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			<title>有り難う！ハレルヤ！マラナサ！</title>
			<description>ご訪問感謝します！
神様にいつも感謝と賛美を捧げ、主イエスの再臨を待ち望む者のブログです。
有り難う！
ハレルヤ！
マラナサ！</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onagikent</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>有り難う！ハレルヤ！マラナサ！</title>
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			<description>ご訪問感謝します！
神様にいつも感謝と賛美を捧げ、主イエスの再臨を待ち望む者のブログです。
有り難う！
ハレルヤ！
マラナサ！</description>
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		<item>
			<title>禍は上より起こる</title>
			<description>《諺(ことわざ)に云う、禍(わざわい)は下(しも)より起こると。余(よ)謂(い)う、是れ国(くに)を亡(ほろぼ)すの言なり。人主(じんしゅ)をして誤りて之(これ)を信ぜしむ可からずと。凡(およ)そ禍(わざわい)は皆(みな)上(かみ)よりして起こる。其の下(しも)より出(い)ずる者と雖(いえど)も、而(しか)も亦(また)必ず致(いた)す所有り。成湯(せいとう)の誥(こう)に曰く、爾(なんじ)、万方(ばんぽう)の罪(つみ)有るは予(わ)れ一人(にん)に在りと。人主たる者は、当(まさ)に此(こ)の言を監(かんが)みるべし。》（言志録１０２）&lt;br /&gt;
ことわざに「禍は下より起こる」とある。自分はこう思う、「これは亡国の言葉であり、上に立つ者をして誤ってこれを信じさせてはいけない」と。すべての禍は上より起こるものである。下から出た禍でも、また必ず上に立つ者が、働き掛けて起こるものである。殷(いん)の湯王の誥(こう)に、「汝ら四方の国々の人民に罪悪があるのは、自分一人の責任である」とある。人の上に立つ者は、まさにこの言葉を手本とするべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
下々の民が悪いと上に立つ者が言う国は亡ぶ。国の興亡は民の責任ではなく、上に立つ者の責任である。&lt;br /&gt;
国だけではなく、学校や職場で、生徒がダメや部下がダメなどという人がいたりする。&lt;br /&gt;
先生や上司が変わらなければ、学校も職場も変わる訳がない。リーダーが出来れば変わる。停滞している何かを変えるには上を変えるしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上に立つ者が下の者の悪口を言うことは、自分の無能さを認める無責任な弁えのない態度である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルカ22:25､29&lt;br /&gt;
25 異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。&lt;br /&gt;
26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「仕える」と訳されたギリシャ語「ディアコネオー」は、「配慮する」「提供する」という意味の言葉です。仕えると言うと、下働きのようでもあるが、上に立つ者の一番重要な役割が「心遣いをする」、「必要なものを提供する」ことにあると聖書は示してくれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
心遣いのない者が上に立つことは禍だ。その点では野田首相は禍とならないのかと思うが…。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onagikent/6073741.html</link>
			<pubDate>Sat, 24 Sep 2011 22:01:08 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>雨の弘前路</title>
			<description>真向法の月例会に行って来た。台風が近づいているようですから、あいにくの雨で岩木山も見れませんでしたが、久々に他人から補導体操（ペアストレッチのような体操）をしていただいた…。いつも他人に施してばかりであったので有り難かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今年百歳になった弘前の斎藤会長の母である梅子さんが、野田総理大臣から賜った表彰状と記念品を見せていただき、梅子さんを囲んで記念撮影をした。実に和やかな例会でありました。でも、菅さんの名前でなくて良かった？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰り道に「きみまち阪」を通過した。今でこそ立派な道路とトンネルと陸橋などで通行することができるが、「きみまち阪」と名付けられた頃までは船で通るしかなかったようだ。参勤交代の道中もこの辺りだけ船で通過したそうだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1881（明治14）年の明治天皇の東北巡幸の際に、皇后は「大宮の　うちにありても　あつき日を　いかなる山か　君はこゆらむ」という歌をしたためた手紙を出し、ここで天皇の到着を待ったと伝えられている。この翌年に明治天皇により、ここは「きみまち阪」と命名されたそうだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「きみまち阪」は君を待った阪なのだ。キリスト者は、皇后が天皇を待ったように、主であり君でもあるキリストを待っている。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onagikent/6017582.html</link>
			<pubDate>Wed, 21 Sep 2011 20:47:39 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>周公</title>
			<description>《或(ある)ひと疑う。成王(せいおう)、周公(しゅうこう)の三監(かん)を征(せい)せしは、社稷(しゃしょく)を重んじ人倫(じんりん)を軽んぜしに非(あら)ずやと。余(よ)謂(い)う、然(しか)らずと。三叔(しゅく)、武庚(ぶこう)を助けて以て叛(そむ)けり。是は則ち文武(ぶんぶ)に叛(そむ)きしなり。成王、周公たる者、文武の為に其の罪を討(とう)ぜずして、故(ことさ)らに之を縦(ゆる)して以て其の悪(あく)に党(くみ)せんや。即(すなわ)ち仍(な)お是れ人倫(じんりん)を重んぜしなり。》（言志録１０１）&lt;br /&gt;
ある人は疑っていう。「成王と周公が三人の監督を討伐したのは、国家を重んじて、人倫を軽んじたのではないか。」と。&lt;br /&gt;
自分は答える。「そうではない。三人の叔父は、武庚を助けて成王に反逆した。これは周の祖先の文王、武王に背いたことと同じである。成王と周公は自分たちの祖先のために、その反逆者を討伐しないで、なすがままにして、その悪に組することができようか。即ち成王と周公は人倫を重んじた。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
成王とは、易姓革命後、わずか二年で崩御してしまった父の武王の後を継いで即位した周王朝（紀元前1046年～紀元前256年）二代目の王。&lt;br /&gt;
当時はまだ周の政治体制は安定しておらず、殷の帝辛（紂王）の子の武庚（禄父）や武王の弟達（三監・三叔）の謀反などが相次ぎ、国情は不安定であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
周公とは、文王の第四子で、初代武王の弟である。兄・武王の補佐を勤め、さらに武王が亡くなると、幼少の成王を補佐して建国直後の周を安定させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三監（三人の監督）、三叔（三人の叔父）である成王の三人の叔父たちは、周公の兄弟たちでもあるが、その三人は反逆したのだ。&lt;br /&gt;
それを「三監の乱」という。殷の帝辛の子の武庚（禄父）は三監に監視されていたが、三監は武庚を担ぎ上げて乱を起こしたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その五百年後に、孔子は周公を理想の聖人と崇め、常に周公のことを夢に見続けるほどに敬慕したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
【甚(はなはだ)しきかな、吾(わ)が衰えたるや。久しきかな、吾(われ)復(また)夢に周公を見ず。（論語）】&lt;br /&gt;
私の衰えも甚しいものだ。理想の人として尊敬してやまない周公の夢を見なくなって久しいなあ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私には憧れる人はいないが、待ち焦がれ夢に見る方ならいる。&lt;br /&gt;
主イエスよ来てください。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onagikent/5991929.html</link>
			<pubDate>Tue, 20 Sep 2011 11:01:47 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>足りることを学ぶ</title>
			<description>今日は、礼拝の後でギデオンの例会があったから、教会で６時間も過ごした。夜勤明けの身には少々きつい…。最後の方は「早く終わってくれ」と祈るような気持ちでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「いつも主にあって喜びさい。もう一度言います。喜びなさい。」（ピリピ4:4）と、礼拝で語られていたが、眠気に喜べなかったのだ。&lt;br /&gt;
その礼拝では、「満ち足りる心」と題して説き明かしていたが、私の思うことを述べたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピリピ4:11&lt;br /&gt;
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は満ち足りることを充分に学んでいないのだ。パウロに比べたら学び方が甘いのだ。もっと苦労しなければならない。パウロのように死ぬほどの苦労を…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
禅語の「足るを知る」という言葉があるが、この程度ではなく、あらゆる境遇で「足りることを学ぶ」ことが必要なのだ。&lt;br /&gt;
何だかんだと言いながらも、衣食住すべてが守られていることを知って感謝することが「足るを知る」ことだが、知って学ぶことが「足りることを学ぶ」ことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足りていることを知って学ぶことで何を学び得るのだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ピリピ4:13&lt;br /&gt;
私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でき、、るのだ。&lt;br /&gt;
まだまだ学び足りないようです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onagikent/5955672.html</link>
			<pubDate>Sun, 18 Sep 2011 16:03:51 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>娑婆訶</title>
			<description>ある信者の婆さんが明治の禅門禅界で名僧と言われた西有穆山（にしありぼくざん1821～1910）という方を尋ねた。この耆宿(きしゅく)は曹洞宗の総持寺(そうじじ)住職で天皇の勅により直心浄国禅師の号を賜っており、近代稀有の道元禅の奥義を極めた人といわれております。横浜の西有寺というお寺におったが、その婆さんが西有穆山老僧のところへ行って、何か一つ心得になることを教えてきださいとお願いしたのです。よしよしと、お前は一生この呪文を唱えろと言うて、こう書いて与えた。&lt;br /&gt;
「おんにこにこ、はらたつまいぞや、そわか」&lt;br /&gt;
と。「怒るなよ、そうだよな」ということてあります。　【現代活学講話選集４『人生の五計』】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「おんにこにこ、はらたつまいぞや、そわか」の「そわか」とは「娑婆訶」のことです。&lt;br /&gt;
般若心経の最後に「娑婆訶」と書かれています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)　／　往ける者よ  往ける者よ&lt;br /&gt;
波羅羯諦(はらぎゃてい)　彼方の岸へ往ける者よ&lt;br /&gt;
波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)　／　彼方の岸へ全く往ける者よ&lt;br /&gt;
菩提娑婆訶(ぼうじそわか)　／　悟りよ  幸あれ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「娑婆訶」とは「幸あれ」という言葉のようですが、安岡の解説によると、「そうでしょ、そうでございますね」と駄目を押す言葉でもあるという。&lt;br /&gt;
そうすると「娑婆訶」は、聖書の「アーメン」にも通じる言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「アーメン」には、「その通り」「本当に」「確かに」という意味があるが、祈りの最後に使う言葉でもあり、「幸あれ」という、祈る思いも合わさっているような言葉です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「アーメン」と言える人は本当に幸いな人です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
般若心経の最後が「娑婆訶」なら、聖書の最後の言葉は「アーメン」です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黙示録22:21&lt;br /&gt;
主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onagikent/5931065.html</link>
			<pubDate>Sat, 17 Sep 2011 09:39:28 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>朋友有信</title>
			<description>五倫についての最終回です。&lt;br /&gt;
五倫とは儒教における五つの道徳法則であり、「父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信」の五つである。今日は五番目の「朋友の信」です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
【朋友信あり〈朋友有信〉】&lt;br /&gt;
朋友の関係は信義を本とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五倫の一番最後が「朋友の信」ですが、五倫の徳目すべては『教育勅語』の十二の徳目の中に網羅されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
【教育勅語の十二の徳目】 &lt;br /&gt;
《孝行》親に孝養をつくしましょう&lt;br /&gt;
《友愛》兄弟・姉妹は仲良くしましょう&lt;br /&gt;
《夫婦ノ和》夫婦はいつも仲むつまじくしましょう&lt;br /&gt;
《朋友ノ信》友だちはお互いに信じあって付き合いましょう&lt;br /&gt;
《謙遜》自分の言動をつつしみましょう&lt;br /&gt;
《博愛》広く全ての人に愛の手をさしのべましょう&lt;br /&gt;
《修学習業》勉学に励み職業を身につけましょう&lt;br /&gt;
《智能啓発》知識を養い才能を伸ばしましょう&lt;br /&gt;
《徳器成就》人格の向上につとめましょう&lt;br /&gt;
《公益世務》広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう&lt;br /&gt;
《遵法》法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう&lt;br /&gt;
《義勇》正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書で「朋友の信」というと、ダビデとヨナタンとの関係を思い出す。&lt;br /&gt;
ダビデの命を執拗に狙い続けるサウル王は、ヨナタンの父親であった。また、神に選ばれた人であるダビデは、本来ならサウルの後を嗣ぐ王子ヨナタンを押しのけて、新しい王になるはずでした。このように敵対し合う運命にありながら、二人が助け合う友となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
?サムエル18:1&lt;br /&gt;
ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
心と心とが結びつくことこそ「朋友の信」といえる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onagikent/5907783.html</link>
			<pubDate>Thu, 15 Sep 2011 20:55:48 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>長幼有序</title>
			<description>五倫についての四回目です。&lt;br /&gt;
五倫とは儒教における五つの道徳法則であり、「父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信」の五つである。今日は四番目の「長幼の序」です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
【長幼の序あり〈長幼有序〉】&lt;br /&gt;
長幼の間は秩序をもととする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
年少者は年長者を敬い、年長者は年少者を慈しむ。&lt;br /&gt;
「長幼の序」が守られてこそ、良好な対人関係が築かれるし、この秩序により平和な社会までもが保たれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「長幼の序」は、現代の民主主義的な『水平的な平等』ではなく、古風で封建的な『垂直的な区別』であり、年齢差による序列によって上下関係を明確にするものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『垂直的な区別』は「長幼の序」だけではなく、君子・士大夫といった身分が上位の者を崇敬する「忠義・礼節の徳」というのもあり、これらが社会に行き渡っていれば、下位の者が上位の者の地位を脅かす恐れがないので社会が平和になり安定するという。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
複数の人間や集団がいて、どちらが上でどちらが下か分からない状況では、双方が相手よりも自分の方が上であると主張して、対立と紛争が続いてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨブ32:9&lt;br /&gt;
年長者が知恵深いわけではない。&lt;br /&gt;
老人が道理をわきまえるわけでもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『垂直的な区別』と『水平的な平等』も、人間が考え出したものであるから、長期的な未来永劫の社会の安定と平和は実現しない。そのことは歴史が証明している。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onagikent/5888758.html</link>
			<pubDate>Wed, 14 Sep 2011 16:11:21 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>夫婦有別</title>
			<description>五倫についての第三弾です。&lt;br /&gt;
五倫とは儒教における五つの道徳法則であり、「父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信」の五つである。今日は三番目の「夫婦の別」です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
【夫婦別あり（夫婦有別）】&lt;br /&gt;
夫婦の関係は礼をもととする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「夫婦別あり」とは夫婦別姓のことではないし、別居や離婚するということではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夫と妻には、それぞれに別々の役割りがあるということである。それを果たすことは義務であり礼儀でもあるが、男女差別や男尊女卑であると非難されそうだ。でも、神は男と女とを別あるように創造されたのだ。だから、聖書には次のように書いてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エペソ5:22&lt;br /&gt;
妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同5:25&lt;br /&gt;
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『中庸』に「君子の道は端〈始め〉を夫婦に造(いた)す。その至れるに及んでや天地に察(あき)らかなり」とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家庭とは一人では成り立たない。男女一対となり夫婦相契ることが発端となりできるもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夫が妻を愛すること、妻が夫に従うこととは、キリスト者の踏み行う道であるが、君子の道でもあるということだ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onagikent/5858986.html</link>
			<pubDate>Mon, 12 Sep 2011 17:58:32 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>君臣有義</title>
			<description>今日も昨日に続いて五倫についてです。&lt;br /&gt;
五倫とは儒教における五つの道徳法則であり、「父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信」の五つである。今日は二番目の「君臣の義」です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
【君臣の義あり（君臣有義）】&lt;br /&gt;
君主と臣下の間は義をもととする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書には多くの君主（王）が登場しているが、キリスト者にとって君とはイエスである。そうであるならばイエスとの間に義はあるのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ3:22-24&lt;br /&gt;
22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。&lt;br /&gt;
23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、&lt;br /&gt;
24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト者には、キリストを信じるだけで義とされるという「信仰による義」がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
理想的な「君臣の義」というと、『三国志』の劉備玄徳と諸葛亮孔明を思い出す。&lt;br /&gt;
「君臣水魚」「水魚の交わり」という劉備玄徳の言葉がある。&lt;br /&gt;
君主である劉備が自分と臣下の孔明の関係を、水と魚のような関係であり、なくてはならない大切な間柄であると称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエスとキリスト者との関係も水と魚のような間柄である。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onagikent/5826204.html</link>
			<pubDate>Sat, 10 Sep 2011 21:22:18 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>父子有親</title>
			<description>昨日の記事に書いた人倫（五倫）について詳しく考えてみたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五倫とは、儒教における五つの道徳法則であり、主に孟子によって提唱された。仁義礼智信の「五常」とともに儒教倫理説の根本となる教義である。「父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信」の五つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
【父子に親あり（父子有親）】&lt;br /&gt;
親子の間を親愛の情で結ぶこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五倫の一番目が「父子の親」ということは意味深い。&lt;br /&gt;
父子とは、親子関係であるが、親と子とは親愛の情で結ばれないこともある。子は親に従わず、親は子を怒らせる…。互いに自己正当化するだけで理解し合うことがない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書には「主にあって子は両親に従いなさい」（エペソ6:1）と書いているし、「主の教育と訓戒によって育てなさい」（同6:4）とも書いてある。&lt;br /&gt;
主にあって子は親に従い、主にあって親は子を育てることができれば、親愛の情に固く結ばれた親子となるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私も子であり親でもあるが、「親の心子知らず」「子の心親知らず」に陥ることが多い…。それでも幸いなことに、親愛の情だけは失われていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書で父と子というと、天の父なる神と御子キリスト。この父子の関係が理想的な親子関係ではないだろうか。&lt;br /&gt;
そんな天の父なる神の子となるべく、その間を取り持つのがキリストでもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨハネ1:12､13&lt;br /&gt;
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。&lt;br /&gt;
13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五倫の一番目だけで長くなったので、五倫一つ一つをじっくり考えたい。　《続く》</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/onagikent/5803871.html</link>
			<pubDate>Fri, 09 Sep 2011 17:53:32 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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