|
| 日常生活の中で、気付いたこと、感じたことを気ままに書きなぐっています。時事や世相、新聞などで気になることもつらつらと。
| |
| 夕べのサッカー日韓戦は深夜にもかかわらず35%という異常な視聴率を記録したそうだ。昨年のワールドカップの活躍以来、日本代表チームは大人気である。かく言う私もサッカーは大好きだ。サッカーのみならず、野球や相撲は子供のころから好きだったし、マラソンやラグビー、フィギュアスケートも面白い。どんなスポーツもよく見る。でも、残念ながら私はサポーターではない。 深夜の繁華街で試合の成り行きに一喜一憂する人々の光景が、ニュースで流れていた。メディアは彼らをサポーターと呼んでいる。サッカーに限らず最近はスポーツファンをそのように呼ぶのが当たり前になった。しかし、彼らは本当にサポーターと言えるのだろうか。このことはずっと気になっていた。 サポートつまり応援という意味だけれど、応援というのは対象が有利になるように助けることだ。だから、例えば競技場に行って競技者に直接声援を送るとか、競技場に行けなくても、例えば贔屓チームの後援会に入って、間接的なサポートをするということもある。要するに、実際の行動が期待する結果につながる可能性があるのが応援だ。だから、応援すれば自分自身が気持ち良くなる。 然るに、ビールを片手にテレビを見ながら興奮したり意気消沈したりすることが、果たしてどれほど競技者の助けになっているのだろうか。これは単なる観戦であって応援とは言えまい。なるほど、贔屓の競技者・チームの勝利を期待する気持ちは同じだけれど、テレビ画面に向かっていくら叫んでも、競技者のパフォーマンスが上がることはありえない。つまり、スポーツをネタにして勝手にストレスを発散しているだけなのだ。が、そのことを悪いとは言わない。私自身が観戦者の一人でしかないのだから。 試合が期待に反する結果となった場合、本当のサポーターならば次は頑張ろうと素直に励ましの言葉を贈ることができるだろう。ところが、単なる観戦者は違う。発散するつもりのストレスが少しも消えないので、それをなんとか紛らわそうと、敗因がどうの判定がどうのと、さながらスポーツ評論家のように試合内容に難癖を付け始めるのだ。競技者は目標に向かって純粋に切磋琢磨し、それこそ血のにじむような努力をしているものだ。だが、彼らはそんなことには興味がなく、期待を裏切った者を気の済むまで容赦なく叩く。実際、そうしたバッシングで選手生命を失い、その後の人生にも影響を残した例など枚挙に暇がない。 なぜ、こんな話をするかというと、期待という気持ちは誰もが持ち得るもので、同じような問題が日常のいたるところに存在するからだ。子供に期待する親、教え子に期待する教師、部下に期待する上司、政治家に期待する有権者などなど。彼らが本当にサポーターとしての行動をとることができるかということだ。 注意しなければならないことがある。期待はその対象が目指している目標と同じでなければ、意味をなさない。子供が芸術家を目指しているのに実業家として期待する親の期待は本当の期待ではない。主体は常に競技者の方にある。そのことを踏まえないと、サポーターとして行動しているつもりで迷惑な観戦者になりかねない。その上で、なお、単なる観戦者あるいは傍観者としか存在しないとすれば、これはもう競技者にとって不幸としか言いようがない。 期待と応援。ファンとサポーター。その違いを踏まえて慎重に行動しなければ相手に迷惑がかかる。そんなことを真面目くさって考える奴なんかいないだろうけれど、励ましの言葉ひとつで良い結果をもたらすかもしれないし、大騒ぎすることでかえって重圧を与えてしまうかもしれない。期待を持つならば、行動にもそれなりの責任が生ずると心せねばならないと思うのである。 夕べの試合。日本チームは実に素晴らしいパフォーマンスを堪能させてくれた。結果、勝利をものにしたが、仮に負けたとしても満足だ。ストレスを発散するために見ているのではないし、一番悔しい思いをするのは当事者であることはわかっている。私はただ次の戦いに期待するだけである。それで良いのだ。サポーターではないのだから。 |
(2011/01/26)
|
| 声を出して挨拶をしても、聞こえぬふり。もちろん、遠巻きに会釈をしても知らんぷりである。それどころか、顔を見ればそそくさと家の中に入ってしまう。そんなに近所付き合いが嫌なのだろうか。一体なにが気に食わないのだろう。別に何をしたというわけでもないのに。 この辺りもみんな年寄りになって、施設に入ったりマンションに移ったりと、顔なじみの住人がどんどんいなくなった。代わって、新しい若い家族が越してきて、大分様子が変わってきた。菓子折りなど持って、丁寧に引っ越しの挨拶をする家もあれば、いつ越してきたのか、わからないような家もある。まあ、菓子折りなどいらないから、同じ町内、せめて顔見せくらいしても良さそうなものだと思うが、そういう気はさらさらないらしい。 出かけるのも自家用車が多いので、顔を合わせる機会はほとんどない。奇妙なのはそういう家のほとんどが犬を飼っており、外で見掛けるのは大抵犬の散歩のときだ。犬は犬好きがわかるから、ときどき出会う人にしっぽを振って近づいていくが、飼い主は意識して紐を引っ張って近づけない。もちろん、ひと言も口をきいたりはしない。そうかと思うと、相手も犬を飼っている場合は、初対面でも実に親しそうに話を始める。これがよくわからない。どうも、犬連れとそうでない人と区別しているみたいだ。 こういう族、年代的には大体30〜40あるいは50くらいまでの働き盛りが多い。近所付き合いは七面倒臭いが、趣味の合う同士や、会社の仕事付き合いなら何かと大事とでもいうのだろうか。これが核家族と言えばそれまでだけれど、意外に子供たちの方が社会性がある。朝、道路を掃いていて、登校途中に大きな挨拶をしてくる、そのほとんどが無愛想な新住人の子供たちなのだから面白い。 挨拶をしない大人たち。近所付き合いを避ける大人たち。恐らく、彼らにも彼らなりの言い分があるのだろう。しかし、勝手な印象を言わせてもらえば、今のこの国が元気がないのは、こういう大人が社会の中心を担っているからかもしれないなどと、穿った見方もしてしまうのである。かつて、この国が強かったのはもちろん多くの要因があるけれども、その一つが、国が豊かになるために、人と人とが結び付きあい、スクラムを組み、励まし合いながら生きてきたからだ。 十分豊かになり、社会の目標が曖昧になり、やがて政治の腐敗、教育の空洞化が始まり、生活格差が顕著になり、人の心も荒廃して、だんだん今のようになってきた。働き盛りは自分の生活を守るので精一杯なのだろう。余計な付き合いには顔を出したくない。ひたすら自分だけの世界に引き籠る大人たちなのだ。 唯一の救いは、子供たちの「おはようございま〜す!」という元気な声。変な知恵を身につけないで、そのまま素直に大きくなって欲しい。挨拶は人間関係の基本だもの。その元気な声を忘れない限り、君たちの未来はきっと明るく開けていくに違いないのだ。 |
(2011/01/25)
|
| メディアの異常な低俗さはわが国だけに留まらないのだなと改めて感じさせられた。確かに運が悪いと言われれば運が悪い。しかし、それをネタに笑いものにする神経が信じられない。 イギリスのBBCといえば日本のNHKに相当する。そんな堅そうな放送局が、日本の被爆者を世界一運の悪い男として笑いものにする。アメリカの大統領が核廃絶を唱えて世界がその方向に動き始めたというこの時期に、無神経を通り越してもはや正気とは思えない。現地の在留邦人が気付いて抗議し、これにBBCと番組制作会社が謝罪することで一件落着という話。 だが、この件、日本のメディアの取り上げ方も地味だし、なにより政府から如何なるコメントも聞こえてこないのはどういうわけだ。唯一の被爆国などと声高には言うが、実際はそれだけ関心が薄いということか。核の恐ろしさは言うに及ばず。実際に被爆した方々の気持ちを思うと、まことにいたたまれなくなる。 それ以上に情けないのは、他人の苦しみや悲しみを嗤うという下劣さだ。なるほど、他人の不幸は蜜の味という諺もある。そんなタイトルのTVドラマがこの国でも流行したし、バラエティ番組は百花繚乱である。諺にあるくらいだから、みんなも納得したような気になって、他人の不幸を嗤う。だが、諺にあれば真理なのか。諺は常に正しいのか。諺だから是としなければならないのか。 もちろん、社会生活を営んでいる以上、誰もが他人に何がしかの迷惑を掛けている。場合によっては他人の犠牲によって生かされている。大事なことはそのことを決して忘れてはならないということだ。まず相手を理解し、相手を思い遣ることこそ是なのではないか。 われわれは他人の不幸を嗤うような下劣な精神にまみれてはならない。下劣な精神丸出しで、国の誇りも何もあるもんか。そうは思わんかね、大英帝国の紳士淑女よ。 そうだそうだと茶々を入れるな、大和民族よ。現状を見る限り、われわれも他人のことは言えないぞ。そう言えば、ここ数日タイガーマスクの話題を聞かなくなったな。したり顔で一時のブームにするべきではないなどと言っていたメディアがもう店仕舞いかね。 |
(2011/01/22)
|
| この記事自体、理屈で能書きじゃないかと言われれば返す言葉はないけれども、まあ独り言を呟いているだけだと思って読みとばして欲しい。 昨年暮れのクリスマス、群馬県の児童相談所で「子供たちのために使ってください」というメッセージと共に10個の新しいランドセルが玄関前に積まれていた。贈り主は不明で、メモに古い人気漫画の主人公の名前が記されていた。このニュースが配信されると、各地で同様の寄付が行われるようになり、短い期間に日本全国に広まり、「タイガーマスク現象」とか「〜運動」などと呼ばれるようになった。 この寒風吹きすさぶ世知辛い世の中に、人の温もりを思い出させる良い話だと素直に思う。こういうことには誰も批判できまいと思うのだが、ときどき奇妙な違和感を覚えるコメントに出合う。気になりだすとなんとも気になって仕方がない。 最もよく聞かれるのは「一過性のブームに終わって欲しくない」というものだ。が、全国で児童相談所は約200か所、児童養護施設は約580か所、それ以外にも障害を持つ児童の福祉施設などを数えれば、ほんの一部の施設に行われただけで、これがブームと呼べるのだろうか。今からそんな心配をしてブレーキを掛けていたら、結局ただの話題で終わるのではないか。実際、早くも「マスコミが騒ぎ過ぎ」という批判も聞こえる。 これが欧米だったらどうだろう。ハリウッドの映画会社から見れば、こんなに美味そうな映画の題材はない。メディアはこぞって世間を煽り、大きな社会運動にしようとするに違いない。そう考えると、これまでの日本のメディアの取り上げ方はまだまだ中途半端で、もっともっと大騒ぎしても良いように思える。一過性を心配するのは本当のブームになってからでも遅くない。 騒ぎ過ぎで食傷気味だという声の裏には、マスコミはもっと重要な問題を取り上げるべきだという意見がある。確かに政治や社会問題は重要だが、実際のところ、それらはほとんど政局の話に終始して、こちらの方がもっと食傷していると言いたい。 一方、日本は寄付という行為が下手な風土だという指摘がある。寄付などというのは金持ちの道楽であって、普通の人が大っぴらにやると売名行為と揶揄される。福祉は国の責任であり、普通の人は税金という形で関与していると考えて、それ以上の行動はしない。 しかし、本当に日本人はそんな風に善意を示すのが苦手な国民なのだろうか。昔、誰もかれもが貧乏だった頃は「苦しい時はお互い様」と言って、ごく自然に助け合いながら暮らしていたものだ。元々慈愛の精神がある国民だと私は思いたい。今回このような運動が広がっているのは、そんな日本人が普通に持っていた気質にあるのだと思う。 「堂々と名乗り出るべきだ」という意見もある。が、先述したように名乗り出れば、あることないこと取り沙汰される。「普通の人」は面倒には巻き込まれたくないし、名乗らずに去る方が奥床しいというものだ。「贈り主の自己満足」という批判も聞こえる。それでも良いではないか。いずれにしても、贈られた側は有難いと喜んでいるのだ。 あるバラエティで「ムダになるかもしれないから品物でなくお金で贈るべきだ」と述べる人がいた。あるいは「寄付を取りまとめる団体に任せる方が効率的だ」「施設の子供は孤児ばかりでなく、様々な事情があって入っていることも考慮すべきだ」と。こんなコメントで立派なコメンテーターと言われるのだから呆れてしまう。ムダになるかどうかは寄付が行われた後の話で、今語ることではない。善意を批評することで金をもらっている哀れな奴ら。 「自分のところにもやっと贈られてきた」と言って喜んでいる施設関係者を見て、それはちょっと違うんじゃないかと首を傾げるタレントがいた。違っているのはお前の方だ。施設運営が苦しければ、他人の善意をあてにしたくなるのは当然の気持ち。他所で慈善の寄付があれば、うちにもと思うのが自然な心情だ。恵まれた生活にどっぷり浸かっている輩には理解できまい。 善意に理屈や能書きはいらない。自己満足で結構、匿名で結構、結果としてムダになっても良いではないか。だれもが自然に善意を示すことのできる社会になること。その行為が誰からもカッコイイと思われるようになること。そちらの方が大事だと思うし、素晴らしいことだと思う。 戦後、アメリカナイズが次から次へとブームになった。その一つがクリスマスのプレゼントで、今ではすっかり家庭行事の中に定着している。大いに煽って、大きなブームになれば良いのだ。大きなブームになればクリスマスやバレンタインデーのように一般化するもの。 |
(2011/01/13)
|
| 変革を期待して政権交代を実現させたのに、実際のところ世の中何も変わらないどころか前よりも悪くなっているような気がする・・・と言ってしまえば、そこら中のメディアが言っていることと変わりがないし、だれもかれもが同じ思いで不満を募らせている。 今さら、現政権に期待する気も起きないが、さりとてそれに代わる政治勢力も見当たらない。昔の政権党は政権奪還しか頭にないから政局と与党の揚げ足取りしか語らない。残りの少数野党は相変わらずの原理主義机上論ばかりである。政治に期待ができないという現実は、国民から生気を失わせるばかりだ。 が、政治よりもっとたちが悪いのがメディアの世論誘導。なんで彼らの興味は政局しかないのだろう。それが本当に国民の最大の関心事だと本気で思っているのだろうか。確かに今の政治には不満である。しかし、不満だからと言って頭を挿げ替えるだけで世の中が良くなるなんて、一部の国粋主義者を除いてだれも思っていない。そんなことみんなわかっている。 メディアの調査によれば、国民が一番不満に思っているのは、政治が何を目指しているのかわからない、何ができるのかわからない、何もしてくれない、何も説明してくれないというものだ。自分でそのような調査をしていながら、持ち出す話題は政局ばかりとは、こいつらどこか思考回路が変だ。その政局も、発言の言葉尻を捉えた低次元のところで騒いでいるだけ。政策の議論など望むべくもない。 挙句、現職の総理が画面に顔を出すとみんなチャンネルを変えるようになってしまった。顔を見るのもうんざりというほど、今の政治に辟易しているのである。政治番組の視聴率はめちゃくちゃ低い。そうした事態を招いたのは今の政権の無能無為無策だと言い、話を再び国盗り物語に誘導しようとする。 そんな中、現総理がインターネット配信のニュース番組に初めて出るというので、全く期待はしていないが、宮台真司氏という骨のある社会学者が質問者として登場すると聞き、少し興味を持って覗いてみた。1時間半ほどの中で、曲がりなりにも政治の方向や政策についての議論が展開されていた。繰り返すが、現政権にもはや期待はしていない。しかし、無条件に批判する前に政策についての考えを聞くことができるのは大変重要なことと思う。小沢一郎氏のインターネット会見についても同様のことが言える。 マスメディアがいかに薄っぺらい政局以外話題にしないか。次の映像を見るとよくわかる。上の議論の核心部分はすべて割愛されて、最後に付け足しで述べた政権維持のことしかニュースに流さない。本質的なところが全く国民に伝えられておらず、政権に恋々と固執するイメージだけが残るのである。 |
| 沖縄基地問題、尖閣問題、赤字財政、少子化問題、消費税、TPP、温暖化ガス規制・・・そもそもそれらが具体的にどういう話で、どういう問題があり、どのように解決していくべきものなのかの理解も議論も求めず、たとえ解説をしたところで専門的で一般の素人にはわかりにくいものばかり。単に良い悪いの評価だけを前面に出して、現状を否定し、国民の不安と不満を煽る。マスメディア。一体、彼らはこの国をどうしたいというのだろうか。彼ら自身の責任(やるべき仕事)をどう考えているのだろうか。 所詮、視聴率を上げ、売り上げ部数を増やすことしか興味がないのだろうけれど、これではだれもメディアを信用しなくなる。信用しなくなるというのはだれも見向きもしなくなるということだ。気が滅入るばかりで、ちっとも面白くないもの。そんなこともわからないのだから、とても正気とは思えない。正気でない者の話をまともに聞くわけにはいかない。 日本にジャーナリズムはない。日本のメディアにいるのはジャーナリストではなくアジテーターばかりである。彼らが当然だと述べている事ほど、疑ってかかるべきだと思わずにいられないのである。 |
(2011/01/08)
|