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学問は活用を尊ぶ。万巻の書を読んでも、学んだことを活用しなければ役に立たない。『論語』(里仁第四)に「家を求めるには、仁に厚い気風の村がいちばんだ。住む場所を選ぶのに、仁義の村を選ばなければ、とてめ智者とはいえない」とある。これは実に名言だ。
とはいえ、各地を遊歴する者や借家人などは、選んで「仁の村」に住むことができるが、田畑・山林・家蔵を所有する者にとっては、どんなに仁義に厚い村があったとしても、その村に引っ越すことはできない。しかし、だからといって、その「不仁の村」に不快感を感じながら住んでいるようでは、智者とはとうていいえないのである。 さて、きっぱりと「仁義の村」に引っ越す者がいたとしても、私はそれを智者とはいわない。それは書物を読んで、その学んだことを活用することを知らない愚者というべきである。 【二宮翁夜話】 せっかくの学問も活用しなければ意味がない。私も学んだことを活用できない愚者の一人だ…。 「不仁の村」を「仁義の村」に改めることができるのが学問であるということだ。それを成し遂げたのが二宮尊徳の功績でもあるのだ。荒廃していた「不仁の村」の気風を一新して、「仁義の村」へと復興を遂げさせた。 「不仁の村」を「仁義の村」にすることは難しそうに思えるが、尊徳は「難しいということはない」と言う。まず自分が仁義の道を行い、自分の家を「仁義の家」になれば、その村は必然的に「仁義の村」になるのだ。 「修身斉家治国平天下」(大学)というように、改革はまず自分自身からということだ。いつまでも「不仁の村」であるならば、それは自分自身が改まっていないということだ。 人は「不仁の村」から逃れて、「仁義の村」に行きたいと憧れを抱く。 しかし、「不仁の村」を改めることができない者は、たとえ「仁義の村」に行ったとしても、そこが「不仁の村」となる。「不仁の村」から逃れて来た者は、どこへ行っても行く先は「不仁の村」となってしまうでしょう。 ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 |

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