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私は、とある男性に恋をした。
飲み会の席で知り合ったその男性は、小説家志望だと言った。
感想を聞かせて欲しいと差し出された書きかけの小説を読んで、私は感動の涙を流した。
男性は、どうしてもオチを上手く表現できないと嘆いていた。
彼の頭の中には、とても素敵なハッピーエンドが描かれているようなのに、文面に上手く表すことがどうしても出来ないようだった。
私は思った、この小説に入ってみたいと。
この小説ならば結末も分からないし、何よりも彼の書いた小説に入り込むなんて、考えただけでも心臓が止まりそうなぐらいに嬉しくなってしまう。
私は彼に、原稿を貸して欲しいと頼んだ。
一日限定だと念を押され、原稿の入った封筒を受け取ると、私はそれを胸に抱え、一目散に家路へと走った。
玄関のドアを開け、靴を脱ぎ捨て、階段を駆け上った。
自室へ入る寸前に、背後から弟に声を掛けられた。
「どうしたの?姉ちゃん」
私は振り返り、弟に言った。
「やっぱり私は、たった一人の人にでもいいから、生きているうちに何かを残したい」
弟は「久しぶりに聞いたよ、その口癖」と言って笑った。
自室の押入れから魔法の靴を取り出して、それを無理やり履いた。
靴擦れが出来そうなぐらいに痛い。
でも、そんなことはお構い無しに、椅子に腰掛けると、彼から借りた原稿を広げた。
私は一瞬にして彼の物語の主人公となった。
本日姉が亡くなった
享年81歳
結局姉の意識が戻ることはなかった。
もう長い間、会話すらしていない…
それでも不思議と悲しいものだ…
姉はずっと「たった一人の人にでもいいから、生きているうちに何かを残したい」と言っていたが
結局何も残せなかったようだ。
さぞ無念だろう…
そう思うと、なんだかとても悔しく思う。
死因は老衰だった。
60年間も意識が戻らなかったのだ。
最後に発した言葉が「やっぱり私は、たった一人の人にでもいいから、生きているうちに何かを残したい」だった。
机に突っ伏したまま、誰のものかわからない原稿を広げたまま意識を失っていたのだ。
意識をなくした原因も、病名も、結局は分からずじまいだった。
姉はどうしてあんな小さな靴を履いていたのだろう…
そして、あの結末のない物語は、どこで手に入れたのだろう…
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