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| 季節の移ろいを愉しみながら、感じたこと気付いたことを思いつくままに。
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| 台風のことを野分という。昔の人は夏から秋にかけてやってくるこの暴風をそう呼んで恐れた。枕草子や源氏物語の巻は有名だし、詩歌や俳句にも詠われているが、今では学校の古典の授業ぐらいでしか聞くことがない。一方、台風は中国語やアラビア語が起源と言われ、語感が大風を連想するところから、こちらの方がポピュラーになったようだ。 風流に思うこともあるが、昔の人のようにその語から恐ろしさを感じることはない。ノワキという語感はタイフウに比べるとかなり穏やかに感じるのだ。国語辞典を開いても、野の草を分けて吹く風ということぐらいしか書かれていない。これは、野というものに対する昔と今の捉え方に違いがあるのではと思うのである。 アスファルトとコンクリートで固められた都会に野はない。たまにビルの建設現場に雑草が生えているのを野原と呼ぶくらいだろうか。緑の多い農村部でも、田畑はしっかりと人の手で管理された土地であって、決して野ではない。そんなところに大風が吹いても野分という語は思い浮かぶまい。 手つかずの自然、荒れるに任せるだけの場所があったとしたら、それが野だ。昔は、どんなに大きな街でも一歩外に踏み出せば、どこもかしかも野ばかりだったろう。草と言っても、もっと背が高くて藪のようになっていたに違いない。それを吹き飛ばすような大風を目の当たりにすれば野分を実感するかもしれない。 もう10年以上前になるけれども、北アルプスのダイヤモンドコースと言われるルートを歩いたことがある。逸れると思っていた台風の直撃を受けて、とんでもない暴風の中で黒部五郎の頂に立ったときは生きた心地がしなかった。その上りで、ゴーっと風が吹くたびにハイマツやダケカンバがめくり上がるかと思うほどに大きく揺れるのを見て、ああこれが野分なんだなと思った。 50年前に未曾有の大災害をもたらした伊勢湾台風クラスの猛烈な台風18号が、日本を縦断していった。幸い私の住む神奈川は進路から外れて、夜は割合静かだったけれど、朝方しばらくは横殴りの雨風が、野を分けるように遠くの木々を大きく揺らしていた。 野分来て童の如く窓かじる |
(2009/10/08)
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| 子供はみんなと一緒に声を出すのが楽しかったり、メロディが面白かったりで、あんまり音楽のルールや歌詞の意味に興味があるわけではない。曲の雰囲気だけでいとも簡単に気分を変えてしまうし、替え歌を作って遊んだりと、音との関わりは全く自由奔放だ。 音楽教育のことは全くわからないけれども、それで良いのではないかと思う。なまじ、子供のうちから細かい話をすると、かえって歌の上手い下手がおもてに出てきて、やれ音痴だのなんだのと子供の間で差別化が起こってしまう。それが劣等感やいじめにつながったりしたら、音楽の本質はどこへやらだ。音楽はまず楽しくなければ意味がない。 ところで、今でも小学校で「虫の声」という歌を習うのだろうか。多分、夏休みが過ぎて習う歌だろう。遠い過去の話で、音楽の先生が歌詞について話をしてくれた記憶がない。ちゃんと教科書通りに歌えればマルで、音が外れたりしたらバツという、ただそれだけのつまらない授業だった印象しかない。 そんなある夜のこと。チッチッチッチと、暗闇にやたらに大きな虫の声が聞こえて眠れずにいた。どうしても気になって、一人床を抜け出し音のする方に近づいて行くと、どうやら納戸の中で鳴いている。灯りを点けて、そうっと音に近づいていくと、窓の桟のところに1センチにも満たない細長い小さな虫を見つけた。その小さすぎる体からどうしてこんなに大きな声が出せるのかと驚いた。さっそく図鑑で調べて、カネタタキという虫であることがわかった。戻った布団の中でバカみたいに感動していたものだ。 さて、そういう経験をすると、他の虫はどうかと気になって仕方がない。すぐに頭に浮かんだのが「虫の声」の歌詞だ。松虫はチンチロリン、鈴虫はリンリンリン、コオロギはキリキリキリと鳴くという。チンチロリンとかキリキリキリなんて聞いたことがない。そこで、庭や空き地で鳴きそうな虫を手当たり次第捕まえて様子を見るが、一向に鳴く気配がない。そうなのだ。同じ虫でも鳴くのはオスだけ。それにバッタやカマドウマは鳴いたりしない。せっかく図鑑があるのだから、ちゃんと調べてみれば良いのに、その辺りが間の抜けたガキだった。 今朝も草むらのそばを通ると、虫の声がかまびすしい。色々な虫の声が混じっていて、リリッリリッと鳴くのがコオロギ(正しくはツヅレサセコオロギ)、少し高い音でリーリーと鳴くのがアオマツムシ。そう、松虫だけれどチンチロリンではない。ときどきヒュルルルルと流れるように聞こえる高い声は、エンマコオロギだ。名前はいかめしいが、鳴く虫の女王と言われるのは納得できる。 未だにチンチロリンやキリキリキリには出合わない。もちろん、それが擬音語で語呂合わせなのは百も承知。いつも期待して耳を傾けるつもりでいて、気が付くと心地良く聞き流しているのである。 虫の音の中を耳立つこともなし |
(2009/10/05)
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| 散歩に出る時刻になっても、まだまだ秋の夜長の風である。5時半ごろが日の出のはずだが、空一面厚い雲に覆われている今朝は一層暗く感じられる。 公園の林の中に入ると暗さはさらに増して、これはもう夜中と同じだ。そんな散歩道を何者かが横切る。タヌキかイタチか、はたまたムジナの類か。 そばによって目を凝らすと、黒っぽいネコがこちらを見ている。おやおや、この時間、私の家の周りのネコなら、温い玄関灯の上で夢の中にいるものだが、早朝散歩とは殊勝なことだ。挨拶に頭を撫でてやろうと近づくと、近づいた分奥に逃げて、そこで振り返る。 ふん、この時間の奴らの無愛想には慣れている。さっさとあっちに行ってしまえと手を振り上げると、一瞬立ち去る姿勢をとるが、相変わらずこちらの様子を見ている。憎らしい奴め。もっと近づこうと一歩踏み出すと、足場の悪さに気付かず転んでしまった。 悪態をつきながら立ち上がれば、もちろん、ネコの姿はない。いやいや、あいつにしても、こんな朝っぱらから人間に襲われる悪夢を見ることになろうとは。そう考えれば、この軽い打撲も恐怖の報酬といったところだ。悪いことをしたと反省である。 |
(2009/09/22)
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| 歩くと裾が露に濡れる草むらがすっかり刈られていた。ここで飛び跳ねていたバッタやキリギリスたちはどこに追いやられたのだろう。 もちろん、夏が終わったとはいえ、放っておけば草ぼうぼうとなってしまう。寒くなって枯れ草となれば火災の危険すらある。虫の都合より、まずは人の都合を考えなければ。心配する必要はない。彼らは人間よりしたたかだ。刈られて放置された草は、露を含んで柔らかくなり、やがて発酵によって熱を発して居心地の良い隠れ家になるだろう。虫の音はしっかり聞こえている。 刈り草の良い香りが漂う秋の朝である。 |
(2009/09/15)
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| このところ朝がめっきり涼しくなった。昨年の猛暑に比べれば大したことはないけれども、暑さに慣れた皮膚が朝の空気を寒く感じるほどになる。人間だけではない。もともと熱帯で暮らしていた猫たちは、この急な気温低下に暖を求めて居場所を探す。 冬によく見る光景なのだが、大きな家の玄関灯の上にぐっすり眠る猫一匹。夜中これに灯りが灯っていると結構温かいのだ。彼らにとっては格好の寝床である。今は灯が消えているが、きっと温もりが残っているのだろう。気持ち良さそうに寝息を立てて、すぐ下まで近づいても、全く目を覚ます気配がない。 日が高くなれば、まだまだ蝉の声がやかましいが、この時間はもう秋の虫の声しか聞こえない。それは心地良く感じる子守唄かもしれない。空は曇って、露が降りた様子もなく、朝寝を貪るにはちょうど良い。 起こさないように、そうっとその場を離れようとしたら、気配を感じたらしく寝ぼけ眼をこちらに向けた。が、すぐに瞼を閉じる。いけない、その顔を見ていたら、こちらまで眠気を催してきた。 猫は間違いなく催眠術師である。 |
(2009/09/02)
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