散策思索語録質種

絵本もどきの落書きと、エッセイもどきのひとりごと・・・

気ままな雑記帳

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光陰 日常生活の中で、気付いたこと、感じたことを気ままに書きなぐっています。時事や世相、新聞などで気になることもつらつらと。                                                                     
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劔岳・点の記

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映画「劔岳・点の記」を見に行った。 山歩きに狂っていた頃、新田次郎の山岳小説は貪るように読んでいたものだ。「点の記」はその中でも特に好きな小説の一つである。それが、今回映画化されたというので、早くから見に行こうと封切りを待っていた。 山歩きというものが、今のようにレジャーの一つとして定着したのは最近のことである。私が学生だった頃でさえ、山に登る奴というのは、命を粗末にするはぐれ者と見られ、髪はボサボサ、髭ボウボウ、不潔で汗臭いのも平気の平左で危険なところに行きたがるというイメージが定番であった。山に無関心な人ほど、そういう風に思っていたようだが、実際に山歩きをやれば、それがいかに合理的でスマートで面白くて奥の深いスポーツであることがわかる。 「点の記」は、まだ山が信仰の対象として崇められていた時代の話。日本の登山の黎明期に当たる明治後期のことである。当時、日本最後の未踏峰と言われた劔岳の初登頂を目指して、二人の人物が凌ぎを削る。陸軍の威信をかけて挑む測量士柴崎芳太郎と、日本近代登山の創始者小島烏水である。物語は、柴崎の測量士としての任務遂行を中心に展開されていく。 あらすじを語れば未読の人のお楽しみを奪うので、これ以上は映画を楽しむなり、小説を読むなりして欲しい。ただし、今どきのスリルとサスペンスとバラエティに富んだ物語に慣れてしまっている向きには、ドキュメンタリーが過ぎて物足りないかもしれない。いや、退屈でかったるくて、うざい話と言った方が通じるのだろうか。 私などは、実際に山歩きを愉しんだ口なので、映画を見ながらその頃のことが甦ってきて感慨深かった。特にこの映画は、元カメラマンだった監督の方針で、特撮を一切使わず、俳優が実際に現場に登って演技をしたとあって、その点も興味が尽きなかった。 おそらく、CGや特撮ばかり見ている人はそれほど迫力を感じないと思う。しかし、山を知っている者からすると、この撮影は「よくあそこまでやるものだ」と思わざるを得ない。スタッフ、出演者の本物へのこだわりには脱帽である。 当代の人気俳優を揃えた豪華キャストで、チケット窓口でも混んでいると言われたが、実際にホールに入ってみたら前の席はガラガラだった。最近の映画というのは土曜日でもこんな感じなのだろうか。混んでいると言われたら、昔は立ち見を覚悟したものだが。隣のホールの「ごくせん」とか「ルーキーズ」とか、あるいは「ターミネーター」とかはどうなのだろう。中身より宣伝プロモーションがものを言うレビュー界である。 正直言うと、この映画、私自身としても特に一押しという感じではない。しかし、そこら辺のミーハー映画よりは、断然見る価値のある作品だと思う。なによりも、山好きの虫が疼いてくる映画であるのは確かである。

(2009/07/12)

ビルの上の雲雀

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テレビのニュースや新聞報道など、メディアが提供する情報をすべて真実と鵜呑みにしてはいけないとか、何事も事実を確認するまでは先入観をもって決めつけるべきではないなどと偉そうなことを言っている本人がこれでは、たとえ個人のブログといえども他人様に読んでいただく記事を書く資格などないと、自ら嫌悪感の嵐に身を置いて専ら反省の弁を述べるのみの心境なのである。(←うわー目茶苦茶読みにくい悪文じゃ!) 雲雀の鳴き声が大好きだと書いた。しかし、雲雀というものは広々とした野原あるいは田畑を棲みかとし、その上空高くに飛翔して甲高い囀りを聞かせるものと勝手に決め付けていた。 今朝、同様の囀りを耳にしたのは背の高いマンションが立ち並ぶ街の中。その空に雲切る雲雀の姿を捉えたと思ったら、下りの囀りとなってクーリングタワーの上に舞い降りた。確かに、確かにあれは雲雀だった。 貴重な谷戸や生産緑地帯を無造作に造成し、味もそっけもない高層マンション群に変えていく業者、あるいは身近な自然に何の関心もない新興の住居人への当てつけのように、雲雀が消えていく現実を語ってきたつもりがどうだ。彼らの嘲笑っている姿が想像できるようだ。どんどん緑が失われ、都会化が進んでも、野鳥は環境に順応して逞しく生きている。感傷に浸って、環境破壊、自然崩壊を嘆いている自分がアホらしくなってきた。 事実は事実として受け止めなければならない。雲雀は建設用重機によって巣が破壊され、今までのように餌が取れなくなっても平気で暮らしている。それは認めよう。いにしえの土地の姿を知らなくても、そこで何不自由なく暮らすことはできる。なるほどその通りだ。自然保護やエコロジーでは飯は食えない。わずかでも需要がある限り、これからも無味乾燥なビルが立ち続けるだろう。しかし・・・ しかし、この石頭には、やっぱりどこか受け入れ難いものがあるのである。

(2009/06/01)

庚申塔

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道行く人はだれも振り返らないし、最初は土地区分のために置かれたただの石柱だと思っていた。地図を作るために使う三角点という測量用の標識なのかなとも思ったが、上面にあるはずの十字の印がない。よく見ると、側面に庚申塔と彫られていた。 都電荒川線に庚申塚という駅がある。おばあちゃんの原宿と言われる巣鴨のとげぬき地蔵があるので有名な場所だ。かつて戸塚にいた頃は、荒川線が高田馬場の駅前まで通っており、家の前をごとごとと地面を揺らせて走っていたものだ。4の日になると、祖母や大叔母がその都電に乗ってよく出かけて行った。 縁日と言えば2の日になると近くの水稲荷で狭い境内に露店が並び、あんず飴とかソース煎餅といった駄菓子売りや、夏場は金魚すくいやヨーヨー釣りが楽しみだった。少年雑誌の付録に付いてくる紙細工や漫画の小冊子が子供たちの人気の的だった。 そんなイメージを抱いて、一度だけ付いて行ったことがある。なるほど高岩寺に続く商店街の道を大勢のお年寄りがぞろぞろ歩いている。途中、唐辛子売りや煙管、塗箸を商う露店が並び、縁日のにぎわいに目を白黒させられたが、何が面白くてこんなに人が集まってくるのか子供には理解ができなかった。要するに、お寺に祀ってある延命地蔵尊の霊験があらたかで、お年寄りが大勢集まってくるというわけである。子供にとっては退屈なお祭りだが、今は懐かしさの残る良いものだと感じる。 庚申というのは、干支のひとつで「かのえさる」のこと。中国の道教に由来する、顔の色が青い金剛童子のことを庚申と呼び、病魔・病鬼を払い除く大威力があるとされている。庚申の日に青面金剛を徹夜で祀る風習がある。平安時代に伝わり江戸時代に盛んに信仰された。上述の巣鴨をはじめ、各所で庚申塚、庚申塔を見ることができる。古い街には今でも庚申講が残っているところもある。 私が住むこの辺りが開発されたのは最近で、そのような古い文化は微塵もないつまらない場所だと思っていた。こんなところに残っているのを見つけて、少しホッとするとともに、人知れず放置されている風なのが勿体なく感じられて仕方がない。坂を下ってヘアピンに近いカーブのところだから、下手なドライバーが誤って車をぶつけたら、粉々になって消えてしまうかもしれない。 15日は庚申の日。路傍の石に手を合わせた。

(2009/05/15)

ゆとり

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いつものように家を出て最初の十字路を過ぎた辺り。ポトリと鳥の落し物。見上げたら小枝をくわえたオナガが電線に止まっていた。小枝は多分巣作りに使うのだろう。オナガも物をくわえながらでは囀ることができないらしい。いつもならギェークヮックヮックヮという独特な声でそれとわかる野鳥である。 朝一番からよい記事ネタに出合ったものだ。さっそくカメラを取り出してそうっとピントを合わせていると、先刻の十字路を曲がって1台のワゴン車が近づいてきた。今日はよい天気になりそうだから、早立ちで行楽に出るのだろう。でも、少しだけ待ってもらいたい・・・と思っていたら、容赦のないクラクション。脇に寄って通り過ぎるのを待ってから再び電線に目をやれば、もちろん、オナガの姿はすでにない。中指を立てて遠ざかるワゴン車を見送るしかなかった。 そういうことがあると、その日の散歩は全くつまらない気分になる。目の前の景色よりも、どうでもよいことが頭の中でぐるぐる廻り、そのうちに霞が掛かってきて何も考えず、惰性で歩いているだけになってしまうのだ。 ふと気付くと、雲雀のかしましい囀りが聞こえる。こんな背の高いマンションの立ち並ぶ通りになぜ?と不思議に思いながら、脇道の行き先をのぞいてみると、どうやら裏の方には広い畑かグラウンドがあるらしい。声に誘われて脇道を抜けると、そこには駐車場があり、その向こうに雑草が生い茂る広い造成地が見えた。 雲雀の姿を探して、青い空を見上げながら歩を進めていたら・・・! こういう中途半端な傾斜が一番危ないのだ。右足首をくじいて完ぺきに横倒し。脳天を付くような痛みでしばらく動けなかった。くそっと悪態をつきながら、服に付いた土を払って立ちあがってみる。どうやら捻挫はしていないようだが、右足に思い切り体重を掛けることができない。少し足を引きずる格好で歩き始めた。 向こうから柴犬を連れたおばさんが歩いてくる。途中の電柱に犬が用足しをすると、バッグからペットボトルを出して丁寧に水をかけて流していた。普段なら、散歩のマナーを感心するところが、今日はそんな気持ちのゆとりがなく、何の感情も湧いてこなかった。英語でone_of_those_daysという。こんな日はさっさと帰った方がよい。 その帰路の信号のない横断歩道。日曜日の早朝、街に車の通りはほとんどないのに、やっぱり、今日はついてない。右手から若い男性が運転する乗用車が1台。本来は歩行者優先だが、最近はそんな運転マナーを守るドライバーを見たことがない。早く通り過ぎろと呟きながら立ち止っていると、なんと、車を停めて渡れと合図をしてくる。手で感謝の合図をしながら(その必要はないのだけれど)急いで渡った。 たったそれだけのことである。しかし、そういう人の触れ合いというものが、今まで硬く強ばっていた気持ちをほぐすのだから面白い。足首は相変わらず痛みが残っているけれども、ドライバーの思いやりというか、気持ちのゆとりがとても温かく感じられた。 ゆとり。ゆとりというのは、そういう相手をいたわる気持ち、思いやる心のことを言うのではないだろうか。そう言えば、今日家を出る前に読んだyouさんの記事はとても心温まる思いやりの話だった。そこには心のゆとりがあふれていて、とても良い気分で家を出たのだった。 ゆとり。・・・ひと頃、学校ではのんびり楽々の易しいカリキュラムを組んで、ゆとり教育などと浮かれていた。優秀なエリートお役人さまたちにとってのゆとりとは、手を抜いて放ったらかしにすることのようだ。そんなことをすれば、身勝手が正当化され、心が荒んでいくのは目に見えていた。実際、いじめや不登校など何も改善されず、数字の上でも国際的な教育レベルの低下を招いてしまい、再び昔のような詰め込み教育に戻すのだという。全く優秀な方々の考えることはあまりに素晴らしくて涙が出てしまう。 思いやりの心を育てる。いたわり合い、助け合う気持ちを自然に持たせること。たとえ教育の場で学ぶことがどんなにハードな中身であっても、同時にそのような躾けが施されるのが、本来のゆとり教育だったのではないだろうか。今や、ゆとりは悪いニュアンスの言葉にされかねない。だが、ゆとりがなくなったら、誰一人救われなくなってしまう。常に緊張した状況の中でストレスにさらされ、one_ofが取れて毎日毎日those_daysになってしまうだろう。 心にゆとりがないと退屈な話をお届けしました。

(2009/05/10)

端塊

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彼らは肉を食う。肉を食うための体になっている。 筋肉隆々の肩から伸びた大きな翼は、上昇気流を効率よく受け取って大空高く舞い上がり、翼の傾きを微妙に調節するだけでそこに留まるという省エネの飛翔を、いともたやすく実現する。 その眼は、どんなに離れていても、わずかな獲物の動きを見逃さず、ほんの少し羽の角度を変えて静かに射程の中に入れて捕獲のチャンスを窺う。次の瞬間、鋭い爪が獲物を挟み込み、そこで初めてバサバサと勝鬨のように羽音を立てて飛び去っていくのである。 同じ肉食でもツバメやウグイスはのろまな虫をついばむだけなので、嘴は真っ直ぐ伸びている。サギやカワセミは水中の魚を素早く捕えるために、やはり抵抗の少ない真っ直ぐな嘴をしている。しかし、彼らのそれは独特の鉤形に曲がり、まさに獣の肉を食いちぎるために作られている。 2億2千万年以上の昔に万物の霊長であった恐竜の生き残りが鳥であるとすると、彼ら猛禽類はあの偉大なるTレックスの遺伝子を受け継いでいるかのようだ。 しかし、その精悍な風貌を見てそのような想像をするのは、無知な人間の勝手な思い込みに過ぎない。タカ、ワシ、ハヤブサ、彼らは優秀な空の狩人。鳥の世界で頂点に立つ種類なのかもしれない。だが、身近にその姿を見ることはほとんどない。 なぜか。彼らは実はきわめて弱い生き物だからだ。彼らは大きな獣を襲うことはない。せいぜい野ウサギやネズミの類である。その小動物が生きる自然が少なければ、彼らは常に飢えと戦わなければならない。イヌやネコを襲うか、あるいはトラやライオンのように人を襲うほどの力があれば、また様子も違ってこよう。しかし、そんなことは決してない。可愛らしい生き物なのだ。 強さとは何か。鳥の中で栄えている種はと思いをめぐらせば、例えばカラス、スズメ、ムクドリ・・・いずれも環境の変化に適応して、したたかに生きているものばかり。生き残るとはそういうことである。ダーウィンはこの事実を発見して進化論を記した。 トビは猛禽類の端くれである。その姿はまさに空の狩人である。しかし、彼らは滅多に狩りをせず、もっぱら動物の死骸を餌にしているという。観光客が帰り支度を始めた夕暮れの空に姿を現し、バーベキューの残飯を狙って急降下を繰り返す。その光景に猛禽としての見栄も誇りもない。だが、彼らはその他の猛禽よりも強く逞しく生き残っていくだろう。 見栄、外聞、誇り、名誉、エトセトラ。誇るべきものを大切に思う気持ちを悪いとは思わない。しかし、それにこだわりすぎて排他行動に傾くとすれば、それはこの国の衰退を促すことになるだろう。新しい世紀になって以来、そういう臭いがプンプンするのが気になって仕方がない。BRICSや隣国その他のアジア圏がどんなに技術力・経済力・政治力を付けてきても、追い抜かれることはないと高をくくっている。あるいは軽蔑すらして、過去の栄光と誇りの中にどっぷり浸っている。 「鳶が鷹を生む」と言って、昔から評価の低い鳥にたとえられる。しかし、実は華麗で勇壮なタカやワシよりも、したたかなトビの強さを見習うべきなのだ。われわれはもっと謙虚にならなければいけない。未来を憂えているならば特に。

(2009/05/04 横須賀市猿島にて)

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