| 喇叭吹きの子守歌(ルロイ=アンダーソン作曲) 春風に揺られて 音の出ない喇叭を掲げ 聞こえることのない 子守歌を奏でます 優しい旋律にまどろみ 今宵のステージのため 小さな喇叭吹きはやがて 眠りに就くのです 若い勤め人が 早足で通り過ぎます 静かに静かにして 起きてしまうじゃない 開けかけた瞼をこすり 大きな欠伸をして 小さな喇叭吹きは再び 眠りに就くのです |
| ◇喇叭水仙(ヒガンバナ科)_欧州原産の水仙。花の中央の副冠が発達して花弁より長くラッパ状をしている。英語のdaffodilはこの花のこと。(2012/04/19) |
|
| ザクッザクッザクッザクッ ザザッザザッザザッ ザーッザザッズザザザーッ(おおお〜) ゴツッバタッ(いてぇ+_+) ズゾザゾザッゾゾッ ゾロッズズッ ハラッハラッパタパタッ(ふぅ) ザクッザクッザクッ ザクッザクッザザーッザッ(あぶね) ザクッザクッ ザクッ ザクッザクッザクッ・・・・・・ |
| ◇凍雪(いてゆき)_昨夜の降り方だとかなりの積雪になるかと思ったが、今朝はもうすっかり止んで、凍った輪立ちができていた。雪の残るところを歩かないと滑って転倒する。変な所に力が入って腰が痛くなった。(2012/01/24) |
|
| 夏秋歌合戦のフィナーレ ツクツクホウシが一匹 森の奥で鳴く その声は朝の静けさに もはや溶け込み 鳴虫の如く 寂しいばかり 静けき夏の終り デシベルのレベルが下がり かすかな秋のにぎわいを むしろ引き立てるとは 誰もいない 夏の終りの森の中 |
| ◇ツクツクホウシ(セミ科)特徴のある鳴声で知られる。都会にも普通に聞かれるが、人の気配に敏感で姿を見るのはなかなか容易でない。夏の終りに多く現れ、秋を告げるセミとされる。(2011/09/08) |
|
| 「なんだ、全然釣れぬではないか」 侍は甚六に向かって文句を言った。 「旦那、だから、今日は潮目が良くねえって言ったんでやすよ」 「ふん、この土地随一の釣り宿と聞いたが、それほどではないのう」 嫌味を込めて侍は船を戻せと言う。 甚六は少し困った顔をして、女房のおみねに目くばせすると、おみねは勢いよく海に飛 び込み、暫くして大きな法螺貝を手に戻ってきた。 「お客様に失望されては、釣り宿甚六の名がすたりやす」 そう言うと、甚六は法螺貝で見事な造りを侍に出した。 「うむ、これは美味じゃ。それにこの貝殻はいくさ笛ではないか。うむ、これは良い。 この法螺貝三百個、城に持参せよ。褒美はたんとはずむぞ」 「旦那、それぁムリってもんでさ。これを取り過ぎると大きな鬼のヒトデがはびこっ て、海を台無しにしてしまうんでさぁ」 「ええい、黙れ。言うことを聞かぬと、そなたの持ち船はすべて没収じゃ。良いか。明 日までに用意するんじゃ。わかったな」 侍はそう言い捨てて去っていった。 甚六がため息をついて戻ってくると、 「仕方がねえ。釣り宿甚六もこれまでよ」 そう言って酒を煽り、さっさと布団にくるまって寝てしまった。 翌朝、甚六は宿を開ける気にもなれず、酒を飲んでごろごろと家の中で過ごしていた。 おみねはそっと家を抜け出して浜に向かった。 傾きかけた日が波間に光の帯を落としている。 おみねは手を合わせて海に祈りを奉げ、一人で貝を採りに船を出した。 宵闇が辺りに満ちると、おもての戸を叩く音がする。 その音に目を覚ました甚六はおみねを呼ぶが姿はない。 「へいへい、お待ちを」 そう言って、戸を開けると、そこには昨日の侍が家来を連れて立っていた。 「これ甚六、貝はどうした」 甚六が慌てて閉めようとするところを、家来が強引に引き止め、甚六の体を表に引きず り出した。 「法螺貝三百、殿が所望じゃ。すぐに用意いたせ」 甚六は侍たちに連れられて浜に来ると、ちょうどそこにおみねが沖から戻ってきた。 なんと船の上には法螺貝が山と積まれている。甚六は顔色を変えた。 「おみね、お前なんてことを」 侍は家来たちに貝を箱に詰め替えるように指示をした。ところが、 「これでは百もないではないか」 おみねは、この海の法螺貝はこれで精一杯だと言ったが、侍は許さない。 二人して数を揃えよと、再び船を出させ、夜が明けるまでに三百の法螺貝を採った。 「では褒美をやろう。と言いたいが、約束は昨日の内に持参ということであったな」 侍は冷たい目をして、甚六の釣り船を全て没収すると言った。 「それだけはご勘弁を」 おみねが侍の袖をつかむが、「ええい、無礼者」と一刀のもとに斬り捨てられた。 「おみね」と駆け寄る甚六。 ふるえる手に船の櫂を取って侍に飛びかかるが、これもあえなくやられてしまった。 侍が持ち帰った三百の法螺貝は、さっそく城中の夕餉に供されたけれども、勿体ないこ とに残す者もいた。 また、全ていくさ笛になるはずもなく、ほとんどの貝殻は城下の藪に打ち捨てられた。 そんなことがあった後も法螺貝の乱獲は止まず、甚六の言った通り、海は鬼のヒトデに 蹂躙され、珊瑚は白く、魚の寄りつかない死の海と化していた。 海の向こうから野分の風が吹き寄せる日のこと。 墨をかき混ぜたような雲がとぐろを巻き、高波が高波を呼んで、荒れ狂う潮のしぶきが 浜に打ち寄せた。 オオーンオオーンと聞いたこともない風の音が、大海原の泣き声のようだった。 それはまた「法螺貝を返せ、法螺貝を返せ」と叫ぶ声にも聞こえた。 やがて、海の怒りは猛烈な風と波を大きな鬼の姿に変え、逃げまどう人々を城と街もろ とも呑み込んでいった。 今はもう何もない野山に、かつて大量に捨てられた法螺貝が花となって咲いている。 人々はその花を釣り船草と呼んでいる。 |
| ◇ツリフネソウ(ツリフネソウ科)ホウセンカに近い仲間。日当たりの良い山野の湿地に生える。名前は帆掛け舟が吊り下がっているような花の形からで、吊り舟草が正しいかもしれない。黄花のものはキツリフネと言い、こちらは木陰を好む。低山ハイクでよく見かける。図鑑ではツリフネソウの後に咲くとあるが、私が行く森林公園では黄色が先に咲く。あてにならん。なお、記事のエピソードは真っ赤なつくり話である。(2011/08/30) 《庭先の博物誌*書庫》 |
|
| (斎場の係員が参列者に礼拝を促すと読経が始まる) 以前、歳を取ると時間の経過を速く感じることについて書いたことがある。イメージとしては、心の中に一定の長さの物差しがあって、自分が経験した時間をその物差しに割り振ったときの大きさが時間感覚なんだと思っていた。つまり、経験の少ない子供は定規に割り振られる時間が相対的に大きくなるから時間感覚が遅く、大人になるにつれて定規の中がだんだん手狭になって時間が速く感じられるようになる。 と、勝手に考えていたが、あるとき、時間の感覚は代謝効率に関係するという生理学の話を聞いて、オリジナルのイメージが見事に崩壊した。すなわち、子供の頃は代謝が活発なので時間が遅く感じられ、歳を取るほど代謝が悪くなって時間が速く感じられるようになるというのだ。だから、同じ時間でも人によって代謝が異なるから、それぞれ全く違う時間経過を感じているということになるわけだ。 それは、つまり人によって時間軸が違うということであり、絶対的な同一の時空間はないということだ。例えば、新幹線と山手線が平行して走っているところで、両者がたまたま近い速度で走っていればそれぞれの車両に乗っている人同士で直接のコミュニケーションがとれるだろう。が、新幹線がスピードを上げればもはや全く別の時空となって離れてしまう。人付き合いというのもこれに似たようなもの。人はそれぞれ全く別の時空を生きているのだ。 (我が国は信教の自由があるので、親戚でも異なる宗教宗派の場合が多い。聞き慣れないお経の中で念仏が流れると、突然、木魚がバックビートを叩きだした!私の家も念仏の浄土真宗だが、普通のダウンビートで1拍目にアクセントがくる。確か、時宗のお寺だと聞いた。時宗の開祖は踊り念仏で有名な一遍上人である。なるほど、バックビートといえばジャズのリズム。リズムに乗りながら念仏を唱えて陶酔の境に入るというわけか) 時空が人によって異なるということは、それが絶対ではないということだ。アインシュタインの相対性理論は最終的にはエネルギーと物質は同一の存在であり、時間と空間は相対的であることを示したものだけれど、理解が難しいのは、その結論を導く過程が客観的絶対ではなく主観的相対を基準にしているからだ。つまり、科学である限りは常に客観性が重視されなければならないのに、認識という主観の下で理論が展開される。 認識の速さとは光の速さだ。光の速さを超えてしまうと認識できなくなる。認識できないものは存在しないのだから考える必要がない。だから、光よりも速いものはこの世には存在せず、絶対的なものは光速のみという前提で理論を展開しなければならない。ところが、通常の感覚では時間や空間の方が絶対的な存在で、光は単なる現象という捉え方をしてしまう。 もし、時間や空間が絶対的なものであるなら、人が死んでもいすれ復活すると思うだろうし、今も霊魂が生きていると考えるだろう。だが、時間と空間は相対的なのだ。出発したときにキスをした恋人が、宇宙旅行から戻ってくると老人になっていたという浦島太郎のようなことが現実にあり得る。それは時空がそれぞれ別個に動いている相対的なものだからだ。人それぞれで時間軸が異なっているのである。 (焼香が始まる。喪主に一礼して、祭壇に手を合わせる。浄土真宗ではナマンダブだが、時宗はリズミカルに「なぁもぉあぁみぃだぁぶぅ」という感じ。念仏は故人への弔いというより、悲嘆にくれる本人が仏に救いを求める他力本願の言葉というものだ) 子供の頃、死んだらどうなってしまうのか、死んだあと人はどこに行くのかと考えると、恐くて眠れなかった。天国に行ければ良いけれど、誰しも後ろめたいことの一つや二つはある。多少は地獄で罪を償わなければならないのではないか。その地獄は罪の深さによって、等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻という八つの階層があり、一番軽い等活地獄でさえ抜け出すのに1兆6653億年かかるとされている。宇宙の誕生から140億年程度というから、とんでもない長さの時間である。 昔の人が地獄の恐ろしさを強調するために口から出まかせで並べた数字と言ってしまえばそれまでだが、あながち的外れでもなさそうなのだ。というのは、代謝が悪くなれば時間が速く過ぎ去っていくわけだから、最も代謝の悪い状態、つまりゼロになれば時間は相対的に無限となる。代謝がゼロとは死を意味する。つまり、死者は今も無限の時空を生きている。 時空は人それぞれ異なるもの。だから、私の時空の中に故人は存在していない。しかし、故人は息を引き取ったあの瞬間を無限の時空としてまだ生きている。悲しむことは何もない。私が山手線に乗っていて、故人は新幹線でずっと先に行ってしまったようなものだから。いずれまた同じ時間の速さの中で逢って話すこともあると信じよう。 (読経が終わり、棺の遺体に最後の別れを言うと、すすり泣く声が響き渡って葬儀のクライマックスとなる。が、焼場で骨になっても私の目に涙は浮かんで来なかった。なぜなら、これはかつて同じ時空にいたときに故人だった「もの」でしかない。もう故人はいないけれど、故人は故人の時空で永遠の時を生きているんだもの。間違いなく) ナマンダブと自分のために呟く。 |
(2010/10/23)
|