努力しなければといつも思う。ファンの方にムリヤリ面白がっていただくだけで幸せと、自分を戒めるばかりである。

(2009/08/03)
ちょっと思い当たることがあって、「真似と影響」のパート2を。 というのは、このブログ、エッセーを書くつもりで、実は知らず知らずに詩を書こうとしていることがたまにある。いや、たまにではなくて、文章を練っているうちに散文詩になってしまうことが、ままあるのだ。そして、そういう記事の方が読み応えがあるような気がする(と勝手に思っている)。 記事を書くのが億劫なときは、明らかに駄文を書いている。説明的で心がこもっていない。どうでもいいことを書いた後に自己嫌悪に陥って、思い切って削除しようと思っていると、温かいコメントを頂いて戸惑ってしまう。読んでくれる有難さに、かろうじて救われているのだ。 そう、書く気満々のときは、自分は(ひとりよがりな)詩人になっている。書こうとするテーマがはっきりしていて、しっかり取材もできているときは、筆が進むうちにどんどん詩人の気分になっている(・・・バカみたい)。 詩は言葉の羅列ではダメ。見栄えの良さだけでもダメ。説明的にズラズラ書いたらダメ。お気楽に思いつくまま書いてはダメ。言葉に魂を吹き込むつもりにならなければ書けない。テンションが余程に上がっていないと書けない。出来不出来はともかく、書いた後は本当に疲れてしまう。と言っても、こんな感覚だれも信じちゃくれないだろうけれど。 それが一体どこから来ているのかと、記憶をたどっていくと高校時代にさかのぼる。 
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 その時代、本来なら受験受験で一番大事な時に混声合唱にうつつを抜かし、それがために浪人生活で苦労したという、そんな話はどうでもよいのだけれども。このときに歌っていた曲が、「旅」とか「蔵王」、「水のいのち」、「心の四季」、「若い合唱」といっても、よほど合唱が好きな人でなければ知らない曲ばかりだろうけれども。どれも良い曲なんだよ、実際。 詩というと、高村光太郎とか島崎藤村とか、あるいは上田敏の海潮音のような教科書に載っているものくらいしか見たことがなかった。ところが、上掲の合唱曲の歌詞をメロディなしで読んだ時、衝撃が走った。そこに出てくる吉野弘さんとか黒田三郎さんなんていう有名な現代詩人を当時は全く知らず、先生の指導のままに読んでみて、経験したことのない新しい世界の広がりを感じたものだ。 例えば、「真昼の星」という詩がある。著作権の問題があるので紹介はできないが、とにかくこの題だけでも味わってほしい。真昼の星だってさ。真昼にゃ星なんか出ていない、いや、出ているけれども我々には見えない。その事実から得るインスピレーションを想像して欲しい。「真昼の星」という題だけで、信じられないほど多くの情報が浮かび上がる驚き! 言葉に魂を吹き込む・・・難しくて難しくて、才能のなさを嘆くばかり。しかし、もしそれができたなら、たった一言で無限の宇宙をも表現できるだろう。真似をしたことはない、というより、真似なんか到底できないけれど、影響を受けているのは明らかだ。 そんな記事を書くことができればと、いつも思う。思うだけで疲れている。

(2009/04/21)
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前回、この書庫を開いたのは5千ヒットを超えたときだった。そのときに、マイブログの考え方というか、ポリシーのようなものを粗方語ったので、同じことを繰り返すのはムダというもの。とはいえ、今回1万ヒット超えに際し、初心に帰る意味で再びこの書庫で語ることにしよう。 前にも述べたが、私がこのブログでこだわりたいのは、オリジナル、シンプルさ、正しい日本語の3つだ。そんなブログが衆目を集めるはずもなく、自分ひとりで楽しめればそれで良い。たまに共感してくれるファンの方からコメントをいただければ十分というものだ。それが、基本のスタンスである。 だから、本当はこういう数字や人気度なんかで一喜一憂したくないのだ。競争もしたくない。なぜなら、こんな退屈で古臭い内容のブログより、今の時代にマッチした素晴らしいブログは五万とある。とても比べ物にならない。そう、今あなたが感じておられるように、あなたのブログの方が何倍も中身が濃くて面白い。請け合います。 ところがだ。そんな風に思っていても、1万という数字を見つけたときは「あ、超えた」と声に出してしまった。重複して来ている人もいるし、ほとんど素通りなのは間違いないのだが、1万回このブログが開かれた事実は、やっぱりすごいなと素直に思う。少しだけ、ほんの少しだけならはしゃいでも良かろうと、「大根」の記事のコメントで羽目を外してしまった。本当に失礼しました。 しかーし。落ち着いて考えれば、単に1万回の通りすがりがあっただけのことではないか。シャッター通りを1万の人がただ通ったようなもの。たとえ、シャッターの中にとんでもない掘出し物があったとしても、前を通るだけの人には関係のない話。世の中には何の影響もない。 それともう一つ。それをやるべきかどうかは悩んだのだけれども、ランダムに当たるように時刻を選んで投稿をしている。情報発信をしているのだから、受信の機会を増やさなければ意味がないと考えて続けてきた。このブログの場合、3回に1回は当たっているので確率は悪くない。つまり、1万というのはその結果の数字でしかないのである。統計はいつも嘘をつく。その事実に気付けば、それほど喜ぶ価値はない。 やはり、ヒットが増えたとか、コメントが多くなったとか、星が変わったとか、そんなことで一喜一憂するのは空しい。 私のブログにはたった10人のファンしかいないけれど、そして、いつも来てくれるわけではないけれど、こんなブログに興味を持ってくれる人がいることが一番有難い。ファンがいるから、次にどんなことを書こうかという気持ちになる。冷たい数字の羅列より温かいファンの存在に感謝なのである。 有難うございます。

(2009/04/11)
今どき、電車の中で文庫本を開いている若い人を見かけることはほとんどない。携帯小説なんていうものがあるから、それを読むのかと思うと、どうもゲームに興じている人の方が多いようだ。しかしながら、今もし私が学生であっても同じように携帯で遊ぶだろうから、こんな様子を年寄り臭く嘆く気はさらさらない。半面、かつて親しんだ夏目漱石とか森鴎外などの世界が遠い昔に感じられるのが、なんとも寂しい気がするのである。 これでも学生時代、マンガばかり読んでいたわけではない。友達の中には本物の文学少年みたいなのがいて、これにはとても敵わなかったが、純文学や時代小説、SFやドキュメンタリーまでよく読んだものだ。一応、本の虫もどきだったように思う。
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青空文庫というサイトがある。ここで、没後50年経って著作権が切れた作家の作品がダウンロードできる。先日、「草枕」とか「二百十日」といった漱石の作品を読んで懐かしい思いが込み上げてきた。そして、あることに思い当たるのである。 このブログのお得意さんの一人に、youさんという方がいる。youさんが最初に見えた時に、「緩やかに流れるようでいてコアな文体」とか「情景が浮かんで自分がそこにいるように感じる文」などと、かなり恐縮してしまうお褒めの言葉を頂戴した。正直、これは買い被っておられるとしか言いようがないのだけれども、もしそんな雰囲気が少しでもあるとすれば、学生時代の読書の影響を強く感じるのである。

漱石の「文鳥」なんて短編を読むと、これは自分の文体のルーツだなって思わずにいられない。決して真似をしようなどと大それたことを考えたわけではないが、間違いなく影響を受けている。いや、思えば、お年寄りがみなさん筆達者なのは、同じようにたくさんの文学に親しみ、自然に文の書き方を覚えていったからなのだろう。私なども、そういう作文術を身につけた世代に入るのかもしれない。なんて言うと、ひどく爺臭い物言いになってしまうけれども。 実は、自ら真似をしようと手本にした作家がいる。意外に感じられると思うが、それは幸田文という女流作家である。幸田文は明治の大文豪幸田露伴の次女。「おとうと」とか「流れる」などの代表作がある。物語ははっきり言ってそれほど面白くはない。しかし、私にはこの人の文章が、それこそ「緩やかに流れるようでいてコアな文体」で、「情景が浮かんで自分がそこにいるように」感じられたのである。 没後に発表された「木」とか「台所のおと」など、すらすらと全く抵抗なく読めてしまう。軽さ、けれん・・・ではない不思議な魅力がある。結局、真似できなかったし、幸田文以外の作家にも影響を受けて、今ではまるで違う文体になってしまっているが、いつも意識していた人だった。 もう一人、私の作文にとって重要な人がいる。数多くのドキュメンタリーを書いておられる、本多勝一というジャーナリストである。若い頃の北海道の話や未開人との接触をルポルタージュした作品がとても面白いが、南京事件などへの言及で、右寄りの人たちからかなり激しい攻撃を受ける人である。しかし、過激な左翼主義者なのかというとそうでもない。論理的に過ぎるところが、最終的に相手を怒らせてしまうのだ。それが本多勝一の大きな魅力なのだけれども。 この人が「日本語の作文技術」という本を書いている。表題通りのごく常識的なことがまとめてあるだけなのだが、この本からのかなりの影響を否定することができない。言語が何をもって情緒的か論理的かを区別することは難しい。しかし、用法によって文章の意味するところが矛盾してしまう例をいくつも挙げて、日本語の論理性について重要な示唆が記されている。正しく趣旨が伝わらなければ正しい理解が得られないという、当たり前でなかなか容易でない話をしているのである。 さて、私が書いている文章は、紛れもなく私のオリジナルである。しかし、その背景にいるのは、夏目漱石と幸田文と本多勝一。このなんの関係もない3人の文筆家が私という一人の人間の中でブレンドされ、さらにその他の多くの人々の影響がスパイスとなって出来上がっているのが、私の文章のスタイルであると、そう言えるのかもしれない。 youさんには、私の文体について語るという宿題を預かったまま、ずっと放ったらかしだった。とりあえず、こんな答でよろしいだろうか。 (つづく)

(2009/02/06)

※文中の敬称は省略しました。 ※「青空文庫」とその関連サイトは次の通りです。
  ・青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/
  ・青空文庫対応の縦書き表示ソフト
    (PageOne)  http://www.vector.co.jp/soft/dl/win95/util/se442099.html
    (smoopy)  http://site-clue.statice.jp/

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★こんな絵本はいかが?   ・・・ 風船の中のキミの世界 幸福の村
★ホームページも開いてます。・・・ おもしろがりホームページ ・・・よろしくね♪
思いついたことをのんびりマイペースで書いています、と遠慮がちにブログ紹介をしたものの、ホンネを言えば、みんながあっと思うようなカッコよくて見ばえのするブログにしたい。それがごく普通の心理。 手っ取り早く衆目を集めたいなら、出来合いの画像やブログパーツをペタペタくっつければ、簡単に豪華なブログの出来上がりだ。ただし、出来合いは誰もが入手できるから、いかに他人より早く手に入れて、体裁よく編集するかの勝負。要するに、クリスマスのデコレーション競争みたいなもんだ。 ところが、実際にはなかなか思うようなレイアウトができないものだから、コテコテのペタペタのスクラップブックみたいになってしまう。さらに、文字フォントもユニークに加工したいし、BGMも流してみたい。こうして、思いついたことをのんびりマイペースに書くなんてことから、大きく外れている現実に気付かないまま、きわめてコンセプトの不明なブログになってしまうわけだ。 先述したように、私自身はオリジナルにこだわっているので、出来合いには全く興味がない。ところが、やはり同じ罠にはまりそうになったことがあった。つまり、ホームページの感覚が強く残っていたので、同じように画面コントロールできないものかと試行錯誤を繰り返していた時期があったのだ。 その結果、WIKI文法なんてものを知ったわけだが、いろいろと制約が多くてホームページにおけるHTMLみたいに自由が利かない。記事の中身より体裁に掛ける時間の方が多くなって、本末転倒の状態に苦痛を感じ始めた。こんなことならブログなんてやる意味がない。気に入った画面が作りたいならホームページを作れば良い。というわけで、WIKIを極めるというような愚かなマネはやめた。
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おっと、その割には毎度毎度しっかりとWIKIで記事を作っているじゃないかと非難する人も沢山おられるに違いない。WIKIを使っているのは、そのままだと字が小さくて自分で読みづらいという、それだけの理由である。それに、私の場合、一度WIKI文法でいくつかの標準パターンを作って、本文をそれに当てはめるだけにしてあるのだ。 つまり、本文は、WordやPowerPointのような汎用ソフトを利用して書いておく。それを下のようなパターン、□□□の部分にコピペ(コピー&ペースト)して画像添付すれば、一丁上がりというわけだ。それ以上の手間は掛けないし、掛けたくない。これで十分個性的なブログになっていると思う。

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||<#ffffff'style='word-spacing:560px;padding:0px;font-size:9pt;line-height:14pt;font-family:HG丸ゴシックM-PRO
;color:#000000'□□□||

というわけで、これ以上の高度なテクニックを身につけたいとは思わないし、必要性も全く感じないのである。そっくりそのままマネするのは自由だが、トラブったときにあれこれ調べるのが面倒臭いので、お勧めはしない。上の例を一つひとつ説明する気もない。どうしても興味がある人はWIKIでサイト検索して適当な解説を参照してほしい。 ブログの体裁はシンプルなのが一番だ。それが結果的にカッコいいブログになるんじゃないかなと勝手に思っている。 (つづく)

(2009/02/01)

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